サン・ビストロ大食堂
夜明け前に目を覚ませばいい。
東の大陸を旅する者の合言葉だ。
ほとんどの魔物が昼行性である東の大陸では、夜明け前に目を覚ましさえすれば、野営でも安眠を得られる。
それを忘れず明日も生きて目を覚そうという、注意喚起のようなものなのであろう。
しかし、ニグルは仲間以外の冒険者や旅人と交流を持たずに過ごしてきた。
だから、そんな合言葉は知らない。
ただ何となく、早起きをすれば良さそうだと思っていた。
何となくだから、意識が足りない。
トシの外のテントの中では、すっかり陽が昇った後も、ニグルが目を覚まさずにいた。
「ヒロくん!生きてる!?起きて!目を開けて!」
ニグルが息をしていない。
エルは必死になって声をかけながら、ニグルの体を揺すった。
「・・・」
返事が無い。
「ヒロくんってば!」
「・・・がっ、ぐがぁぁぁぁぁぁー」
ニグルは無呼吸症のようだ。
「いきなり魔獣の咆哮のような声が聞こえてきたから驚いて駆け付けたんだけど、ヒロくんだったのね」
無遠慮にテントに顔を突っ込む美しいシルエットが見えた。
エイダである。
後続していたエイダとモリとルルは、夜を徹して移動を続け、今、ニグルとエルに追い付いた。
「エクレア食べたい。あぁ、お母さん。おはよう」
ようやく目を覚ましたニグルが、寝ぼけ眼でエイダに挨拶をした。
「臭い!」
ニグルの口から放たれる悪臭に、エイダは顔を歪ませた。
この匂いは、大人の男の証である。
エイダが言う。
「ヒロくん、すごいイビキだったわよ」
ニヤニヤしながら、ニグルが言う。
「母さんも無呼吸症だったよね。よく一階から聞こえてきたわ。おっさんみたいなイビキが」
「うるさい!今は静かよ!」
ニヤニヤするニグルと、赤面しながらムキになるエイダを見て、エルは苛立った。
苛立ったエルは、おもむろにニグルの口を自分の唇で塞いだ。
「私は、こんなに臭い口でもキス出来る。ヒロくんの口だから」
エルなりに対抗心を持っての行動なのだろう。
しかしそれは、周囲の者の理解の範疇を超えていた。もしくは理解の範疇から逸れていた。
「そ、そう。妬けるわね」
そういうエイダの声音には、妬心は微塵も感じられなかった。
ニグルの寝起きの口臭漂うテントの中で、ニグル一行はミーティングを行った。
タニのこと、ミッシェルのこと、トシの内部のこと。
それらを報告し、
「とりあえず、みんなでミッシェルに会いに行こうか。モリ、母さんの服は出来てる?」
エイダは元いた世界で死んだ後、この世界に生まれ変わった転生者である。
まさに文字通り他界したのである。
着ている服はこの世界の、元いた世界で言うところの中世の雰囲気を持つものであり、転移者のふりをして潜入するには不利である。
そこで、
「作りました!ニグルさんとペアルックになるようにボーダーの服にしました!」
モリが、ニグルが愛用するバスクのシャツと同じ柄のシャツを広げた。
「あらぁ、モリくん気が利くわね」
エイダが、珍しくモリを褒めた。
モリは、だらしない笑みを浮かべた。
「何でエイダさんがニグルさんと同じ服着るんですか!なんか嫌だ!」
エルが拗ねた。
「エル、大丈夫だ。生地が違う。バスクのシャツのこの生地には、モリ如きでは再現出来ない歴史の重みが編み込まれている。そもそもこのシャツはフランスとスペインにまたがるバスク地方の漁師が」
ニグル節が始まろうとしていた。
「わかった」
わかってはいない。
話が長くなりそうだから、エルは適当に返事をしただけだ。
「そうか・・・」
ニグルはわかっている。
エルは、ニグルの講釈を不快に思っている。
「サイズぴったり!モリくん、よく私のサイズわかったわね」
モリが作ったバスクのシャツに似たシャツを着たエイダが、驚きの声を上げた。
「寝ている間に採寸させてもらいました!」
つまり、エイダが寝ている間に、モリはエイダの肩幅やバストの寸法を測ったということである。
エイダは、顔を青ざめさせた。
「本当に気持ちの悪い豚ね」
エイダが吐き捨てた。
モリは、恍惚の表情を浮かべた。
ニグルとエルは、エイダとモリとルルを連れて、再びトシの門まで来た。
「ちん毛ヘッド、通るぞ、文句あるか?」
「あぁ?ねぇよロリコン。とっとと通れ」
冒険者のカトウと、トシの門衛のカトウ。
これはまさに水と油。
カトウはニグルのことのが気に食わない。
しかし、ミッシェルからトシへの出入りの自由を認められているため、ニグルの通行を妨げるわけにはいかない。
「昨日より人数増えてんな。そいつらまで出入りの自由まで認められてるわけじゃないよな」
カトウは意外と、真面目な門衛である。
「カトウさんって言うの?門衛?おしゃれな門衛さんなのね。素敵。ね、ルルちゃん」
エイダが、カトウに色目を使った。
「そうだねー。私、元いた世界でセレクターと付き合ったことあるの。なんか、懐かしいな」
「セレ・・・何?」
ルルが口にした横文字が、転生しなければ還暦を過ぎているエイダにはわからない。
「セレクター。DJのことをレゲエだとセレクターって言うの」
「あー、ラジオの」
「ちょっと違う」
ジェネレーションギャップを感じ、ルルは戸惑った。
「えー、可愛い子たち連れてんねぇロリコンヒロくん。俺も仲良くなりたいなー」
真面目な門衛のカトウが、ただの若者に戻った。
「用が済んで時間があったら、また会いに来るね」
ルルが微笑んだ。
ちなみにルルは、エイダが元いた世界風の服を着ているにも関わらず、胸当てと草摺、褌を身に付けている。
正真正銘の転移者であるルルだからこそ、後ろめたさ無くできる服装なのだろう。
褌は、ルルなりの周囲への気遣いなのだろう。
しかしそれでも、初対面のカトウなのだから、門衛の職務として異装の人物を誰何すべきであろう。
しかしカトウは、それをしなかった。
ルルの色香は、責任感をも崩すのか。
「待ってるよー。絶対来てね」
カトウは嬉しそうに、ルルに微笑みかけた。
「あいつ、鼻詰まってんのかな。ルルの汗臭さに気付いてなかった」
ニグルは、門衛のカトウのことを小馬鹿にした。
しかし、それに応える者はいなかった。
「あ、カトウさん。今日も来て下さったんですね」
ニグル一行が門を通り抜けると、そこにタニがいた。
「タニさん、迎えに来てくれたの?どうやって俺が来たのを知った?」
ニグルは、不気味に思った。
「いえ、僕は毎日外に出ているんですよ。見回りです」
「そうか。たまたまか」
スキルも無ければ戦闘力も無い。
そんなタニが何故見回りなのかとは、ニグルは思わなかった。
「今日はどうされたんです?お連れの方が増えてますけど」
タニは、爽やかに問い掛けた。
「俺のパーティーのメンバー。今朝合流したんです。みんな転移者。今からミッシェルリーダーにみんなを紹介しに行こうと思ってんです。みんな転移者だから。本当に」
たどたどしい。
ニグルは、アドリブで誤魔化すのが、得意ではない。
「・・・そうなんですね」
タニの眉間に皺が寄る。
「今日は昼から集会があるから、その時に行くといいと思いますよ」
タニは気を取り直して、爽やかに言った。
「集会?部外者が参加していいの?」
「カトウさんとエルさんは昨日リーダーと顔合わせしてますし、大丈夫だと思いますよ。集会はトシの中心にある大食堂です」
「宿屋はないのに食堂はあるのか」
「みんな、まだ家が出来てない住人だって、ご飯は食べないとですからね」
「そりゃそうだ。じゃあ、時間まで食堂でだらだらして待つか」
きっと元いた世界の料理が食べられる。
ニグルの脳内は、誤魔化さなければならないという焦りから、食への欲求に切り替わっていた。
トシの大食堂。
「サン・ビストロ大食堂」
タニは単に大食堂と呼んでいたが、入り口脇に設置された看板に、日本語でそう書いてある。
「ヒロくん、なんて書いてあるの?」
この世界の住人であるエルには、日本語が読めない。
「サン・ビストロ大食堂。似たような名前を聞いたことがあるような・・・・」
ニグルが首を傾げた。
ミッシェルリーダーの耳には、ニグル口から発せられる日本語がブルターニュ訛りのフランス語に聞こえるという。
では、文字はどうであろう。
この世界の文字は、ニグルには解読出来ない。
しかし、この世界の言葉は日本語として耳に届く。
都合がいいのは言葉だけだと思われる。
少なくとも、文字はそのままのようだ。
そうなると、看板に書かれた「サン・ビストロ大食堂」という日本語は、ミッシェルリーダーには読めないということになる。
有名な大聖堂に似せた名前を食堂に付けたのは、日本人転移者のちょっとした洒落っ気であろう。
しかしその洒落っ気は、他の言語を母語とする者の耳には届かないと考えるべきだ。
日本語の駄洒落が、日本語でしか成立しないのと同じことであろう。
「いらっしゃいませ!何名様ですか?」
店内に足を踏み入れると、店員が元気よく迎え入れてくれる。
見たところ、店員は東アジア人の様だ。
「5人です」
「こちらのテーブル席にどうぞ。こちら本日のメニューです」
店員から渡されたメニューは、日本語と英語とフランス語と、他にもニグルには何語かわからない文字で書かれている。
「あ、カレーだ。何カレー?」
ニグルは懐かしくなったが、意外と転移者が多国籍である事を知っただけに、どんなカレーが出てくるのかが気になった。
「今日はチキンカレーとビーフカレーとマトンカレーです」
チキンカレーとビーフカレーは日本のカレーであろう。
マトンカレーはインドかパキスタンかネパールあたりか。
「カツカレーはないんです?」
ニグルは、カツカレーが好きなのだ。
「出来ますよ」
店員の若い女が、笑顔になった。
「カツカレーを注文されるって事は、お客さんは日本から転移して来られたんですね。私もですよ」
店員の若い女が、親しみを見せた。
「そ、日本人です。ここは日本人が多いんです?」
「多いですねー。でも、フランスの人とかアメリカの人とかイギリスの人も多いですよ。あとは中国とかインドとかの人も多いかな」
「人口に比例すんのかな。でも、メニュー多くしないといけないから大変ですね」
「そうでもないですよ。和食の軽食と、中華料理ばっかです。フランス料理は材料が揃わないそうですし、アメリカとかハンバーガーくらいでしょ?あとイギリス料理は、ねえ?」
「なるほど。じゃあ、カツカレー五つ」
ニグルは、勝手に全員分のカツカレーを注文した。
「なんで勝手に決めるのよ」
エイダは不満そうだ。
「早くて美味いからカツカレーが一番」
ニグルは目配せしながら言った。
エイダが転移者ではなく転生者である事から、元いた世界の文字が読めるか不安に思い、警戒したのだ。
「私、マトンカレーの方が良いんだけど」
エイダがメニューを見ながら言った。
エイダは、ちゃんと日本語が読めるらしい。
「じゃあカツカレー四つとマトンカレー一つ」
ニグルは注文し直した。
「あ、私もマトンカレーがいい」
ルルもマトンカレーを所望した。
「じゃあカツカレー三つとマトンカレー二つでお腹いします」
ニグルは再度、注文し直した。
「カツカレー大盛りにしてください!」
モリが大盛りを所望した。
「その様にお願いします」
ニグルはまた、注文し直した。
エルだけが、黙っている。
元いた世界の文字を読めないことを知られない様に、ただただ黙っている。




