《第二十二節》始まりの森(2)
森へ足を踏み入れた途端、二人を出迎えたのは、陽光の届かない真っ暗な空間だった。
朝であることを忘れてしまいそうな、異様なほど静かな森。
鳥のさえずりも、木々のざわめきすらも聞こえない。
外よりも明らかに温度が低く、二人とも無意識にフードを深く被る。
根の張り巡らされた地面を踏むたび、枯れ枝の軋む音がやけに大きく響いた。
まるで森そのものが、密かに二人のことを窺っているかのようだ。
「ほんと、いつ来ても不気味なところだな」
サンがポツリと零した。
「そうね。これでも、以前よりは見違えるほど良くなったのだけど」
「人が入れるだけマシ、か…」
「ええ。八年前までは〝死の森〟と呼ばれていたもの。実際、とても生物が生きられる場所ではなかったわ」
始まりの森──別名〈死の森〉には、かつて謎の猛毒の気体が蔓延っていた。
生物は一匹たりとも生きられず、唯一残っていたのは、毒に蝕まれ黒ずんでしまった木々だけ。
幸い、その気体が森の外へ溢れ出ることはなかったが、それが永遠に続く保証はどこにもなく、人々は何百年もの間この森を避け続けてきた。
そんな森が〝始まりの森〟と呼ばれるようになったのは、今から約八年前。
この国の第一王子であるゼロが、この森を訪れたことがきっかけだった。
「まったく、あの日ほどヒヤヒヤした日はないな…」
サンは八年前の記憶を思い出し、懐かしさに目を細めた。
ゼロが森を訪れた日。彼はミネルヴァ騎士団の団員の一人として、その場に同行していたのだ。
「ふふっ、そうでしょうね。私はあまり知らないのだけど」
「知らない方が幸せだ。本当に大変だったんだからな」
九歳になったばかりのゼロはその日、当時まだ〈死の森〉と呼ばれていたこの森に、なんの躊躇いもなく、ただ導かれるように入っていった。
行動を共にしていたミネルヴァ騎士団の団員が、慌てて連れ戻そうとするも間に合わず、彼はまるで何かに取り憑かれているかのように森の中へと消えてしまう。
〝〈死の森〉は、一度入れば生きて戻ってくることはできない。〟
ゼロが戻ってくることは二度とないのかもしれないと、一同が歯を食いしばったその時だった。
突如森に異変が起こり、森全体を覆っていた黒い靄が、吸い寄せられるように森の中心部へ集まり始めた。
あまりに非現実的な光景に、一同はぽかんと口を開けたまま固まってしまう。
しかし、やがて我に返ると、彼らは当時の団長を先頭に皆足を揃えて走り出した。
黒い靄は、少しでも触れれば即死。生きて帰られる保障はどこにもない。
それでも彼らには、追いかける以外の選択肢はなかった。
いずれガルシアの将来を担うことになるかもしれない彼を、たとえそうでなくとも、ゼロというかけがえのない存在を、絶対に亡くすわけにはいかなかった。
しばらくして一同が森の中心部へ辿り着くと、あたりには強風が吹き荒れ、枯れた木々の間で黒い靄が龍のように渦巻いていた。
その様子はまるで、生まれて初めて母親を見つけた子どものよう。
目を疑う光景に、団員たちはその場で膝をついた。
彼らは皆第一王子の護衛であったため、そこには団長を含め国内トップクラスの精鋭たちが揃っていたが、黒い靄はそんな彼らでも絶対に敵わない存在だった。
指の一本すら動かせないまま、時間だけが過ぎていく。
しかし幸いにも、黒い靄が彼らを襲うことはなかった。
しばらくすると風が少しずつ弱まり、黒い靄も次第に空中へと溶け始めた。
それと同時に、枯れたはずの木々が一本ずつ形を成していく。
ひび割れた地面が水を含み、数えきれないほどの草花が次々に顔を出した。
森がものすごい早さで再生し始めたのだ。
まるで御伽話のような出来事に、一同はその場で膝をついたまま、その様子をただ静かに見守ることしかできなかった。
微かに渦巻いていた黒い靄がようやく消滅し、森が完全に命を吹きかえした時。
彼らはそこで、ようやく探し求めていた少年を見つけた。
少年は芽吹いた地面の上で、気持ちよさそうにすやすやと眠っていた。
『ゼロ!』
真っ先に彼の名を呼んだのは、当時のミネルヴァ騎士団最年少──サン・ジョーカーだった。
この一連の出来事によって、死の森に関する研究が行われるようになり、そこでようやく黒い靄が〝瘴気〟であることが判明した。
ゼロが千年に一度現われる〝瘴気耐性者〟であるということも、この時初めて明らかになったのだ。
元凶であった瘴気がなくなったことで、人々は長年の恐怖から解放され、死の森は新たに〝始まりの森〟と呼ばれるようになった。
しかし、その脅威は完全に消えたわけではない。
瘴気の発生源や発生条件が分からない以上、いつまた死の森と化してもおかしくはない。
実際、この森では毎年行方不明者が後をたたず、自殺の名所としてもかなり有名になってしまった。
そのため、今では騎士団による月に一度の巡回と、とある専門家による年中無休の見張りが行われている。
サンとフィンが今から会いにいく人物──セシリア・グリーンは、このとある専門家五人のうちの一人。
フィンの父方の姉であり、王都にある喫茶店〈Serendipity〉の店主〝ロイド〟の妻でもある。
元々はフィンと同じ伯爵令嬢であったが、平民であるロイドと結婚したことで、今はその身分は失われている。
現役騎士と元暗殺者であるとはいえ、上位貴族であるサンとフィンがこの森を訪れたのには理由がある。
一つは、一ヶ月後に控えた祭りの準備で多くの騎士団員が駆り出されており、手の空いている者が二人しかいなかったため。
そしてもう一つは、この森で再び〝異変〟が起きたからだ。
「サン、止まって。そこ、罠があるわ」
「はっ⁈」
咄嗟に上がった声にサンが立ち止まると、フィンはゆっくりと彼の足元へ視線を下ろした。
真似をするようにサンも足元を見ると、そこには確かに細い糸のようなものが張られていた。
フィンの言う通り、罠が仕掛けられていたようだ。
「すまない、助かった」
サンが冷や汗をかきながらそう言うと、フィンは困ったように笑った。
「どういたしまして。…あの人、また作っていたのかしら」
これから会うセシリアは、罠作りに長けた人物だ。
瘴気が消えたとはいえ、始まりの森はまだまだ危険性が高い。
そのため入り口付近には、一般人が立ち入ることのないよう巧妙な罠が仕掛けられている。
彼女はそういった罠の管理を、陛下から一任されているのだ。
「姐さんの親戚は相変わらず物騒だな…」
「仕方ないでしょう、こういう家系なんだから」
フィンはそう言って口を尖らせたが、ふと思いついたようにサンの顔を覗き込んだ。
罠に夢中になっていたサンは、思わず「へ?」と間の抜けた声を出す。
「ねえサン、腕には自信があるわよね?」
「えっ、あー…まあ、それなりには…?」
「それなりって…あなた他の団員を泣かせるつもり? まあでも、その様子なら大丈夫そうね」
サンがわけも分からず困惑していると、フィンは悪戯っぽい笑みを浮かべ、あらぬところからそっとナイフを取り出した。
鋭く尖った刃先が、僅かな光に当たってギラリと光る。
(な、なんだか嫌な予感が…)
勘がいいサンは、フィンの行動に思わず肩を震わせた。
静かに後退り、隙を見てこっそり引き返そうとする。
しかし、残念ながらそれは、フィンによってすぐに止められてしまった。
「な、何を…するつもり、ですか…?」
サンが無意識に敬語で問うと、フィンはくるりとナイフを回して言う。
「腕試し、といったところかしら」
「なぜ今腕試しを…?」
「うーん…面白そうだから?」
とびきりの笑顔でウインクをされたサンはもう、ただ頷くことしかできなかった。
仕方なく覚悟を決め、顔を上げる。
すると次の瞬間。サンの足元に仕掛けられていた罠へ、勢いよくナイフが振り下ろされた。
「ちょっ、待──」
サンは途端に顔を青くし、フィンの腕を掴む。
だが、時すでに遅し。
サンの手が届くよりも先に、フィンが持つナイフによって糸が切れ、頭上から鋭いナイフの雨が降り注いだ。
罠が作動してしまったのだ。
「くそ、後で覚えてろよ!」
フィンが軽やかに跳ねて後ろへ避難したのと同時に、サンは素早く剣を引き抜き、落ちてくるナイフを全て弾き返した。
「まあ。さすがね、サン」
いつの間にか遠くに離れていたフィンは、そんなサンの様子を楽しそうに眺めていた。
腰に下げていたポーチから何かを取り出し、罠の方に向かって真っ直ぐに投げる。
すると、それは罠の近くで大きく破裂し、罠がナイフごと木っ端微塵に砕かれた。
「うわあっ⁉︎ 急に何するんだ!」
爆発から間一髪で逃れられたサンは、勢いよく後ろを振り返った。
動揺を隠せずにいると、フィンが笑いながら言う。
「だって、明らかに過剰防衛でしょう?」
過剰防衛。その四文字が、数秒の間サンの頭の中で反芻された。
サンは少しだけ考え、そして静かに答える。
「……それもそうだな」
サンはふうと息を吐くと、フィンが持つナイフへ目を遣った。
ハンドルの部分に施されたアメジストが、周りの暗さのせいかなぜか赤色に見える。
(目にゴミでも入ったのか…?)
しかし、何度見てもその色は変わらない。
サンはそのことに妙な違和感を覚え、無意識に肩を竦めた。
「サン?」
(気にしない方がいいのか? いや…)
〝サンの勘は必ず当たる〟
正確には百発百中であるというだけで、特別な能力があるわけではない。
だが、これだけ当たっていれば、さすがの本人も己の勘を信じざるを得ない。
少なくとも、その勘が合っているかどうかを確かめてみる価値はあるだろう。
サンは考えた末、この違和感の正体を突き止めることにした。
(暗闇の中で赤く光るアメジスト。アメジストは本来紫色のはず。光の加減で赤色に見えるのだろうか? いや、周囲に宝石の色が変わるほどの光はない。日の光すら差し込まないんだ、それはないだろう。だとすれば、赤色のものが近くにある? だが、俺も姐さんも赤は身につけていないし、地面に花は咲いていない。それに、ナイフの向きからして上から……)
サンは徐に木の幹から枝の先へ視線を動かすと、途端に目を見開いた。
顔からみるみるうちに血の気が引いていき、額にはうっすらと冷や汗が滲む。
尋常ではない彼の様子に、フィンも同じように真上を見た。
ゆっくりと息を吐き、眉間に皺を寄せる。
彼女はただ一言「ああ、そういうこと」と呟いた。
───そこにあったのは、ロープで首を吊られた人間の死体だった。
♢♢♢
「そんなに面白いものかしら?」
死体を見つけてから数分後。
顔を上げたまま一向に動かないサンに、フィンが痺れを切らして問いかけた。
「い、いや…」
サンは死体から少しも目を離さずに答える。
そんな彼の様子に、フィンは呆れたようにため息をついた。
「まったく。騎士団なんだから、死体くらい見慣れているでしょう?」
「ああ。残念ながらな」
と言いつつも、サンは全く目を逸らそうとしないため、フィンは仕方なく死体へと視線を移した。
非常に高い木の枝にぶら下がっており、はっきりとは見えないが、その様子はあまりにも悍ましく見るに堪えない。
〝死の森〟と呼ばれていた頃の森の姿が、なぜか鮮明に思い出された。
「罠に嵌ってしまったのかしら?」
フィンが静かに問いかける。すると、サンは即座に首を振った。
「いいや、あれは自殺だな。周辺の罠は俺たちのために作動しないようになっているだろうし、俺の見た限りでは既に作動していた罠もなかった」
(まあ、一つだけ作動する罠もあったわけだが…)
「騎士団からの報告通りね。始まりの森での〝自殺者が急増している〟という…」
「そうだな」
サンとフィンがここへ来た理由の一つ──〈異変〉とはこのことだ。
この森では、今年に入ってから急激に自殺者が増加していた。
自殺と見られる死体の数は数百を超え、毎月巡回をしている騎士団でも、次第に手に負えなくなってきていた。
念のため五人の専門家たちは一度王都へ戻り、森は一時的に封鎖されることになったが、それでも森での自殺者が減少することはなかった。
陛下やゼロたちはこの状況を受け、彼らには何か自殺に追い込まれるような共通の事情があったのではないかと、国内の各地域で内密に調査を行った。
しかし、どの街でも予想していたような状況は見られず、調査は行き詰まっていた。
そんな中、陛下らは彼らが問題でないのなら、森自体に問題があるのではないかと考えるようになった。
そこで、再び専門家の一人であるセシリアを派遣し、森の調査を始めることとなった。
今日新たにサンとフィンが派遣されたのは、そんな彼女から伝言を預かるため。
先日騎士団から報告が上がり、陛下から彼女と直接会うよう仰せつかったのだ。
「セシリア伯母様からの伝言って何なのかしらね?」
フィンが死体を眺めながら呟いた。
同じく死体を見つめていたサンは、彼女の問いに首を傾げる。
「さあ…? 俺にもさっぱり…」
「私たちが直接会わなければならないなんて、なんだか不吉な予感がするわ」
フィンが肩を竦めると、サンも眉間に皺を寄せた。
「何もないといいが…」
「そうね。もう少し人手が欲しかっ───」
その時。突然背後から気配を感じ、二人は勢いよく後ろを振り返った。
しかし、生物の影はどこにもない。
それどころか、先ほど壊したはずの罠も、弾き返した無数のナイフも、何一つ見当たらなかった。
そこには、まるで最初から何もなかったかのように、真っ暗な空間だけが広がっていた。
「サン、これ…」
フィンの顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。
無意識に手が震え始め、握りしめた手からナイフがするりと落ちた。
「……引き返すか、姐さん」
サンが静かに言った。
彼の目には迷いの色が滲んでいたが、その声はとても低かった。
ただ事ではない彼の様子に、フィンは思わず息を呑む。
だが、森に残るセシリアのことが頭をよぎった。
「あ、あの人は…どうするの?」
問いかけられたサンは、感情を隠すかのようにただ淡々と答えた。
「後で考える」
「え……」
「姐さんが心配する気持ちも分かるが、これ以上は俺たちの命が危ない」
「そんな…っ!」
フィンは無意識に目を潤ませたが、サンは嗜めるように続ける。
「姐さん。俺たちはこの国を支える高位貴族だ。こんなところで命を落とすわけにはいかないだろう?」
サンの声は相変わらず低かったが、フィンは負けじと食い下がった。
「でも、あの人だって重要人物なのよ! それに、命が危ないのはいつものことじゃない!」
「違う」
「え?」
「違うんだ、姐さん。これは…そういう問題じゃない。そういう問題では…ないんだ」
サンの声は、震えていた。
まるで何かに怯えているような、何かを危惧しているような、そんな声だった。
「そういう問題、ではない…?」
「ああ。だから今は…引き返そう」
真剣なサンの表情に、フィンは渋々頷いた。
これ以上、彼を引き止める理由はどこにもなかった。
「…そこまで言うのなら、分かったわ。急ぎましょう、サン」
「ああ。すまない」
二人は森の中を一目散に駆け出した。
途中、何度か罠に引っかかったが、焦る二人には全く通用しない。
反対に二人の存在が、罠の邪魔をしているかのようだった。
遠くの方に見えていた明かりが、次第に大きくはっきりと見え始める。
(お願いだから生きていて、セシリアさん…!)
森を出る直前。フィンはそう、心の中で叫んだ。
手から落ちたナイフのことなど、全く思い浮かばなかった。




