《第十七章》瘴気と僕(1)
見慣れた天井。嗅ぎ慣れた匂い。
目を開けると、僕はいつの間にか自分の部屋にいた。
(えっと…確か、瘴気を使いすぎて……)
誰がここまで運んできたのかは分からないけれど、親切に布団まで掛けてくれていた。
長い間寝ていたのか、もう部屋の中は真っ暗になっている。
あるのは夜空の輝きだけ。
「……っ!」
ランプをつけようと手を伸ばすと、突然全身に激痛が走った。
それと同時にひどい吐き気に襲われ、咄嗟に口を押さえる。
吐き出したものはやはり血で、手や布団が赤色に染まってしまった。
瘴気の制御が曖昧になると、時々こうして瘴気が全身を蝕む力が増大し、複製が遅れてしまうことがある。
すでに僕自身が瘴気であるため、完全に蝕まれたところで死ぬことはないのだが、早めに対処しないと身体が壊死し始め、こんなふうに激痛に襲われるのだ。
少しでも痛みを紛らわすために窓の外を見ると、夜空に浮かぶ三日月がゆらゆらと湖面に反射していた。
(早く…回復しないと…)
迷惑をかけている以上、一刻も早く瘴気の制御を強めなければならない。
頭を押さえながらなんとか上体を起こすと、部屋の外が騒がしいことに気がついた。
こんな時間に、一体どうしたのだろうか。
そういえばリヴは…。
確証はないが、なんだかとても嫌な予感がする。
僕は激痛の体に鞭打って立ち上がり、足を引きずりながら部屋の扉を開けた。
(声のする方は…)
ぐるりと周囲を見回すと、斜め向かいの扉がわずかに開いており、その部屋から声が漏れているようだった。
王族である僕と同じ階の部屋には、身内かごく限られた高位貴族しか住んでいない。
あの部屋は──間違いなく〝リヴ〟の自室だ。
気がつけば、僕は無意識に部屋を飛び出していた。
けれど、何度も激痛が襲いかかり、足は思うように進まない。
それでもなんとか部屋の前に辿り着くと、僕は残った力でそっと扉を開けた。
──────ギイ…
扉の音がやけに大きく響き、中にいた人々の視線は一気に僕へと集まった。
「「「「殿下⁈」」」」
室内にはリヴ専属の従者とラグ。ルイとサイラスに、サンとフィンまでいた。
皆、ベッドの横にある丸いテーブルの周りに座っており、僕を幽霊でも見るかのような目で見つめている。
しかし、その中に肝心のリヴはいなかった。
「リヴ…は…?」
かすれた声でそう問うと、急に体が限界を迎えて、僕はその場で崩れ落ちた。
再び吐き気に襲われ、抑えきれずに赤い血を吐き出す。
もう限界だ。立ち上がる力もない。
倒れたまま動けないでいると、慌ててルイとラグが駆け寄ってきた。
「殿下、部屋に戻りましょう。まだ起きていて良い状態ではありません」
「そうっすよ、今は休んだ方がいいっす」
確かに全身は痛いし、体も鉛のように重い。
瘴気による侵食が進み、内臓もほとんど機能していない。
息を吸うだけで肺が痛み、今にも心臓が止まってしまいそうだ。
けれど、僕はどうしても引き下がることはできなかった。
「なにが…あっ…たの?」
舌がうまく回らない。
それでも、ラグはなんとか理解できたようだった。
「殿下、」
「…おし…えて…」
消えるような声でそう言うと、ラグは少しの間押し黙る。
しかし、ルイと困ったように顔を見合わせると、倒れた僕を抱えてサンたちの元へと運んでくれた。
サイラスが用意してくれた椅子に腰掛けると、ラグが温かい毛布をかけてくれる。
サンたちが任務に出ていたことを思い出し、何かを伝えようとしたが、残念ながらその言葉が声になることはなかった。
サンとフィンはそんな僕の様子を見て、真剣な表情で口を開く。
「…殿下、あちらを」
左斜め前に座るサンが、カーテンの奥を指差した。
見ると、僕と同じ金色の髪がランプの明かりに反射してかすかに光っている。
「洞窟を出て馬車に乗り込んでから、すぐに寝てしまったのですが、それから一度も目を覚さなくて…。やはり、洞窟内で投与された薬が原因なのでしょうか?」
フィンの質問に、僕はこくりと頷いた。
オスカルが打ったのは、おそらく睡眠薬の類だろう。
現在睡眠薬として多く使われているのはマンドレイクという植物だが、あれを使われたのならこうなるのも頷ける。
マンドレイクは多年草の植物で、鎮静剤や麻酔薬、あるいは媚薬として使用されている。
根の形が人の顔に似ていることから、引き抜くと悲鳴を上げ、その声を聞いた者は命を落とすという伝説がある面白い植物だ。
しかし、僕はあれの本当の恐ろしさを知っている。
何年か前にマンドレイクを使って色々と試した結果、マンドレイクには強力な毒があることが発覚した。
ちゃんとした実験を行ったわけではないため、世間にその情報を流すことは叶わなかったが、僕は一度あれで死にかけたことがある。
瘴気がなかったら、僕はあのまま死んでいただろう。
だからもし、オスカルがあの植物を睡眠薬としてリヴに使ったのなら、幻覚や幻聴、吐き気──最悪の場合は、命を落とす可能性もある。
「…すこし…待っ…て…」
リヴのことを考えるよりも先に、僕は自分の体を回復させなければならない。
瘴気による侵食が思ったよりも速く、こうして座っているのもやっとだ。
僕に瘴気への耐性がなかったら、もうすでに死んでしまっているだろう。
「Reproduction」
そう唱えると、僕は今ある瘴気を全て制御し、身体の〈複製〉に専念し始めた。
身体が急速に蝕まれている状態では、リヴのことをどうにかすることもできない。
そのため、一刻も早く瘴気の暴走を止めて、全身を複製する必要があるのだ。
とはいえ、体力もほとんど残っていないというのに、暴走を止めることなどできるのだろうか。
そんな不安が顔に出ていたのか、右隣に座っていたフィンが優しく頭を撫でてくれた。
「大丈夫ですよ、殿下。私たちが側にいますから」
その言葉に、少しだけ心が軽くなる。
すると、右斜め前に座るルイも、わざわざ立ち上がって後ろからポンッと肩を叩いてきた。
「そうっすよ。殿下なら大丈夫っす!」
しかし、その様子を見ていたサンが咄嗟に口を開く。
「先輩、肩を叩くのは…」
「ギクッ」
ぴくりと肩を強張らせるルイに、サイラスも呆れたように言った。
「サンの言う通りだぞ、ルイ。相手は誰だと思ってるんだ」
二人から指摘され、ルイはがくりと肩を落とす。
───かと思いきや、後ろから勢いよく僕に抱きついてきた。
「うわっ…!」
驚いて声を上げるも、ルイは離そうとしない。
「る、るい…?」
「ごめんなさいいいいい! だって殿下が可愛すぎるんすよ! こんな天使みたいな人が不安そうにしてたら、なんかポンッてしたくなるじゃないすか〜!」
「なるか! 殿下から離れろ!」
……まったく、ルイは本当に仕方のない人だ。
けれど、王族である僕に、ここまで遠慮なく親しくしてくれる人間はほとんどいない。
僕は親しい仲になった人には、できるだけ砕けた態度を許すようにしている。
というより、そうしてほしいと伝えている。
だが、それを実行してくれたのはルイやガロ、ルリ・サピロスのメンバーくらいだ。
抱きついてくるのは、リヴやルイくらいだけど…。
だからこそ、こうして不安な時に笑わせてくれることが、たまらなく嬉しい。
今なら、瘴気の侵食を止められるかもしれない。
いや、絶対に止められる。
「…危ない…から…離れて…て…」
そう伝えると、皆はすぐに部屋の隅へと移動してくれた。
全員が離れたことを確認し、僕は再び複製に集中する。
そして、覚悟を決めて唱えた。
「Absolute reproduction」




