リアルキャスト
ここはどこだろうか?
なんとなく記憶にある。そうだ。記憶の隅に追いやっていたはずの、あの場所と時間。まだ何も世界について知らず、限界なんて言葉も知らない純粋で、ただただ前へと走る事だけに夢中になっていた、あの頃だ。
翼の家庭は裕福ではなかったが餓死するほどの貧乏でもなかった。だが究極というほどに親は放任主義だった。機嫌を損ねない限り怒る事はなく、何か強制する事はないが、同時に何も教えてくれることもない。放っておけば子供は育つという典型的な考えの親だった。
そのせいもあって、当時の俺は親に干渉されない事で、大人たちの言う限界や不可能という言葉を理解しないままに育った。
お陰で他の人間が出来る事は自分も出来て当然だと思い込んでいた。
例えば、体操選手が出来る事は練習すれば直ぐに自分も出来るものだと勘違いしていた。これは子供を危険な行為に走らせ、事故を生み出す大きな要素となる。だから本来ならば大人達がそれを制止する必要があったのだ。
ところが勘違いというのは悪い方向ばかりに働くものではない。
翼は勘違いしたままに次々と大人たちの真似をして難題をクリアしていった。最初の頃は小学生になった姉の宿題を全て代わりにやってしまうくらいの程度だったのが、やがて物足りなくなってくると次のステップに進む。例えば5歳だった俺が小学校に忍び込み、高学年のクラスで授業を一緒に受ける。そして出された問題を解いてしまう。当時の翼にとっては”他の人が出来るなら自分も出来て当たり前”という思いでしかなかった。運動に関しても同様で小学校に入る前には体格差の関係ない体操などでは、もはや小学生のレベルを超えていた。今にして思えば異常である。
知らない所でロケット式に成長してしまった我が子の事に放任主義の親が気づいたのは、なんと小学6年生の時である。それはいくつかの私立中学から特別推薦の話が来たときであった。そこでとんでもない成長を遂げた我が子に驚き、これ以上は手に負えない成長をしない様にと、僅か12歳の子供に”大人の限界”を叩き込んだのだ。
そう、どんな事にも”限界”があって、出来ない事があると。もちろん、私立中学の特別推薦の話など吹き消された。更にはどんなに勉強が出来ても大学へは行かせないと、無理やりに小さな箱に閉じ込める事で子供をコントロールしようとしたのである。
そしてそこで翼の驚異的な成長は終わりを告げた。
しかし一度得た能力というのは恐ろしいもので、その後はほとんど勉強などせずとも高校まで楽に進学し、どんな運動もトップクラスの記録を残して行った。既に身についた能力は同年代の子供達が追いつける枠を超えていたのである。
だが大学へ行かせないという親の作った箱は健在で、能力がありながらも高校を卒業して直ぐに就職するしか道は残されていなかった。もちろん奨学金制度も箱に囲まれながらも模索したが、当時の制度上、我が家の環境では制度外だと認識させられる結果しか得られなかった。結局、翼は地元企業に就職するしか選択肢は残っていなかった。
ところが――
そんな小さな地元企業でも翼はトントン拍子に出世街道に乗ってしまう。
どんな仕事も普通に当たり前にこなしてしまったからだ。それは限界を知った事で手抜きを覚えてしまい、楽をする為の選択が仕事の効率化という結果を生み出してしまったからである。
お陰で半年も経たずに部署の主任になり、同期どころか高校の先輩すらも部下として扱う立場になった。当然、上司達が高い評価をしていても周囲からは冷たい視線を向けられた。それが最高潮になったのは2年目の二十歳の時。成人式を迎えたばかりの翼が係長へと昇進する話が出た時だった。だが40人ほどの会社である。当然、係長と言えども大きな役割と権利を与えられ、社内のほとんどの人間は若造の命令に従う側になったのだ。
こうなってくると人の冷たさは視線だけではなくなっていった。伝染していく心の氷点下とも思える気温は社内に蔓延する。自然と冷たさが態度や行動に現れるまで大した時間はかからなかった。翼の周りは冷却されて作られた人の心の氷山が囲っていた。陰口を叩かれ続け、直接の攻撃が無くても明らかに変わった空気が重く、まさに苦痛でしかなかった。別に翼自身が何か悪い事をしたわけでもないのに、人は妬む対象が一致した時に恐ろしいほどに冷酷になれるのだ。それは人という種が異物を排除するようにと遺伝子が配列されているからかもしれない。
だから翼は転職を余儀なくされた。
だが……次の職場でも同じ事の繰り返しだった。
普通にやっているだけなのに出来すぎてしまうというのは、先輩方にとっては”生意気”という評価に繋がり異物として扱われる。結果が出れば出る程に、まるで無二の友人のように一緒に現れ、翼を追い込んだ。
そして翼は挫折した――
嫌な思い出である。
その後は説明するまでもないだろう。
翼は自宅警備員となり、無為な時間を過ごしていた。今度は家族からの冷たい視線に晒されながら。
そんな翼が県立図書館の警備員の募集を見たのは偶然である。たまたまTVニュースで近代的な大型図書館の会館に伴う人事募集と、その地の神隠しについての話を見た時に思ったのだ。
この仕事なら競うべき相手もおらず、恨まれる事もない。更に家族からも逃れられる。最高の選択に思えた。ただ結果的には当初の予定とは違うとはいえ、この異世界に飛ばされた事で雁字搦めの現代日本から解放され、12歳の頃に押し付けられた”限界”という鎖すらも無意味なものに感じ始めていた。
それにこの異世界でフィスと出会った今の状況に翼は――
そこで無数の何かが地面を叩くような音が心ざわつかせた。更に微かながらに皮膚に冷たい感覚が伝わってくる。それはこの”夢”の世界ではなく、きっと現実の体が感じているもの……。
翼は跳ね起きた。
確かに悪夢に近い夢ではあったが、それが原因ではなく、何かとてつもなく嫌な感覚に襲われたからだ。
「雨……?」
ぼんやりとした穴倉の外の認識だった。それはまだ夢の中に居るような感覚。ただ額から零れ落ちる塩気交じりの水滴が唇に流れ込む事で、その苦味を含んだようなしょっぱさに現実感を一気に取り戻す。
外は雨というだけではない。朝だった。知らず知らずの間に眠りに落ちていたのだろう。体だけでなく、心の疲れもかなりあったのは否定できない。あれだけ色々あったのだから当然ではないだろうか。だから思い出したくもない嫌な思い出まで掘り起こされたのだろう。
そこで、ふと気づく。現状に。
崖だと思い込んでいた、この場所は崖などではないという事に。
その証拠に夜は見えなかった反対側にも崖が見える。
つまり……
「ここは渓谷だったのか?」
なんとなく、ボソリと呟いた言葉だが、そこに妙な違和感を感じる。それが何なのかが浮かび上がらない。だがそんなものよりも次の事実が翼の心を大きく揺さぶった。
「……! ト、トロールが居ない!?」
ありえない。トロールは死んでいたはずだ。あれで生きているなんて、例え異世界の怪物だとしても非常識である。それにトロールが生きていたなら、餌であり敵でもあるはずの翼達を見逃すであろうか。だがそれでもここに居ないのは事実だった。
「一体どうなってやがるんだ……」
その翼のつぶやきは降りしきる雨音に消されたのだった。




