浮遊する思い
大金を手に入れた翼はどこにも立ち寄る事もせず、計画通りに宿の羊女との対決へと直行した。予定の対戦相手にはフィスから既に買い取りたい意志を伝えさせている。
つまり後は交渉と言う名の札束の殴り合いが待っているだけ。硬貨でのやり取りを札束と言ってしまうのはどうなのかという疑問はあるが、紙切れがお金として使えるのは一定の文化と国としての信用性が無ければ成立しない物だと、今更ながらに元の世界は進んでいたのだと実感する。もっと言ってしまえば、ネットバンク等と言うふざけた存在を伝えたとしたら、この世界に人間に馬鹿にされるだろうと考えると妙な気分になる。しかし路線を外れかけた妄想が少々緊張が残っていた翼の心に余裕を生まれさせてくれた。
――兎に角、ようやくたどり着いた大事な大一番。武器となる金と言う名の弾丸は正に唸るほどある。勝負の時だ。
その対戦相手である羊女は、フィスから聞いたであろう、こちら側の申し出に厳しい表情を浮かべていた。簡単には譲る気はないという意思表示であるかのように。ただし、その表情には違和感がある。
そう、人間というものは余程の訓練でもしない限り、表情を完全に隠しきれるものではない。どうやらこちらの人間もそれには含まれるのだろう。強い視線を翼へと向けながらも口角が持ち上がったのを見逃さない。意味するのは恐らく嘲笑。獲物が更に餌に食いついてきたとでも思っているのだろうか。ただ実際のところは羊女が思っている以上に、フィスは翼にとって価値のある餌であるという事を理解してない。今の翼は釣り人すらも川へと引き込む覚悟でここにいるのだという事を。
そんな翼に対して相手は威圧するように口を切る。
「………………!」
相変わらず何を言っているのか分からないが、もちろん想定内。想定外の事が起こった場合は翼の服の裾を引っ張る様にと、隣に立つフィスと事前に打ち合わせ済である。堂々と構えて時を待つだけだ。その翼に向かい続けられる羊女の口上。きっと値を吊り上げる為にフィスの必需性でも説いているに違いない。ただ少々話が長くなりそうな雰囲気だけは感じ取れる。
しかしそれすらも想定内。フィスに教えられたばかりの翼に与えられた言葉の武器を発する。
「ぶとらげらっちょっ! ほえーほえーあべしっ!?」
自分が口にしたとはいえ冗談のような言葉だ。もっとも1つ1つの言葉の意味を理解していたわけではないが、フィスからの話によると「御託はいいから取引を開始しろ」というような内容らしいが発音が正しいかどうかは不安である。
「!! …………?」
こちらの言葉が通じたのだろうか。相手は驚いたような色を浮かべた後に落ち着きを取り戻すと、それまでと違う雰囲気で言葉を返してくる。
当然ながらそれも理解不能。
その代わりにフィスがこちらに顔を向けるとウィンクしてくれる。それの意味するところは「売る意志を相手が見せた」という事。ただ売る事自体を拒否する気がないのは最初から分かっている。そんなに大事な従業員なら金づるになりそうだからと客の部屋にフィスを寄こすわけがない。羊女にとってはフィスは金儲けのための道具でしかないのは誰でも分かる方式である。
――ここが一つの区切りだ……怯むな!
翼は震えそうになる手に「震えるな」と意志を飛ばしながら金貨を袋から3枚掴むとテーブルに乗せる。ここへ売られてきた金貨2枚に1枚追加した金額だが、羊女はそれを片目だけで確認するが表情を変えない。この程度で買えると思っているのかという意思表示だろう。
――いざ始まってしまったとはいえ、この取引は本当に正しいのだろうかという不安がある。
翼は不安を金貨で押しつぶす様にテーブルへと更に3枚上乗せする。
一気に2倍に金額に膨れ上がった金貨に相手は目尻をピクリと震わせる。
――考えてみれば翼はフィスからの意志など確認せず、こちらの都合と性奴隷に近い状況は不幸だと決めつけて現状に至っている。フィスというピースを、自分の常識というパズルに無理やりにはめ込もうとしているのではないのだろうか。
翼はその考えを消し去ろうと間髪入れずに次の3枚を放り投げた。
羊女は否定の言葉も発していないのに更に増えたテーブルの上の金貨の輝きに両の目が開かれる。
――結局は元の世界の常識を持ち出し、彼女が必要であるという理由の足りない部分を勝手な価値観を押し付けて、暴走的に正義感を振りかざしているだけではないだろうか?
それでも心と体を切り離してしまったかのように翼は止まらない。次の3枚をBETする。
羊女も言葉も交わされていないのに勝手に積み上げられる金貨に、もはや状況が分からなくなっているのだろう。相手の頭部から突き出る曲がりくねった角が小刻みに震えているのが視界に映る。
――俺はただ奴隷の売り買いをしている奴隷商人や、この羊女と何が違うのだろうか?
しかし動き出した時間は止まらない。
翼はトドメだと言わんばかりに倍プッシュの6枚をテーブルに叩きつける。散らばる輝き放つ計18枚の金貨の光が相手を威圧する。その勢いと枚数に腰を抜かしたように羊女の腰が床に落ちた。誰が見ても一目瞭然の戦意喪失。同時に彼女の口から何か言葉が漏れるでるが、やはり意味は分からない。分かるのはとても短い一言だったという事だけ。
勝負はついた。当然だ。元より資金力が違う。
相手はこちらから出来る限り搾り取ろうとしていたはずで、元金である金貨2枚にどれだけ付加価値を付けてやるかと計算が働いていたはずである。それが9倍もの金額を付けられては驚くのも無理はなく、恐らく10枚を超えた時点で拒否するつもりなど無かったに違いない。トドメの6枚は相手の心を折るためであると同時に、翼自身の心の迷いを断ち切るつもりの行為だったと言ってよい。
だがどうだろうか?
心の迷いは勝負が始まる前よりも最中よりも複雑に色が混ざり合っている。フィスを手に入れてしまったという事実が、逆に怖さという闇をブレンドしてしまったかのようだ。
――俺は本当にフィスを救ったのか、それとも床に崩れている羊女と同種になっただけなのだろうか?
自身の疑問に答えを求めて糊付けされたような首を無理やりに動かし、隣に立っているはずの彼女に視線を傾ける。
そこにあったのは笑顔だった。まるで勝利の宣言であった事を証明するかのように、フィスが満面の笑みを翼に向けてくれる。意味するのは最大の情報源である彼女の身を翼が引き受けた事が彼女にとっても喜であるという事なのだろうか。
――間違っていなかったのか……?
勝負よりもフィスを理解しようと心を乱していたが、この笑顔により一気に身が軽くなるのを感じる。満点とは言えないかもしれないが、彼女にとって良い方向へ導く事が出来たのかもしれないと。同時に今後はもう少し後先を考えて動く事にしようと誓う。今いるのは元の世界の常識が必ず通用する世界ではないのだと。
更に今回は異世界である事の意識が薄く、運に流されただけの結果だった事も忘れてはいけない。
たまたま図書館と共に異世界に飛ばされ、髭に出会い資金を得た。意思疎通の出来るフィスに出会ったも偶然だ。もちろん本が高値で売れたのも奇跡と言っても良い。見る人間の観察力が無ければタダ重いだけの荷物のままだった可能性もある。そう考えると手放しで喜べる状況ではなく、良い行先の流れに乗った船の乗客だったとも言えなくもなく、下手をすれば沈没船だった未来もあったかもしれない。
それでも今は迎えられた状況にとりあえず多少の満足をしておく。特にフィスにとっては自由のない奴隷として生きるよりも、翼と一緒にいる事の方がマシだと判断したからの微笑みだと思いたい。そうでなければ自分勝手な行動に自己嫌悪に陥ってしまいそうだ。それではまた自宅警備員に戻りたくなってしまう。異世界に来てまで、そんな未来を迎えたいとは思わない。出来れば翼の事を誰も知らないこの異世界で就職した時以上の期待をもって新たな道を歩きたいという願望は、今この時くらいは許されてもいいはずだ。
そして翼は夢ではない事を確認するように、この世界で初めてのパートナーの手を取り、自分の部屋へと足を向けた。まだまだ始まりに過ぎないのだと自身を戒めながら。




