すれ違う現実と異界
爺様とフィスから突き付けられた事実を脳が認識しているのに心が納得していない。
目の前の光景は”医学図鑑を返却”を意味している。つまりは買い取り不可だという事実。
予想外の状況に翼は右と左の眼が別の方向を向いているような錯覚に陥る。だが本当は分かっている。こういう可能性がある事も考慮していたからこそ、種類の違う本を持ってきていたのだから。
なにしろ図書館を出る時は、この世界の情報が何もなかったのである。元の世界よりも文明レベルが低い場合もあれば、当然ながら逆の可能性もあった。その中で言葉が分からなくても理解出来るかもしれない物を選んできたつもりだった。
ただ思っていたよりも、こちらの世界は文明レベルは高くなかった。だから現代科学の結晶の一部とも言える医学図鑑は評価されなかったという事だろう。この集落ではなく、もっと人の集まる街等であれば多少は違ったのかもしれないが、ありもしない妄想を追いかけた所で現実は変わらない。
もちろん別の集落を目指すと言う選択もなくはない。ただし図書館から視界で確認できたここですら1日かかったのだ。方向すら分からない該当する街に辿り着くのが何時になるのかなんて想像もつかない。そんな事をしていたら、フィスを借りている時間を超過してしまう事になるだろう。つまりは、ここで結果を得るしか方法がなかったのである。
ただし、こうなってくると現状は金貨5枚にも届かない資金で羊女と決着を目指す事になるが、ここまでの大盤振る舞いが大きな枷となってきそうである。翼自身の行為が無駄な座布団を重ねた結果になりそうな状況という事だ。もちろん可能性が全くないわけではないが高いとは言えないだろう。失敗に終わる可能性の方が高いと思えるくらいだ。それは貴重な情報源の取得失敗を意味する。
他の可能性としては一度図書館に帰れる事。そうすれば再度、本を用意する事は出来るだろうが、その場合は目の前の爺様に足元を見られる可能性が出てくる。何故なら数日もしないうちに同じような本を持ってくるとなれば需要と供給が崩れるだろう。この小さな集落では尚更の事だと言っても良い。過剰な在庫と見られれば値段が落ちるのは世の常識である。今後の事を考えれば避けたい行為だ。それは本当の最終手段として考えるべきである。
そんな俺を放置するかのように爺様は店の奥へと姿を消した。たぶん、買い取り金を用意に行ったのであろう。出店と違って銅貨のやり取りではなく、銀貨や金貨のやり取りもあるであろう質屋で客から見えない場所に置いておくのは、危険を考えれば当然の事である。
翼がそんな色々な思いに耽る中、隣の少女は交渉のやり取りで興奮したのか、頬を日を浴びて熟れた桃のように変えたまま、満足気な表情を浮かべていた。
フィスからしてみれば訳の分からない本が銀貨15枚になるに至ったやり取りは見ごたえがあったのだろうが、翼としては満足した結果が得られたわけではない為、共に喜びを分かち合う事は出来ない。今後の事を考えると頭が痛くなる状況である。
もしこのままフィスを買い取る事が出来ない場合はどうなるのだろうか。未経験とはいえ、言葉を理解出来ない人間がそれを理解するまでにかかる時間は計り知れない。恐らく早くても半年、普通に考えれば年という言葉で計算するのが正しいだろう。そうなると諦めるわけにはいかない。他の手段を見つけ出す必要がある。先ほどの最終手段も現実味を帯びてくるのも時間の問題とも言えた。
そんな悩む翼が簡単に浮かび上がらないアイデアに頭を抱えそうになった時、準備を終えた爺様が中から出てきた。その動きは鈍く、とても重そうな物を抱えているように感じる。もしかすると銀貨15枚が手元になく、いくらかを銅貨で準備したのかもしれない。銀貨1枚で銅貨30枚の価値があるのだから、確かにそれなら納得出来る。こちらとしても出来れば持ち運びを考えて、枚数を減らせる金貨でお願いしたいところだが難しいのかもしれない。
ただこの世界に来てから適当に使っているだけに金銭感覚が少々ズレそうにもなるが、金貨1枚は10万円以上の価値があるのだから誰もが常に持っているわけではないのだろう。そう考えれば銀貨と銅貨をメインに準備していたとしてもおかしくない。
しかし――爺様がその手にある物を翼へと開示された時、ここまでの思考は全て無駄だった事を思い知る事になった。
カウンターに並べられたのは多くの貨幣。
やはり銀貨などではなかった。
だが、銅貨でもない。
先の2つとは色も違えば、重さも違う。
その枚数は数十。決して少なくない。
隣でそれらを視界に入れたフィスは大きく瞼を開き、目の前の光景に言葉を無くしていた。
が、それも仕方がないと言える。何しろ一番驚いているのは俺自身だった。
ただし、驚きすぎると人は反応さえできない事を今なら良く理解出来る。
目の前に広がっていたのは金色の輝きを放つ貨幣達だったのだから。
本当はただ単に反応出来ないでいるだけだった翼の姿に「太々しい奴」とでも勘違いしたのだろうか、爺様は「チッ」と舌打ちをするとサッサと持っていけと言わんばかりに店の奥へと戻って行く。
今になって気づいたとはいえ、翼はとんでもない交渉をしていたようである。数えてはいないが少なくはないだろう。恐らくは金貨はゆうに60枚を超えているのではないか。最初の銀貨10枚と思い込んでいたのは金貨10枚、次の銀貨5枚と思っていたのは金貨50枚だったと考えれば計算が合う。
何よりもあの爺様にそんな蓄えなどあるわけなど無いと決めつけていたが、元の世界でもタンス貯金で数千万貯めこんでいる老人の話は聞いた事がある。ましてや店を構えた人間が備えていないわけがない。甘い考えの翼が言葉を理解していないからこそやってしまった恐ろしいまでの結果が目の前で輝きを放っている状況に喉がカラカラに干上がるのを止められない。
ただそれも仕方がない。当初の予定をなど吹き飛んでしまうほどの結果が目の前に広がっているのだから。ざっくり計算しても600万円以上の価値に相当する金貨が転がり込んできた事になる。当然ではないだろうか。
どうやら異世界と元の世界の違いを軽く見ていたらしい。
ここに至りようやく、翼はとんでもない物と一緒に飛ばされたのだと実感するのだった。




