言葉無き交渉
店の主たる爺様はカウンターに並べられた本を売りたい物だと認識してくれたらしく、その中の絵本に手を伸ばすと、まるで元より自分の物だとでも言いそうなほど自然に己の下へと引き寄せると本を開く。その視線は真剣そのもの。時々、複雑に歪む表情は良い兆しなのか、それとも逆なのかは今は難しい判断に思える。分かっているのは翼の未来は爺様の鑑定力次第だという事だ。
やがて、爺様は絵本から視線を引き剥がすように、こちらへと意識を向けてくる。どうやら買い取る気はあるようだ。それを証明するようにかけられた声は入店時の激しい口調ではなく、静かで語りかける様な口調だった。ようやく交渉が始まった事を知らせるようにフィスが翼の左の腕の裾を引っ張ってくる。遂に出番のようだ。
そんな翼に対して爺様は指を5本立てると短い言葉を口にする。
そのジェスチャー交じりの動きから考えると銀貨5枚で買い取ると言う事なのだろうか。提示されたのが銅貨5枚なら、こんな雰囲気は必要がない。もっと扱いは軽いものになるはずだからだ。その金額なら本一冊が外食代と変わらない元世界から考えれば破格だと言っていい。何と言ってもここは人の命が金貨2枚で買える世界だ。本が数冊で人が買えてしまえる事を考えれば当然である。
しかし――その程度ではフィスの値段には届かない。
もちろん残りの2冊には、もっと高い値段が付く可能性はあるが最大限の値段交渉は必要である。
翼は”予定通り”ゆっくりと瞳を閉じると首を左右に振る。
これは値段がいくらであろうとやるつもりでいた行動。何故なら3回目までの交渉は”ゲームの基本”。それは、あるゲームで得た信用性の薄いと言われても仕方がない方法ではあるが、的は射ていると思う。実際に3本勝負、3次元、3本の矢が集まれば等……最後のは微妙だが、世の中は3に纏わる言葉や事柄が多い。当てにならないと言う人間も居るかもしれないが、翼としてはその程度の知識でも当てにしたい時なのである。今は。
相手もすんなりと頷くとは思っていなかったのか、追加を示す様にもう片方の手の指を2本立てた。
それでも翼は再度首を振り、交渉は2回目へと突入する。
爺様は渋々といった様子で更に2本追加。
翼はやはり3度目の交渉を示す様に更に首を振る。
それを受けて全ての指を立てた爺様は、流石に怒りを混じらせたように瞳が血走っている。
予定通りに「それならOKだ」という意思を示す様に首を縦に振るが、少々やり過ぎたかもしれない。仏の顔も3度までと言われているが、この爺様の場合は3度目はなさそうである。以後、気を付けるべきだろうか。
ただ銀貨5枚が10枚になったのはデカい。現在の銀貨の高騰状況を考えれば金貨3枚に近い価格であり、残り2冊も近い金額で売れる事が出来れば未来は明るいと言える。
そんな翼の隣に立つ少女から送られる眼差しも心なしか熱を感じられるが気のせいだろうか。
交渉……と言っていいのか微妙な所ではあるが、きっと今の交渉の成果を見て尊敬の念を混じらせているのかもしれない。
そんなこちらの内心など気にした様子もなく、爺様は次の写真集の鑑定へと移っていた。
ページを開く度に瞳に力強さが増す、その姿に翼としては期待が大きくなる。
しかし――鑑定が終わった後に爺様が立てた指は3本だけだった。
鑑定している雰囲気や鑑定にかけた時間からも絵本よりも高いと思っていたのに拍子抜けである。しかしこれも当然ながら翼の首は横にしか動かない。
爺様は「またか」というような表情を浮かべた後に指を1本追加した。
それに対しても繰り返しの行動を示す翼。
出来れば今回も3回目まではと思っていたが、少々爺様の様子が変わった。視線が下に落ち、疲れ切った姿を見せている。こちらの交渉に付き合うのが面倒になってきたような姿だ。それでも1本追加して見せてきたのだから、意外と爺様は懐が大きいのかもしれない。
流石にこの状況では3回目に実行するのは無謀と判断して、素直に5本の指に了承の返事を返す。
だが、こうなってくると最後の図鑑には大きな期待をかけるのは当然と言える。現在は確保できたのは銀貨15枚であり、俺の事を富豪と思っている羊女からフィスを手に入れるのは不安が残る収入。出来れば有無を言わせぬ金額を叩きつける事が必要だと思っている。下手な迷いを断ち切るぐらいに。何よりも、この爺様とのやり取りと違い絶対に失敗が許されないのは間違いがない。だからこそギリギリの資金で事に当たりたくはない。
そんな翼の心の葛藤も知らずに爺様は3冊目の鑑定を始める。その視線は今までで一番鋭く、まるで暗闇の中、僅かな光を頼りに手探りで正体を掴もうとしているようである。もしかすると、とんでもない金額が付くのではないかと希望の風船が割れそうなほどの勢いで膨らんでいく。
しかしこれは当たり前と言えば当たり前の話ではないだろうか。元の世界でも医学と言う言葉が付くだけで、絵本や写真集とは圧倒的に値段が違ってくる。絵本や写真集なら高くても2000~3000円で買えるが、医学という言葉が付くと何十倍にも膨れ上がる。物によっては30万なんて金額ついた物だってあるのだ。期待するなと言う方が無理である。
しかし――その風船はあっさりと萎む事になる。
それは爺様が本を翼の方へと図鑑を戻した事により。
どういうことなのだろうかと視線をフィスへ向けてみる。
返ってきたのは先ほどの翼と同じように首を横に振る少女の姿だった。
翼は今、大きく何かが傾くのを感じ始めていた。




