第二章: 月の世界 第二話
第二話「月見の遺跡」
森の中を進む二人の足元には、月明かりが細く差し込んでいた。
周囲では、淡い青色の光が時折揺れている。
小さな精霊たちが、木々の間を飛んでいるのだ。
「……この辺り、さっきより静かね」
クレアが周囲を見回す。
タケも足を止めた。
先ほどまで聞こえていた鳥や虫の声が、いつの間にか消えている。
「……何かいるのかな」
「分からないわ」
クレアは腰の剣に手を添える。
そのとき――
タケの視界の端を、小さな光が横切った。
「……ん?」
振り向く。
木々の間に――
一瞬だけ、金色の光が浮かんでいた。
淡い青色の精霊とは違う。
小さな光の塊が、こちらを見ているようにも感じる。
「クレア……」
「どうしたの?」
「今、あそこに……」
タケが指を向ける。
だが――
もう何もなかった。
「……?」
「何か見えた?」
「金色の光みたいなものが……」
クレアは少し考えるように黙った。
「……そんな色の精霊はいないわよ」
勘違いか……。
クレアは再び歩き始める。
タケも後を追った。
しばらく歩いた頃。
森が突然、途切れた。
目の前に広がったのは――
巨大な円形の遺跡。
崩れかけた白い柱。
月を模した石像。
そして、その中央には巨大な石の扉があった。
扉には――
月。
太陽。
星。
町の石碑に刻まれていたものと、同じ三つの紋章。
しかし――
太陽の紋章だけが、深く傷つけられていた。
ふと周囲を見渡すと、あれだけ飛んでいた精霊たちの姿も、すっかり消えていた。
「……これが、月見の遺跡」
クレアが静かに呟く。
タケは何も言わず、扉へ近づいた。
その瞬間――
胸元のペンダントが、淡く輝き始める。
「……また反応してる」
銀色の光がペンダントから伸び、石の扉を照らす。
すると――
ゴゴゴゴゴ……。
長い眠りから目を覚ますように、巨大な扉がゆっくりと開いていく。
その先に広がっていたのは――
完全な暗闇だった。
ただ、遺跡の奥に。
小さな青白い光だけが、静かに揺れている。
クレアが剣を抜く。
「……行きましょう」
その瞬間。
カサッ。
何かが草を踏んだ。
クレアが振り返る。
「……タケ」
声が低くなる。
「私たち以外にも、何かいる」
けれど、それ以上のことは何もない。
目を凝らして周囲を警戒しても、何も見えなかった――。
改めて視線を遺跡に戻す。
その瞬間。
遺跡の入口の向こうに――
人影が一つ、立っていた。
突然現れた人影に、タケは思わず息を呑む。
その人影は動かない。
ただ、こちらを見ている……気がする。
クレアの手が、剣の柄を強く握る。
しかし――
一度、お互いの顔を見合わせ、もう一度前を向いたときには、人影の姿は消えていた。
月明かりの下――
再び、二人だけの静寂に戻る。
「……今は、遺跡の探索を優先しましょう」
そう言って、クレアはタケの横に並ぶ。
「離れないで」
二人は、暗い遺跡の中へ入っていった。
石の扉が背後で、
ゴォン……
と閉じる。
外の森の音が一瞬で消えた。
聞こえるのは、二人の足音だけ。
コツ……
コツ……
壁には古い壁画が描かれている。
月を掲げる人々。
その前に跪く人々。
そして――
中央に、一人の少女。
その少女の手から、無数の光が空へ昇っている。
タケが壁画に近づくと、ペンダントが反応した。
淡い光が壁画を照らす。
すると、今まで見えなかった文字が浮かび上がった。
『記憶は力ではない。
記憶とは、誰かを想い続けること。』
クレアが静かに読む。
「……誰かを……想い続けること」
その言葉を、彼女は何度も噛みしめるように見つめていた。
そして――
「タケ」
クレアがこちらを見る。
「この遺跡……ただ月の民の歴史を残しているだけじゃないみたい」
「何かを伝えようとしている」
やがて、青白い灯りの正体が見えてきた。
それは――
巨大な水晶。
高さは二メートルほど。
その内部で、淡い光がゆっくりと渦巻いている。
クレアが立ち止まる。
「……記憶晶」
「触れれば、月の民が残した記憶を見ることができるかもしれない」
クレアは水晶に近づき――
突然、手を止めた。
「でも」
「一度見た記憶は、簡単には忘れられない」
「それが、あなたにとって辛いものだとしても」
少し間を置いて、クレアは尋ねた。
「それでも……見る?」
水晶の光が、タケの手の中のペンダントと呼応する。
まるで、答えを待っているように。
そのとき――
遺跡の入口から、
コツ……
足音が一つ響いた。
誰かが入ってきた。
……コツ。
また一歩。
遺跡の石畳を踏む音が、静寂の中に響く。
クレアが小さく息を吐く。
彼女は少しだけタケの前に立つ。
灰青色の瞳が細くなる
そして――暗闇から、ゆっくりと人影が現れる。
月明かりに照らされたのは――
黒い外套をまとった、一人の少女。
少女は二人の姿を見ると、驚いたように目を見開いた。
「……もう、そこまで辿り着いたの?」
クレアの表情は依然として険しいままだ。
「……あなたは、何?」
少女は答えず、まっすぐタケを見る。
そして――
「その人を連れてきたんだね」
クレアが一歩前に出る。
「タケを知ってるの?」
少女は口元に不敵な笑みを浮かべた。
「知ってるわけないじゃない」
少女は一瞬、言葉を切った。
「でも――ずっと待っていた」
その瞬間。
少女の声に重なるように、もう一つの声が響いた。
「――ずっと待っていた」
その禍々しい声を聞いた瞬間、タケの背筋に冷たいものが走った。
少女はゆっくりと手を上げる。
そして――
フードを下ろした。
月明かりが、その顔を照らす。
夜のように深い黒髪。
淡い紫色の瞳。
タケは、初めてその少女の顔を見た。
「月影……」
少女が小さく呟く。
その瞬間――
ズズ……
少女の足元から、黒い影が滲み出した。
一つ。
また一つ。
やがて少女の周囲を取り囲むように、何体もの月影がゆっくりと姿を現す。
どれも人の形に似ている。
けれど、顔はない。
ただ黒い輪郭だけが、月明かりの中に浮かんでいる。
クレアが剣を構える。
月影が一体、地面を蹴った。
一瞬でクレアとの距離を詰める。
「――っ!」
クレアが剣を振る。
ガキィン!!
襲いかかってきた月影の腕を、クレアが剣で払い飛ばした。
黒い霧が弾ける。
しかし――月影は倒れない。
弾かれた影が、再びゆっくりと立ち上がる。
一体を弾き飛ばした直後、別の月影が横から迫る。
クレアはすぐさま剣を返し、それを受け止めた。
「……っ!」
さらに背後から、別の影が迫る。
クレアはそれにも気づき、振り向きざまに斬り払った。
だが――
月影の数が多すぎる。
クレアの動きが、ほんの一瞬だけ遅れた。
その隙に、一体の月影がクレアの横をすり抜ける。
「……タケ!」
クレアが叫ぶ。
タケが振り返る。
そこには――
一体の月影が立ちはだかっていた。
黒紫色の霧をまとったその姿が、ゆっくりとタケへ向かって腕を上げる。
タケは反射的に身構えた。
武器はない。
魔法も使えない。
けれど――
身体が覚えていた。
これまで自分の世界で積んできた、武道の経験。
「……っ!」
タケは踏み込み、渾身の回し蹴りを月影へ叩き込んだ。
ドッ!
月影の身体が、わずかに揺らいだ。
「いけるか……!?」
一瞬、そう思った。
けれど――
月影は何事もなかったかのように、ゆっくりと身体を起こした。
傷ひとつない。
「……」
タケの表情が固まる。
月影は何の迷いもなく、再びこちらへ向き直った。
そして、ゆっくりと右手を上げる。
次の瞬間――
ブンッ!
払うように振られた腕が、タケに迫る。
「――ッ!」
凄まじい衝撃が、腕から身体全体へと突き抜ける。
タケは身構える暇もなく、身体ごと吹き飛ばされた。
地面に叩きつけられ、そのまま何度も転がる。
「タケ!」
タケは立ち上がろうとした。
だが――身体が動かない。
「くっ……」
何度力を込めても、膝が言うことを聞かなかった。
この一撃で、立ち上がることさえできなくなっていた。
クレアは月影の攻撃を受け流しながら、倒れたタケを見る。
――このままでは、もたない。
月影は何体もいる。
自分一人で防ぎ続けるにも、限界がある。
クレアの視線が、月影たちの後ろにいる少女へと向いた。
月影は、少女の命令に従っている。
なら――
「この子を止めれば、月影も止まる」
クレアはそう判断した。
剣を握る手に、力がこもる。
クレアは少女に向かって走り出した。
月影の群れをかいくぐり、少女へ向かって剣を振り上げる。
その瞬間――老人の言葉が、脳裏をよぎった。
――月影は、遺跡を守る存在。
クレアは、振り上げた剣を寸前で止めた。
そして、もう一つ。
タケは、月に選ばれた。
そのタケを、この少女は待っていた。
「……おかしい」
クレアは少女を見る。
彼女は確かに、タケを待っていたと言った。
けれど――
本当に、この少女自身の意思で月影を操り、タケたちを襲っているのだろうか。
それとも――
誰かに、何かに、操られているのではないか。
クレアの視線が、少女の胸元で止まった。
「あれは……」
少女の胸には、小さなペンダントが掛けられていた。
黒い光を放つペンダント。
その輝きは――
遠くの山から立ち昇る、あの黒い光と同じだった。
クレアの表情が変わる。
「……まさか」
黒い光。
少女のペンダント。
そして、彼女に従う月影。
すべてが繋がっているように見えた。
だとすれば――
少女自身が、月影を操っているわけではない。
「このペンダントが……!」
クレアが動きを止めた、その瞬間。
「……っ!」
月影が、クレアの死角から迫る。
クレアが振り向いたときには、もう遅かった。
ドンッ!!
「――ぐっ!」
月影の一撃をまともに受け、クレアの身体が大きく吹き飛ぶ。
地面を滑り、そのまま倒れ込んだ。
「クレア……!」
タケは思わず叫ぶ。
弾き飛ばされたクレアの剣が、タケのすぐそばに転がった。
クレアは起き上がらない。
そして――
月影たちは、ゆっくりと二人へ向き直った。
クレアは地面に倒れたまま、タケを見る。
「タケ……」
そして、ゆっくりと手を伸ばした。
指先に淡い光が集まる。
光がタケの身体へと流れ込んでいく。
「……っ」
身体を包んでいた痛みが、ほんの少しだけ和らいだ。
クレアは月影を警戒しながら、叫ぶ。
「タケ!」
「あの子は……操られているかもしれない!」
「だから――逃げて!」
タケは、その言葉を聞いた。
けれど、身体はまだ重い。
自分だって満身創痍だ。
こんな状態で逃げたところで――。
そう思った、そのときだった。
「……あれ?」
タケは身体を起こそうとした。
さっきまであれほど重かった身体が――
軽い。
「クレア……」
タケは自分の身体を見て、それからクレアを見た。
「長くは持たない!」
クレアが叫ぶ。
月影が、再びクレアに近づいていく。
「タケ……」
クレアが苦しそうに顔を上げる。
「逃げて……」
タケは、入口を見る。
逃げるなら、あそこだ。
クレアに言われたとおりにするなら――。
けれど。
タケの視線は、入口から離れた。
その先にあるもの。
クレアの剣。
タケは走り出した。
入口ではない。
剣へ向かって。
「タケ……!」
クレアが驚いたように声を上げる。
タケは軽くなった身体で、一気に距離を詰めた。
そして――
地面に落ちていた剣を、強く握りしめた。
初めて握る剣。
その重さが、手に伝わってくる。
タケは、もう一度剣を強く握り直した。
「……もう、なるようになれ!」
タケは無我夢中で剣を振る。
「うぉぉぉっ!」
月影の腕と剣がぶつかる。
ガキィンッ!
その瞬間――
クレアの目が、わずかに見開かれた。
「え……?」
タケの身体から――
ほんの一瞬、金色の光が漏れた。
それは、魔法の光とはまた違う。
ごく淡い光。
タケの身体を包むように揺らめき、すぐに消えた。
「今のは……」
クレアは思わずタケを見つめる。
けれど、タケは気づいていなかった。
月影に、わずかな隙が生まれた。
その瞬間を逃さず、タケはクレアのもとへ駆け寄った。
月影との間に割って入る。
その直後――
月影がタケに向かって腕を振り上げた。
タケは反射的に剣を構える。
その瞬間――
――右から攻撃が来たら、こう。
――受けた直後は、こう剣を返す。
――懐に入るなら、足をこう運ぶ。
まるで誰かが、頭の中で剣の動きを教えているようだった。
月影が腕を振り下ろす。
頭の中に浮かんだイメージと、目の前の動きが重なった。
タケは地面を蹴った。
身体が、頭の中に浮かんだ型をなぞる。
足を踏み込み――
剣を下から振り上げる。
ザンッ!
月影の身体を、剣が斬り裂いた。
黒い霧が弾ける。
月影が大きく揺らぎ、その場に崩れ落ちた。
タケは荒い息を吐きながら、剣を握りしめる。
「これは……」
自分で考えた動きじゃない。
なのに――身体は、その動きを知っている。
クレアは、そんなタケを呆然と見つめていた。
だが――
少女の魔力が動く。
その気配を、クレアは察知した。
「――タケ!」
クレアの声が響く。
タケが振り向いた。
その瞬間――
少女の手から、黒紫色の光が放たれた。
「――っ!」
考える暇はなかった。
タケは反射的に剣を前に構える。
ズドォンッ!!
黒紫色の魔法が、剣に直撃した。
凄まじい衝撃がタケの身体を襲う。
剣が大きく震える。
「……っ、く……!」
必死に耐える。
しかし――
ピシッ……
小さな亀裂が、剣に走った。
「え……?」
次の瞬間――
バキィンッ!!
剣が、真っ二つに折れた。
折れた剣の破片が、地面に落ちる。
少女は、折れた剣を見つめるタケを静かに見下ろしていた。
――まずい。
剣はもう使えない。
さっきまで何とか戦えていた月影も、まだ残っている。
そして目の前には、魔法を使う少女。
タケは、自分が追い詰められていることをはっきりと感じた。
クレアは地面に倒れたまま、弱々しくタケを見る。
「タケ……」
タケが振り向く。
クレアは息を整えながら、少女の胸元へ視線を向けた。
「あの子の……ペンダント……」
それだけを、かすかな声で告げる。
タケは少女を見た。
そして――
気づいた。
ペンダントの周囲に、黒い光とよく似た禍々しい光が渦巻いている。
「あれは……」
遠くの山から立ち昇っていた黒い光と――同じだ。
タケは、足元に落ちた折れた剣を見る。
「……」
もう、武器はない。
それだけじゃなかった。
さっきまで軽かった身体が、少しずつ重くなっている。
「身体も……」
タケは自分の腕を見る。
息が上がっている。
足にも、力が入りにくくなってきた。
クレアの魔法が、もう長くは持たない。
タケは拳を握る。
「どうする……」
周囲を見回す。
すると――
クレアの腰に結ばれた、小さな袋が目に入った。
「あれは……」
ルクティアの町を出るとき、老人から渡された袋。
タケはすぐに気づいた。
火打石だ。
タケは袋へ手を伸ばし、中から火打石を取り出した。
「これなら……」
手の中で、火打石を握りしめる。
タケの視線が、少女の胸元へ向いた。
黒い光に包まれた、あのペンダント。
何かを決意したように、タケは静かに息を吐いた。
火打石を強く握りしめる。
もう、身体に残された力はほとんどない。
「これで……」
その瞬間――
月影の腕が、タケに向かって振り下ろされた。
「――っ!」
タケはとっさに身を投げ出し、その攻撃を紙一重でかわす。
地面を転がりながら、火打石を握った手に力を込める。
「これしかない……!」
タケは残された最後の力を振り絞り、立ち上がった。
そして――
少女の胸元へ向かって、火打石を投げ放った。
火打石が、宙を飛ぶ。
その瞬間――
タケの身体が、ほんのわずかに金色に光った。
一瞬。
あまりにも淡い光だった。
タケ自身は、それに気づいていない。
けれど――
クレアは、確かにその光を見ていた。
火打石が、少女へ向かって飛んでいく。
「――っ!」
少女は、とっさに身体を横へかわした。
「……チッ」
しかし――
火打石は少女の胸元をかすめるように飛び、
カンッ!
ペンダントに直撃した。
「……え?」
少女の表情が、一瞬だけ固まる。
ペンダントに、亀裂が走った。
ピシッ……
次の瞬間――
パリンッ!
ペンダントが砕け散った。
禍々しい黒い光が、激しく渦を巻く。
「――っ!?」
少女が胸元を押さえる。
そして――
その身体から、黒紫色の光が一気に噴き出した。
光が、ゆっくりと消えていく。
少女の身体から、力が抜けた。
「あ……」
そのまま、少女は地面へ倒れ込んだ。
タケとクレアは、互いに肩を貸しながら少女のもとへ歩み寄った。
近づいてみると――
少女は目を閉じ、静かに眠っていた。
タケは、倒れている少女の様子を確かめる。
「……眠ってる」
クレアも少女のそばにしゃがみ込む。
「……ええ」
二人は顔を見合わせた。
「……ひとまず、大丈夫みたいね」
クレアが小さく息を吐く。
タケも、肩の力を抜いた。
「よかった……」
けれど――
二人とも、傷だらけだった。
クレアは腰の袋から薬草を取り出す。
「まずは私たちの傷を治しましょう」
タケは頷いた。
二人は薬草を傷に当てながら、互いの傷を手当てしていく。
そして最後に、眠っている少女の傷にも薬草を当てた。
静まり返った遺跡の中。
先ほどまでの激しい戦闘が、まるで嘘だったかのように――
辺りには、静寂が戻っていた。
しばらくの間、二人は黙ったまま、眠っている少女を見つめていた。
すると、クレアがふいに口を開いた。
「タケ……」
「ん?」
クレアは、少しだけ視線を逸らした。
「さっきのことだけど……」
「さっき?」
「月影があなたに襲いかかったときよ」
「ああ……」
「どうして逃げなかったの?」
クレアの声は、いつもより少しだけ厳しかった。
「……逃げるわけにはいかなかったから」
「……本当に、無茶するんだから」
クレアは小さくため息をつく。
「もし、あのまま攻撃を受けていたら……」
そこで、言葉が止まった。
「クレア……?」
「なんでもないわ」
クレアは顔を背けた。
「ただ……」
ほんの少しだけ、声が柔らかくなった。
「……ほんのちょっとだけ、かっこよかったわよ」
「え……?」
「聞き返さないで」
クレアは頬をわずかに赤くして、そっぽを向いた。
そして、小さく呟く。
「心配させないで……」
「……」
タケは何も言わず、少しだけ笑った。
「なによ」
「いや……ありがとう」
「ん……」
クレアは、少し恥ずかしそうに顔を背けた。
そのとき――
「あの……」
「――っ!」
クレアの肩が、びくっと跳ねた。
タケも振り向く。
いつの間にか、少女が目を開けていた。
少女はぼんやりと二人を見つめている。
「えっと……」
そして、少し困ったように首を傾げた。
「心配、してたんですか……?」
「……っ」
クレアの顔が、一瞬で赤くなる。
「ち、違うわよ!」
「でも……」
少女は小さな声で続けた。
「お姉さん……すごく心配そうな顔をしてました」
「……」
クレアは言葉を失った。
タケが思わず笑う。
「見られてたな」
「タケ……」
クレアがじろりと睨む。
「あなたは、少し黙ってなさい」
「はい……」
「もう」
少女はそんな二人を見つめながら、ほんの少しだけ微笑んだ。
クレアはしばらく少女の様子を見つめていた。
そして――静かに問いかける。
「……あなたは、何者なの?」
少女は少し驚いたように目を瞬かせた。
「わ、私……?」
先ほどまでの傲慢な態度とは、まるで別人だった。
少女は小さく頷いてから、不安そうに二人を見る。
「……リゼ、です」
「リゼ……」
クレアが、その名前を繰り返す。
「あの……」
「どうしたの?」
クレアが声をかける。
リゼは少し迷ってから、小さな声で尋ねた。
「お二人は……?」
「……」
タケとクレアは顔を見合わせた。
「ああ、そういえば……」
タケが苦笑した。
「自己紹介がまだだったね」
クレアも小さく頷く。
「そうね」
そして、リゼへ向き直った。
「私はクレア」
「クレア……さん」
リゼが小さく名前を繰り返す。
タケも続けた。
「俺はタケ」
「タケ……さん」
リゼは二人の名前を確かめるように、ゆっくりと呟いた。
「クレアさん……タケさん……」
クレアが尋ねる。
「リゼはずっと、ここにいるの?」
「はい……」
リゼは小さく頷き、胸元に手を添えながら、ゆっくりと話し始めた。
「私は……この遺跡を守るために、ここにいます」
「月見の遺跡を……?」
リゼは小さく頷いた。
「はい……」
「ずっと……この場所を守ってきました」
その言葉に、クレアの表情がわずかに変わる。
「……だから、月影もこの遺跡を守っているの?」
リゼは、少し怯えたように頷いた。
「……はい。月影さんは、この遺跡を守る存在です」
「私も……その役目を受け継いでいます」
クレアは黙ってリゼを見つめた。
先ほどまで自分たちを襲っていた少女と、目の前で怯えながら話す少女。
あまりにも印象が違っていた。
タケも戸惑いながら、リゼを見る。
「じゃあ、さっき俺たちを襲ったのは……?」
リゼはその言葉に、さらに不安そうな表情を浮かべた。
「さっき……?」
そして――
「私……何か、したんですか……?」
タケは、リゼの近くに落ちているものに気づいた。
地面には――
先ほど砕け散ったペンダントの破片が落ちている。
「……リゼ」
タケがペンダントの破片を指差す。
「これは……何だったんだ?」
リゼは、地面に落ちた破片をじっと見つめる。
「それは……」
少しの間、黙り込んでから、静かに答えた。
「少し前……女の人からもらいました」
「名前はわからないけど、去り際に……お礼だって」
リゼは少し寂しそうに目を伏せる。
「私……ずっと、この遺跡を守ってきました」
「でも……」
「誰も来なかったんです」
「ずっと……誰も」
リゼは少しだけ間を置いて、続ける。
「だから……毎日、同じ場所で過ごして……」
「少し……退屈でした」
その言葉に、タケは少し意外そうな顔をする。
リゼは恥ずかしそうに視線を逸らした。
「……こんなこと、言ったら変ですよね」
「遺跡を守ることが役目なのに……」
「でも……誰とも話さない日が、ずっと続いていたから……」
そして、リゼはふと顔を上げる。
「……だけど、少し前に」
「一人の女の人が、この遺跡を訪ねてきたんです」
クレアの表情が、わずかに変わった。
「……女の人?」
リゼは頷く。
「はい……」
リゼは、少しだけ表情を和らげた。
「その人は……外の世界のことを、いろいろ話してくれました」
「町のことや……人々の暮らしのこと」
「私が知らないことを、たくさん教えてくれて……」
リゼは懐かしそうに目を細める。
「……すごく、楽しかったです」
「誰かとあんなに長く話したのは……初めてだったから」
けれど――
リゼの表情が、少し寂しそうに変わる。
「その人は……いつまでもここにはいられないって言ってました」
「だから、帰ることになって……」
リゼは再び、砕けたペンダントの破片を見つめる。
「帰る前に……」
「付き合ってくれたお礼だって言って……このペンダントを、私の首に掛けてくれました」
「それが……さっきのペンダント?」
「……はい」
リゼは小さく頷く。
「でも……」
そこで、リゼの表情が曇った。
「その後のことは……よく覚えていないんです」
「気がついたら……」
リゼは不安そうに二人を見る。
「目の前に、クレアさんとタケさんがいて……」
「私、本当に……何をしていたんでしょう……?」
クレアは少し黙り込んだ。
「……わからないわ」
「でも――」
少し考えてから、クレアはリゼに視線を戻した。
「あなたが何も覚えていないのなら……その間に、何かがあったのかもしれない」
「何か……?」
「ええ。少なくとも、あのペンダントが普通の贈り物だったとは思えないわ」
クレアは、改めてリゼを見る。
「リゼ。あなたは……月影を使役できるの?」
「はい……」
リゼは小さく頷く。
「月影さんは、この遺跡を守るための存在ですから」
「私の力では、二人までしか使役できませんけど……」
クレアの表情がわずかに変わる。
「二人……」
「はい……」
リゼは少し不安そうに答える。
「それ以上は……私には無理です」
タケは少し考えてから尋ねた。
「……なあ、リゼ」
「この遺跡って……何を守ってるんだ?」
リゼは少し驚いたように目を瞬かせた。
「何を……?」
「月影が遺跡を守ってるって言ってただろ」
「その理由が、俺にはまだよく分からなくて……」
リゼは、記憶晶の淡い光を見つめながら、ゆっくりと口を開いた。
「月の民は、滅びたんじゃない……です」
リゼは、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「三百年前の戦争で……姿を消したのは、本当です」
「でも――」
リゼは、タケを見る。
「月の民は、自分たちが生き残るために……記憶の中へ、自分たちを封じたんです」
クレアが眉を寄せる。
「……記憶の中に?」
「はい……」
リゼは小さく頷いた。
「月の民は、月の魔力を使って……自分たちの存在そのものを、記憶の奥深くへ隠しました」
「だから……普通の人には、もう見つけることができなくて」
「長い時間が経てば……その存在を知っている人も、少しずついなくなっていくんです」
リゼの声が、少しずつ小さくなる。
「そして……いつか、誰も月の民を覚えていなくなったとしても」
「それでも……月の民は、記憶の中で生き続けると」
タケは黙って聞いていた。
三百年前に滅びたと思われていた月の民。
それが、滅びたのではなく――自ら姿を隠していた。
「でも……」
リゼは、不安そうに記憶晶へ視線を戻す。
「私は……全部を知っているわけじゃありません」
「どうして、そこまでして自分たちを封じたのか……」
リゼは少し俯いた。
「いつか、月の記憶を受け継ぐ者が現れる」
「私は、その人を待っていたんだと思います」
「……受け継ぐ者?」
「はい……」
リゼは小さく頷いた。
「待って……た?」
「はい」
リゼは月見の遺跡を見渡す。
「ここにいる月影さんは、この遺跡を守るために存在します」
「誰かが遺跡に近づけば……その人を追い払う」
「それが、私と月影さんの役目でした」
そこで、リゼは少し不思議そうに二人を見る。
「でも……」
「今も、月影さんはタケさんたちを遺跡から排除しようとしていません」
「むしろ……」
タケが聞き返す。
「むしろ?」
リゼは答えず、じっとタケを見た。
その視線が、タケの胸元にある月のペンダントへ向く。
けれど――
それだけではなかった。
まるで、ペンダントのさらに奥にある何かを覗き込むように。
「タケさん……」
「ん?」
リゼが、ゆっくりと手を伸ばす。
その瞬間――
タケの身体から、淡い金色の光がふわりと浮かび上がった。
「え……?」
それは、小さな精霊のような形をしていた。
以前、森で見たものとは違う。
その光はタケの周囲を一度だけ漂うと――
まっすぐに記憶晶へ向かって飛んでいく。
「待って……!」
リゼが声を上げる。
けれど、止める間もなく。
金色の光は、記憶晶の中へ吸い込まれていった。
――その瞬間。
記憶晶の淡い光が、大きく揺らめいた。
記憶晶の奥で――
何かの影が、ゆっくりと浮かび上がった。
それは――
一人の女性。
銀白色の髪。
灰青色の瞳。
月明かりを受けたその姿を見て、タケは息を呑んだ。
……見覚えがある。
いや。
見覚えがあるどころではない。
「……クレア?」
そこに映っていた女性は――
今、隣にいるクレアと同じ姿をしていた。
けれど。
「…………」
隣にいるクレアは、明らかに動揺していた。
いつもの冷静な表情は消えている。
「そんな……」
クレアは、記憶晶に映る自分を見つめたまま、動かなかった。
「私……?」
リゼも驚いたように記憶晶を見る。
「クレアさん……?」
タケは、クレアと記憶晶の中の女性を交互に見た。
「……クレア、これはどういうことなんだ?」
クレアは答えられなかった。
これまで見たことがないほどの驚きが、その表情に浮かんでいる。
「……どうして、私が……?」
記憶晶の中のクレアが、ゆっくりとこちらを振り向く。
そして――
「タケを、連れてきて」
そう言った。
現在のクレアが、息を呑む。
「私じゃない……」
震えるような声だった。
「でも……あれは、私よ」
記憶晶が、さらに強く輝き始めた。
タケは記憶晶を見つめた。
「クレア」
「え?」
「記憶晶に触れてみてもいいかな?」
クレアは、すぐには答えなかった。
記憶晶の中で揺らめく、自分と同じ姿をした女性をじっと見つめている。
やがて――
ゆっくりとタケのほうへ顔を向けた。
「ええ……」
少しだけ間を置いて、静かに続ける。
「ただし、何が起きるかは分からない」
「これは、普通の魔法具じゃないわ」
「触れた人間の記憶だけじゃなく……心の奥にあるものまで映す可能性がある」
クレアはタケの目を見つめる。
その表情には、いつもの余裕が少しだけない。
「……それでも触れたいなら、私は止めないわ」
そして、ほんの少しだけ口元を緩める。
「私も隣にいる」
記憶晶は、まるでタケを待っているかのように淡い光を放っていた。
タケがゆっくりと手を伸ばす。
指先が――記憶晶に触れた瞬間。
――ドクン。
心臓の鼓動とは違う。
巨大な何かの鼓動が、遺跡全体に響いた。
「……っ!」
クレアが咄嗟にタケの腕を掴む。
けれど、もう遅い。
視界が白く染まる。
音が消える。
身体の感覚さえ、遠のいていく――。
――記憶。
目の前に、見知らぬ光景が広がる。
そこには、今とは違うセレネアの姿があった。
白い塔。
月明かりに照らされた街。
そして、その中央にある巨大な湖。
湖畔には、一人の少女が立っていた。
銀白色の髪。
灰青色の瞳。
――クレア?
そう思った。
けれど――
今のクレアとは、少し違う。
もっと若い。
まるで、何十年も前の彼女を見ているようだった。
一人の男性がいた。
顔は見えない。
二人は、何かを話している。
けれど、声は聞こえない。
ただ――
少女がその男性に向ける表情だけは、はっきりと分かった。
とても大切な人を見る顔。
そして――
場面が突然、切り替わる。
炎。
崩れ落ちる白い塔。
塔の周囲を、黒い光が覆っている。
逃げ惑う人々。
空を覆う、黒い光。
クレアに似た少女は、何かを抱きしめている。
「お願い……」
初めて聞く、少女の声。
「この子だけは……」
その腕の中にいるのは――
小さな光。
人間なのか。
精霊なのか。
それすら分からない。
けれど、少女はその光を守るために、自分の身体を盾にしている。
そして最後に――
少女が、こちらを見る。
まるで、記憶の向こう側にいるタケを見つけたかのように。
少女の唇が、ゆっくりと動く。
「――いつか」
「この世界に、誰にも決められていない人が来る」
「その人に……選んでもらって」
――そこで、記憶が途切れた。
「タケ!」
クレアの声が聞こえた。
気がつくと、タケは遺跡の中へ戻っていた。
目の前には、クレアがいる。
彼女の手は、まだタケの腕を掴んでいた。
……少し、震えている。
リゼも、顔を青ざめさせていた。
「……今のを、見たの?」
クレアは答えない。
ただ、記憶晶を見つめている。
やがて、低い声で呟いた。
「……私には、あんな記憶はない」
「少なくとも……今の私には」
そして、クレアがタケを見る。
灰青色の瞳に、初めて隠しきれない戸惑いが浮かんでいた。
「タケ……」
その言葉を遮るように――
記憶晶の奥で、再び何かが動いた。
今度は――
女性でも、少女でもない。
一人の男。
タケだった。
「え……?」
タケ自身が、記憶晶の中に立っている。
けれど――
いつのタケなのか分からない。
記憶晶の中のタケが、ゆっくりと振り返る。
そして――
まるでこちらにいるタケの存在を知っているかのように、まっすぐに見つめた。
クレアが息を呑む。
「あなたの記憶まで……?」
記憶晶の中のタケが、静かに口を開く。
「…………」
そして――
「クレアを信じるな」
その言葉が、静かな遺跡の中に響いた。
タケは、しばらく何も言えなかった。
目の前にいるクレアを見る。
クレアもまた、何も言わずに記憶晶を見つめていた。
やがて、タケが静かに口を開く。
「クレア、どう思う?」
クレアは、しばらく黙って記憶晶を見つめていた。
やがて、ゆっくりと首を振る。
「……正直に言うわ」
灰青色の瞳が、タケを捉える。
「怖い」
「私自身に、あんな記憶がないことも」
「あなたの姿まで映ったことも」
クレアは一度、言葉を止める。
「……何より、最後の言葉が気になる」
クレアは記憶晶から一歩離れた。
「でも――」
「私は、あの言葉だけを信じて、あなたから離れるつもりはないわ」
少し考えてから、続ける。
「記憶晶が見せたものが、全部真実とは限らない」
「過去の記憶かもしれない」
「未来の可能性を見せられたのかもしれない」
「あるいは……誰かに見せられた偽物かもしれない」
そして、ほんの少しだけ苦笑する。
「それに、もし本当に私を信じるなというなら――」
クレアは、まっすぐタケを見る。
「あなた自身が私を見て、判断すればいい」
少しだけ間を置いて、静かに続ける。
「私を疑ってもいい」
「でも、記憶晶の言葉だけで私を決めつけるのは許さない」
灰青色の瞳が、まっすぐタケを見つめる。
「……私は、あなたにそうしてほしい」
そして、タケに小さく笑いかける。
「さて、タケ」
「ここからが、本当に面白くなってきたわね」
その言葉に、思わずタケも苦笑する。
「強いな、クレアは」
「当然よ。心も身体も、ね」
……タケは少し考えた後、ふと呟いた。
「あの塔……」
クレアがタケを見る。
「塔?」
「白く光ってた……」
「この世界に来た時、ずっと遠くに見えてたんだ」
タケはペンダントを手に取り、それから記憶晶を見る。
「このペンダントに初めて触れた時も……あの塔を見た」
「そして今……同じ塔が崩れていた」
クレアは少し考え、静かに答える。
「……ええ。何かある可能性は高いと思う」
「町の老人が言っていた、月の民の記憶」
「そして、今見た記憶晶」
「……どちらも、月の記憶に繋がっている」
クレアは腕を組む。
「もし白い塔が、あの記憶に関わる場所なら――」
「そこには、三百年前の出来事だけじゃなく……」
一度、言葉を切る。
「私自身についての答えも、あるかもしれない」
クレアは少しだけ苦笑した。
「自分の知らない自分のことを、自分で探しに行くなんて……」
「随分と妙な話だけどね」
クレアは小さく息を吐いた。
「でも……今日はもう無理しないほうがいいわね」
タケはクレアの言葉を聞いて、ふと自分の腕に目を落とす。
戦いの傷が、まだ痛む。
「確かに、今の状態であの塔へ向かうのは、あまり賢い選択とは言えないな」
それに――
「ここに来てから、何も食べてないし」
タケの言葉に、クレアは笑って頷いた。
「一度、町へ戻りましょう。傷を癒して、明日改めて塔へ向かう準備をしましょう」
タケも頷く。
そんな二人を見て、リゼはわずかに微笑んでいた。
タケはリゼに声をかける。
「リゼはどうする?」
リゼは少し驚いたように目を瞬かせた。
「私……ですか?」
まさか自分のことを聞かれるとは、思っていなかったらしい。
「……私は、ここを守るのが役目です」
タケはそんなリゼの言葉に、笑って返す。
「今日まで守っていた……だろ」
「待たせてごめん」
そして、呆然と立ち尽くすリゼに向かって、タケは静かに手を差し出した。
急かすこともしない。
引っ張ることもしない。
決めるのは、自分なのだと――。
ただ一言だけ、タケは言った。
「リゼは、この世界のことを何も知らないだろう?」
差し出された手を見つめ、タケの言葉を聞いたリゼは、いつの間にか涙を流していた。
リゼは涙を必死で拭い、笑顔で答える。
「……っ」
「……はいっ」
「連れて行ってくださいっ」
リゼは、タケの差し出した手をしっかりと握った。
クレアは、その二人の姿を見て静かに微笑む。
三人は、月明かりの差し込む遺跡を後にする。
目指す場所は決まった。
――崩壊の記憶に残された、あの塔へ。
――夜。
月見の遺跡を離れた三人は、来た道を戻り、ようやくルクティアの町へと辿り着いた。
町には、まだいくつかの明かりが残っている。
行きとは違い、今は三人で歩いていた。
タケの隣にはクレア。
そして、その少し後ろをリゼが歩いている。
「……なんだか、不思議ですね」
リゼが小さく呟いた。
「何が?」
タケが振り返る。
「こうして誰かと一緒に歩くのが……」
リゼは少し恥ずかしそうに笑った。
「……久しぶりなので」
クレアはそんなリゼを見て、ふっと微笑んだ。
「なら、これから慣れていけばいいわ」
「……はい」
やがて三人は、町の中にある小さな宿屋へ入った。
扉を開けると、暖かな明かりと料理の香りが三人を包み込む。
タケは思わず足を止めた。
「……いい匂いだな」
クレアが横目で見る。
「そうね。あなた、相当お腹が空いてるんじゃない?」
「……ここに来てから、まともに何も食べてないからな」
「それもそうね」
クレアは小さく笑った。
「今日はしっかり食べなさい」
一方、リゼは宿屋の中を珍しそうに見回していた。
「……明るい……暖かい……」
クレアが少し目を丸くする。
「……本当に何も知らないのね」
「……あ……すみません」
「謝らなくていいわよ」
クレアは優しく微笑んだ。
「知らないなら、これから覚えていけばいいんだから」
――こうして、三人で囲む最初の食卓が始まった。
タケは、何の肉なのか全く見当もつかない料理を一口食べる。
「……うまいな、これ」
思わず声が漏れた。
クレアは、一心不乱に食べ続けるタケを見て、呆れたように微笑んだ。
「そんなにがっつかなくても、誰も取らないわよ」
ところが、すぐにタケの食事の様子に目を向け、眉をひそめる。
「あなた……野菜を全く食べていないじゃない」
「もしかして、前の世界でもそんな生活をしていたんじゃないでしょうね」
「あっ、口にこんなにソースをつけて……」
……まるで子供を叱るお母さんだ。
タケは食事を頬張ったまま、申し訳なさそうにクレアを一瞥し、謝るように頷いた。
「まったく……」
クレアは苦笑しながら、今度はリゼへと視線を向ける。
そこには、おぼつかない手つきでナイフとフォークを扱うリゼの姿があった。
しかも――
タケ以上に、口の周りをソースでベタベタにしている。
リゼがクレアの視線に気づいた。
「あ……」
みるみるうちに顔が赤くなる。
「すすす、すみませんっ……」
「つい、美味しくて……」
「でも……食べ方……? が、よく分からなくて……」
リゼは申し訳なさそうに、上目遣いでクレアを見た。
クレアは何か言いかけて、口を閉じる。
そして、ふっと優しく微笑んだ。
「これから、覚えていけばいいのよ」
食事が落ち着くと、クレアは紅茶を一口飲んでから、タケに話しかけた。
「これからのことだけど――」
隣では、リゼがパイ生地のお菓子をサクサクと頬張っている。
……まるでリスみたいだ。
タケは、そんなリゼの姿にどこか癒やされながら、クレアに向き直った。
「白い塔を目指すんだね」
クレアは頷く。
「ええ。まずは旅の装備を整えて、出発しましょう」
「それと――」
クレアは少し考えてから続けた。
「もう一度、あの老人に会ってから行こうと思う」
その言葉に、タケも考え込む。
確かに、あの老人なら白い塔についても何か知っているかもしれない。
「わかった。そうしよう」
クレアは頷き、リゼへと視線を向けた。
いつの間にかお菓子を食べ終えたリゼは、うつらうつらと首を揺らしていた。
どうやら、かなり眠いらしい。
クレアはリゼを見て微笑み、それからタケへと視線を戻した。
「じゃあ、今夜はゆっくり休むこと」
「明日は寝坊しないでよ」
「……分かってるよ」
タケが苦笑すると、クレアも小さく笑った。
「なら、いいけど」
クレアは眠ってしまいそうなリゼの肩をそっと支えながら、立ち上がった。
「ほら、もう行くわよ」
「……はぁい……」
クレアに支えられながら、リゼもゆっくりと立ち上がる。
二人は連れ立って、先に部屋へ戻っていった。
タケは二人の後ろ姿を見送り、ふと窓の外へ目を向けた。
月明かりに照らされたルクティアの町は、静かに夜を迎えていた。
――タケは、宿屋の外にあるベンチに腰掛けた。
服のポケットから煙草を一本取り出し、火をつける。
元の世界から着てきた服が、そのまま残っていて助かった。
タケはそんなことを思いながら、ふっと煙を吐いた。
優しく照らす月を見上げながら、今日の出来事を振り返る。
黒い光。
老人の言葉。
月見の遺跡。
そして――
記憶晶の中で聞いた、自分自身の言葉。
「……クレアを信じるな……か」
タケは小さく呟く。
わからないことだらけだった。
これから旅を続ければ、何か見えてくるのだろうか……。
だが、その答えを知ることが、果たして良い結果に繋がるのだろうか。
タケは、少しだけ不安を感じていた。
物思いにふけっていると――
ふと、柔らかな香りが鼻をくすぐった。
何気なく隣へ視線を向ける。
「クレア!?」
いつの間に座ったのだろう。
そこには、月明かりに照らされたクレアが静かに腰掛けていた。
「……ふふ。そんなに驚かなくてもいいでしょう」
「いや、驚くだろ……。いつからいたんだよ?」
クレアは答えず、夜空を見上げる。
「……少し前からよ」
「気配、全然しなかったんだけど……」
「そう?」
クレアは小さく笑った。
タケはおずおずとクレアに尋ねる。
「……あの……」
「もしかして、聞いてた?」
クレアはそんなタケを見て、いたずらっぽい笑みを浮かべ、流し目で答える。
「私は何も聞いていないわよ」
……これは、聞かれていたな。
それくらい、わかりやすい表情だった。
クレアはタケに尋ねる。
「ここに来たこと、後悔してる?」
タケは少し考えてから答える。
「正直、今はそれすらわからない」
そして苦笑しながら続ける。
「今日だけで、いろいろありすぎたからね」
クレアは月を見上げる。
そして、ゆっくりと俯いた。
「私はね……あなたがこの世界に来るとき」
「私の手を取ってくれて、嬉しかった」
クレアは少しだけタケの顔を見る。
けれど、気恥ずかしそうに、再び俯いた。
「でもね……これは、ただの私の気持ち」
少しの間を置く。
クレアはふぅ、と小さく息を整えた。
そして顔を上げ、タケの方を向く。
優しく微笑んで――
「これまでも、これからも……」
「あなたは、あなたの意思で決めていいのよ」
月明かりが、立ち上がったクレアを静かに照らす。
「これは、あなたの物語だから」
その言葉を聞いて、タケはしばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと息を吐く。
「……ありがとう、クレア」
クレアが少し驚いたようにタケを見る。
「何が?」
「……わからないけど」
タケは月を見上げる。
「今、その言葉を聞けてよかった気がする」
クレアは何も言わなかった。
ただ、穏やかな笑みを浮かべている。
「……そう」
それだけ言うと、クレアも再び月を見上げた。
二人の間に、静かな時間が流れる。
夜風が吹き抜け、クレアの銀白色の髪を揺らした。
「今日はもう休みましょう」
「そうだな」
タケはベンチから立ち上がる。
「おやすみ、クレア」
「ええ、おやすみなさい、タケ」
二人は並んで宿屋へ戻っていく。
月は、そんな二人を静かに照らしていた。
こうして――
セレネアでの長い一日は、静かに幕を閉じた。




