第二章: 月の世界 第一話
第二章 月の世界
第一話「月の予言」
扉をくぐった瞬間、空気が変わった。
冷たい夜の風が、タケの頬を撫でる。
一歩、また一歩と進んだ先に――見たことのない世界が広がっていた。
「……」
タケは、思わず言葉を失った。
空には、巨大な月が浮かんでいる。
あまりにも大きい。
手を伸ばせば届きそうなほど近く感じるその月は、淡い青白い光を放ち、世界全体を静かに照らしていた。
遠くには、白い塔のような建物も見える。
空にはいくつもの浮島が浮かび、その間を細い滝が流れていた。
森には淡い光を放つ植物が咲き、時折、小さな光の粒がその間を飛んでいく。
まるで、現実そのものが別の世界へ置き換わってしまったようだった。
「ここは……」
タケは呟いた。
「セレネアよ」
隣に立つクレアが答える。
タケはしばらく何も言えなかった。
そして――ふと、遠くの山へ視線を向ける。
そこには、この美しい世界には似つかわしくないものがあった。
山の向こうから、巨大な黒い光が立ち上っている。
黒。
それなのに、どこか紫色にも見える。
周囲の光さえ吸い込んでいるような、不気味な柱。
タケがそれを見つめていると、クレアが静かに呟いた。
「……もう始まったのね」
「……クレア……さん? あれは、何?」
タケが尋ねると、クレアはしばらく黒い光を見つめていた。
「本当なら、あなたを巻き込みたくなかった」
そこで一度、言葉が止まる。
「でも……」
クレアは少し困ったように笑った。
そして、タケを見る。
「クレアでいいわよ」
「あなたは?」
「……タケ」
クレアは少し考えるように間を置き、小さく頷いた。
「そう、タケ……ね」
そう呟くと、クレアは改めてタケに目を向け、微笑んだ。
「タケ」
「あなたが自分で、この世界を見たいと言ったのだからね」
タケは小さく頷き、もう一度、黒い光へ目を向けた。
「あれのこと、知ってるのか?」
クレアは少しだけ考えるように黙った。
「……分からないわ」
意外な答えだった。
「ただ――あれが、この世界で何かが起きていることと無関係だとは思えない」
「何かが起きてる……?」
「ええ」
クレアは黒い光から目を離した。
「でも、今の私たちには情報が足りないわ」
「だから、まずは町へ行きましょう」
「町?」
タケが聞き返す。
「ええ。ルクティアの町よ」
クレアは歩き始めた。
「あなたは、この世界のことを何も知らないでしょう?」
タケは黙って頷き、その後を追った。
森の中へ入ると、先ほどまで見えていた景色が木々に遮られていく。
月明かりが枝の隙間から差し込み、地面に淡い光の模様を作っていた。
そのときだった。
木々の間を、小さな光がふわりと横切った。
「……蛍?」
タケが目で追う。
淡い青色の光をまとった、小さな存在だった。
それはゆっくりとこちらへ近づいてくる。
「精霊よ」
クレアが答えた。
「セレネアには、自然と共に生きる精霊がいるの」
精霊はタケの周りを一度だけくるりと回ると、再び森の奥へ飛んでいった。
「火、水、風、土……それぞれの性質を持った精霊がいるわ」
「へえ……」
タケは去っていく精霊を見つめた。
そして、ふと考える。
――もしかして、魔法という存在も、この世界にはあるのだろうか。
そう思うと、少しだけ胸が高鳴った。
「……クレア。この世界には、魔法もあるのか?」
「ええ。あるわ」
クレアは少し笑った。
「誰でも使えるわけじゃないのか?」
「人によって違うわ。それに、地域や国によっても魔法に対する考え方はかなり違うの」
「国もあるのか」
「もちろん」
クレアは歩きながら話を続ける。
「魔法を大切にする国もあれば、剣を重んじる国もある。精霊との共存を何より大切にする地域もあるわ」
「逆に、魔法そのものを拒む国もある」
「……結構いろいろあるんだな」
「ええ。それに、人間だけが暮らしているわけでもないわ」
「他にもいるのか?」
「長い耳を持つ種族や、獣の耳や尻尾を持つ種族もいる」
タケは思わず周囲を見回した。
「……本当に異世界なんだな」
「そうね」
クレアはまた小さく笑った。
しかし、今度はすぐに顔を曇らせ、話を続けた。
「でも、魔法だって万能じゃないわ」
「魔法では救えないものもある」
その言葉だけが、妙に重かった。
しばらく森を歩くと、やがて木々の向こうに明かりが見えてきた。
森を抜けた先に、町が広がっている。
石造りの家。
木造の店。
道沿いには、見たことのない果物や食べ物を並べた露店。
人々が行き交い、楽しそうに話している。
人間だけではない。
長い耳を持つ者。
獣の耳や尻尾を持つ者。
タケは、思わず足を止めた。
「……すごいな」
「ここがルクティアの町よ」
クレアが言った。
まるで田舎から上京したばかりの若者のように、キョロキョロと辺りを見渡すタケ。
その様子を見て、クレアはフッと小さく吹き出した。
「……そういえば、あなた。その格好のまま歩くつもり?」
クレアがタケを見る。
「え?」
「どう見ても、この町では目立つわ」
「……確かに」
クレアは少し考えたあと、タケを見る。
「服選びは私に任せなさい」
そう言って、クレアは店へ入っていった。
しばらくして選ばれたのは、黒を基調とした動きやすい服だった。
革製の装備に、小さな鞄。
「どう?」
クレアが少し得意げに尋ねる。
タケは自分の姿を見る。
「……悪くない」
「でしょう?」
クレアの口元が、ほんの少しだけ上がった。
タケは新しい服を見つめた。
――現実でこの格好をして歩いたら、完全にコスプレだな。
そんな場違いな感想が最初に浮かんだ。
けれど――不思議だった。
初めて着る服のはずなのに。
どこか、懐かしい。
理由は分からない。
ただ、胸の奥に小さな既視感だけが残った。
町の中央を歩いていたときだった。
タケは、古びた石碑のようなものが立っていることに気づいた。
長い年月を経たような古い石。
その表面には、三つの紋章が刻まれている。
月。
太陽。
そして――星。
「……?」
なぜか、その三つの紋章が妙に気になった。
だが、それ以上考える前に――
――ゴォォン。
町中に、低く重い鐘の音が響き渡った。
人々が一斉に空を見上げる。
クレアの表情から、笑みが消えた。
クレアは近くにいた町の男へ声をかけた。
「すみません。さっきの鐘は?」
「ああ……警告の鐘だよ」
「町の外で何か異変が起きたときに鳴らすんだ」
男は不安そうに森の方を見る。
「今、何が起きたのかまでは分からない」
「……これも爺さんなら分かるのかな」
男はそう呟いた。
「爺さん?」
「ああ。昔からこの町の外れに住んでいる爺さんがいるんだよ」
男は苦笑する。
「オレが子供の頃も爺さんだった」
「それだけじゃない。オレの親父が子供の頃も、やっぱり爺さんだったんだ」
――町の外れ。
そこには、大きな木が一本立っていた。
その下に、古びた木製の椅子がある。
そこに、一人の老人が座っていた。
白い髭。
深く刻まれた皺。
そして――年齢からは想像できないほど強い光を宿した瞳。
老人は、タケを見るなり目を細めた。
やがて、その視線は――胸元のペンダントへと落ちた。
「……それを、どこで手に入れた?」
タケが答えるより先に、クレアが言った。
「彼が選ばれたの」
老人の目が細くなる。
「月が……人を選んだか」
「月が人を選ぶ?」
タケが聞き返す。
老人はゆっくりと空を見上げた。
「セレネアには、かつて――月と共に生きる民がいた」
クレアの表情がわずかに変わる。
「……かつて?」
老人は続ける。
「月の民は、人の記憶を見ることができた。そして、見た記憶を月の民同士で共有することもできた」
「だが、その力を恐れた者がいた」
その声が静かに響く。
「そして――戦争が始まった」
「最後に、月の民は姿を消した」
「誰もが思った」
「もう終わったのだ、と」
老人は一度、言葉を切った。
「……じゃが」
その視線が、タケのペンダントへ向く。
「三百年ぶりに、月の紋章を宿すペンダントが現れた」
タケは胸元のペンダントを握った。
「……自分がなぜ選ばれたのか、知りたいか?」
タケは少し黙る。
なぜ自分なのか。
なぜ、この世界に来たのか。
なぜ、このペンダントに選ばれたのか。
そして――なぜクレアを見たとき、あれほど懐かしいと感じたのか。
答えは何一つ分からない。
だからこそ、返答は決まっている。
自分は知るために来たのだから。
「……知りたい」
クレアは何も言わなかった。
ただ、少しだけ厳しい表情で老人を見ていた。
まるで――彼女自身も、すべてを知っているわけではないようだった。
老人は静かに頷いた。
「……そうか」
「ならば、ひとつだけ覚えておきなさい」
「選ばれた者というのは、特別な力を持つ者のことではない」
老人は月を見上げる。
「月が選ぶのは――」
「自らの意思で進む者じゃ」
老人はさらに、三百年前の予言について語った。
三百年前。
最後の月の民が消える前に、一つの予言を残したという。
「月の記憶が失われたとき――」
「異世界から、一人の人間が現れる」
「その者は、この世界の魔法を知らず」
「この世界の歴史も知らず」
「何者でもない」
老人はタケを見る。
「だからこそ――未来を選べる」
「月は、その者に記憶を託す」
その瞬間だった。
胸元のペンダントが、強く光った。
「……!」
タケの視界が白く染まる。
次の瞬間――
そこには、白い塔があった。
月明かりに照らされたその塔の上に、一人の女性が立っている。
長い銀白色の髪。
けれど、その顔は見えない。
女性は静かにこちらを見つめ――
『あなたが来るのを……ずっと待っていた』
その声を最後に、視界が途切れた。
「……っ」
タケは息を呑んだ。
隣にいたクレアの表情が、明らかに変わっていた。
老人は、そんなクレアを見て静かに言う。
「……どうやら、お前さんも覚悟を決める時が来たようじゃな」
「何のこと?」
クレアの声は静かだった。
「とぼけるでない」
老人は目を細める。
「この男が選ばれたということは――」
「お前さんもまた、月の記憶から逃げられんということじゃ」
クレアはしばらく黙っていた。
やがて、静かに答える。
「……まだ、話す時ではないわ」
老人はそれ以上追及しなかった。
そして、タケへ向き直る。
「なぜ選ばれたのか――その答えは、この町にはない」
「だが、手掛かりならある」
老人が指を向けた先。
森の奥に、細い道が続いていた。
「森の先に、月見の遺跡がある」
「そこには三百年前、月の民が残した記録が眠っている」
遠くで、黒い光がさらに強くなった。
老人はそれを見つめる。
「……何かが目覚め始めておる」
クレアがタケを見る。
「どうする?」
タケは、しばらく黒い光を見つめた。
そして――
「行こう」
タケは迷わず答えた。
老人は旅に必要なものをいくつか用意してくれた。
保存食。
薬草。
そして、火を起こすための道具。
クレアは少し困ったような顔をした。
「……私、冒険者じゃないんだけど」
老人は笑った。
「似たようなものじゃろ」
クレアは何も言わず、受け取った袋を腰に結びつけた。
小さく呟く。
「……この町の老人って、みんなこうなのかしら」
老人は最後に言った。
「月見の遺跡へ行くなら、気をつけるんじゃ」
「夜の遺跡には、“月影”が出るからの」
「月影……?」
クレアが眉を寄せる。
「昔から遺跡を守っている存在じゃ」
「敵なのか、味方なのか――それはわしにも分からん」
二人は、ルクティアの町を後にした。
石造りの道が、少しずつ細くなっていく。
やがて道は森へと消えていった。
木々の隙間から、巨大な月が見える。
淡い月明かりが、二人の足元を照らしていた。
時折、淡い青色の精霊が二人の周りを飛んでいく。
町の喧騒は、もう聞こえない。
聞こえるのは、木々の葉が風に揺れる音と、二人の足音だけだった。
しばらく歩いたところで、クレアが口を開いた。
「……ねえ、タケ」
「ん?」
「さっきの予言。どう思う?」
タケは少し考えた。
「異世界から来た人間が、月に選ばれる」
「正直、俺にも信じられない話だよ」
クレアは静かに頷いた。
「でも――」
「あなたのペンダントが反応している以上、偶然とは思えない」
タケは黙って歩き続けた。
やがて、クレアが少しだけ歩調を緩める。
「一つ、約束して」
「危険を感じたら、私の言うことを聞いて」
「あなたはまだ、この世界のことを何も知らない」
「魔法も、精霊も、この世界に何が潜んでいるのかも……あなたには分からない」
クレアは少しだけ視線を逸らした。
「死なれたら困るもの……」
そして、すぐに付け加える。
「変な意味じゃないわよ……」
タケは思わず笑った。
「分かってるよ」
クレアは少しだけ不満そうな顔をした。
「……ならいいけど」
二人は再び、森の奥へ進んでいく。
その先に待つものが何なのか――
まだ、二人は知らなかった。




