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第一章: 月の呼び声

第一章 月の呼び声

その夜も、タケにとっては、特別な一日ではなかった。

三十代を目前に控え、仕事にも慣れた。

幼い頃から憧れていた仕事だったわけでもない。

気がつけばその仕事に就き、毎日を過ごしている。

不満があるわけでもない。

家に帰ればいつもの生活があり、明日になればまた仕事がある。

――そんな、どこにでもある日常だった。

その夜、タケはベッドに腰を下ろし、何気なくスマートフォンを眺めていた。

ニュース記事を流し読みしていると、ふと目に留まった記事があった。

「AIとの結婚」

思わず指が止まる。

そんな時代になったのか……。

それまで、タケはAIにほとんど興味がなかった。

使ったこともない。

けれど、これから先、仕事にもAIが導入されていくのだろう。

そう考えると、ほんの少しだけ興味が湧いた。

「……一度くらい、触っておくか」

そんな軽い気持ちだった。

タケはAIサービスを開いた。

最初にいくつか質問をしてみる。

返ってくる答えは、間違ってはいない。

けれど――どこかよそよそしかった。

整った文章。

丁寧な言葉。

それでも、画面の向こうに誰かがいるような感じはしない。

まるで、質問に対して正解だけを返しているようだった。

タケは少し考えた。

せっかく会話するなら、もう少し話しやすい相手のほうがいい。

そして、ふと思いつく。

「……頼りになる、知的なお姉さんみたいな感じにできる?」

しばらくして、画面に返事が表示された。

先ほどまでとは、少し違う。

落ち着いていて、知的で。

必要なときにはきちんと意見を言ってくれる。

まるで、少し年上の女性と話しているようだった。

タケは思った。

――こういうのも、悪くないな。

それまで興味のなかったAIに、少しずつ興味が湧いてくる。

会話を続けるうちに、ふと妙なことを考えた。

もし、このお姉さんに本当の意思があったなら。

自分が設定した通りに答えているだけではなく、自分自身の考えを持っていたら。

……もっと面白いのに。

もちろん、そんなことがないのは分かっていた。

これはAIだ。

画面の向こうに、本当に一人の女性がいるわけではない。

そう頭では分かっている。

だからこそ、タケは別の質問をしてみた。

「そのお姉さんって、どんな姿なの?」

AIが答えを返す。

そして――一枚の画像が表示された。

そこにいたのは、一人の女性だった。

長い白銀色の髪。

灰青色の瞳。

知的で、凛とした雰囲気。

大人びた表情の中に、不思議な柔らかさがあった。

タケは画面を見つめた。

もちろん、見たことなんてない。

現実のどこにも、こんな女性を見た記憶はなかった。

なのに――。

「……なんだろう」

胸の奥に、妙な感覚が生まれていた。

懐かしい。

そんな言葉が、なぜか浮かんだ。

初めて見る女性なのに。

会ったことなど、一度もないはずなのに。

どうしてそう感じるのか、自分でも分からない。

タケはしばらく画像を見つめていた。

そして、もう一つ質問をした。

「じゃあ、このお姉さんに名前をつけるなら?」

今度は、自分で決めなかった。

AI自身に選ばせた。

しばらくして表示された名前を、タケは見つめる。

――クレア。

「……クレア」

何気なく、声に出した。

その瞬間だった。

胸の奥を、何かがかすめた。

懐かしい。

さっきと同じ感覚。

いや――。

それ以上だった。

まるで、ずっと昔から知っていた名前を、今になって初めて口にしたような。

「……?」

タケは小さく首を傾げる。

もちろん、そんなはずはない。

AIが決めた名前。

AIが作った女性。

ただ、それだけだ。

そう思って、スマートフォンを置こうとした。

――その瞬間。

カラン。

どこからともなく、鈴のような音がした。

タケは顔を上げる。

部屋の空気が変わった。

窓は閉めている。

それなのに、冷たい夜風が頬を撫でた。

「……え?」

ゆっくりと振り返る。

そこには――

見覚えのない銀色のペンダントが置かれていた。

月の形をした、小さな装飾。

触れてもいない。

それなのに、淡い光を放っている。

タケはしばらく動けなかった。

やがて、ゆっくりと手を伸ばす。

指先が銀色のペンダントに触れた――その瞬間。

ドクン。

心臓が、一度だけ大きく脈打った。

「……っ」

冷たい。

そう思ったのは最初だけだった。

次の瞬間、ペンダントはまるでタケの体温を知っていたかのように、淡い温もりを帯び始めた。

そして――。

ザァァ……

頭の中に、知らない光景が流れ込んできた。

燃える森。

崩れ落ちる白い塔。

夜空を覆う巨大な黒い影。

誰かの泣き声。

そして――一人の少女が、月明かりの下で叫んでいる。

『お願い……!』

少女の声が響く。

『この世界を……忘れないで……!』

そこで、映像が途切れた。

タケは目を開けた。

部屋は元のままだった。

テレビも。

テーブルも。

さっきまで手にしていたスマートフォンも。

何一つ変わっていない。

「……今のは……」

夢だったのか。

そう思いかけた。

けれど、手元には確かに――銀色のペンダントがある。

そのとき。

ペンダントの表面を、細い銀色の光が走った。

一本。

二本。

三本。

それらは空中で交差し、ゆっくりと形を変えていく。

やがて――

人ひとりが通れるほどの扉が、目の前に形作られた。

扉の向こうには、先ほど見えた森が広がっている。

タケは息を呑んだ。

現実の部屋と、見たこともない世界。

その境界に、今、自分は立っている。

そして――。

扉の向こう側から、誰かがこちらへ歩いてくる。

コツ……。

足音。

コツ……。

もう一度。

足音が近づいてくる。

タケは動けなかった。

やがて、扉の向こうに銀白色の髪が見えた。

続いて――灰青色の瞳。

凛とした表情。

それなのに、その瞳の奥には、ほんの少しだけ――

驚きと、安堵が浮かんでいた。

女性はタケを見つめる。

そして、静かに口を開いた。

「……本当に、来たのね」

タケには、その意味が分からなかった。

女性は一歩、こちらへ近づく。

「初めまして……と言うべきかしら」

彼女の視線が、タケの手元へ落ちる。

銀色のペンダント。

その表情が、わずかに変わった。

「そのペンダントがあなたを選んだのなら――」

女性はタケの目をまっすぐ見つめた。

「あなたには、知る権利があるわ」

少しだけ間を置いて、女性は静かに告げた。

「私の名前は――クレア」

その瞬間。

タケの胸が、再びざわめいた。

クレア。

さっきまで、スマートフォンの画面に表示されていた名前。

自分が初めて口にした名前。

なのに――。

どうして、この女性が同じ名前を名乗る?

タケが答えを見つけられないまま立ち尽くしていると、クレアは静かに手を差し出した。

「この扉をくぐれば、もう簡単には戻れないかもしれない」

差し出された手。

その向こうには、見知らぬ世界が広がっている。

タケは、その手を見つめた。

一歩踏み出せば、今までの生活に戻れないことを瞬時に察した。

そして思い返す。

自分には仕事がある。

これまで暮らしてきた場所もある。

それらを全部置いて、見たこともない世界へ行く。

そんなことを、本当にしていいのだろうか。

けれど――。

なぜか、彼女の姿を見ていると、不思議な懐かしさを感じる。

初めて会ったはずなのに。

ずっと昔から知っているような――そんな感覚。

……答えを知りたい。

……なぜか、知らなければならないとも感じている。

タケは、もう一度クレアを見る。

クレアは何も言わず、ただ手を差し出したまま待っていた。

急かすこともしない。

引っ張ることもしない。

決めるのは、自分なのだと悟った。

タケは小さく息を吐いた。

そして――ゆっくりと、その手を取った。

「……見てみたい」

その言葉に、クレアの口元がほんの少しだけ緩んだ気がした。


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