第五章: セレナの記録
第五章 セレナの記録
三人は、階段の先へ出る。
空に近くなったからなのか――
月明かりが、いつもより眩しく感じられた。
「本当は、もっと高かったのかしら……」
クレアが周囲を見渡す。
すると、辺りを囲んでいた壁が、ところどころ崩れているのがわかる。
崩れた壁には蔦が絡みついている。
相当前から、ここは壊れていたのだろう。
「あれは……」
タケが、何かに気づく。
その視線の先――
奥に、青白い灯りが見えた。
三人は、その灯りへと近づいていく。
そこにあったのは――
「記憶晶……です」
リゼは驚いたように目を見開き、記憶晶を見上げる。
月見の遺跡で見たものと同じ。
巨大な水晶が、そこに静かに立っていた。
記憶晶の淡い光が、大きく揺らめく。
その瞬間――
ゴォオオオン――
「……っ!」
三人は、その大きな音に思わず耳を塞ぐ。
鐘の音が、辺り一帯に響き渡った。
「町で聞いた……あの鐘だ」
タケが呟く。
「記憶晶の中から、鳴っていたのね……」
クレアが、記憶晶を見つめながら答える。
やがて、揺らめきは収まっていく。
記憶晶には再び、淡い光がゆっくりと渦巻き始めた。
三人は、お互いに目を合わせる。
そして――
「……三人で触れましょう」
クレアが口を開く。
二人は黙って頷いた。
三人は記憶晶へ向き直り――
同時に、手を差し伸べた。
気がつくと、三人は白い空間に立っていた。
どこまでも白く、先は見えない。
『ここは……あの時の』
タケは、星の扉の試練で出会った男を思い出した。
「記憶晶の中なの?」
「……わかりません」
クレアとリゼも、今いる場所に困惑している。
そんな三人のもとへ――
一人の女性が歩いてくる。
……コツ。
女性は、三人の手前で足を止めた。
「……本当に、来たのね」
銀白色の髪。
灰青色の瞳。
その女性は、三人を静かに見つめている。
「あなたは……?」
クレアが尋ねる。
「私の名前は、セレナ……月の民の一人よ」
「――!?」
月の民という言葉に、三人は驚く。
続けて、クレアが尋ねた。
「月の民は、この世界にいるの?」
セレナは、静かに答える。
「今の……この世界には、いないわ」
「あなたたちの目の前にいる私も、記憶だけの存在なの」
タケは、少し考える。
「セレナさんは、俺たちが来るのをわかってたのか?」
その言葉に、セレナは少し笑う。
「セレナでいいわ、タケ」
『俺のことを知っているのか』
タケは、頭の中で思った。
「……」
少し間を置いて、セレナは答える。
「ここに来るのが、わかっていたのかと言われれば――」
「それは、わからなかったわ」
「けどね……」
セレナは、もう一度三人を見る。
「来るための準備はしていた」
「その日が来ると信じて……ね」
リゼがおずおずと手を挙げ、尋ねる。
「あの……ここは?」
セレナは、そんなリゼの姿に静かに微笑み、答えた。
「ここは、記憶の世界……と言ったらいいかな」
「噛み砕いて言うなら……」
セレナは少し考えるように間を置く。
「生者と死者の狭間の世界、と言ってもいいのかしらね」
それは――
今の三人が生者であるなら、セレナは死者なのだと。
そう思わせる言葉だった。
「あなたたちに託すのは、私の記憶」
「それを見て、あなたたちが決めて」
セレナはそう言うと、目を閉じ、祈るように両手を握る。
瞬間――
三人の脳裏に、何かが映し出される。
――セレネアの風景。
町には、溢れんばかりの人々。
誰もが笑顔で、楽しそうに日々を過ごしている。
中には、その風格から各国の王と思われる者たちの姿もあった。
そして、それぞれの王の傍らには、護衛とは別に、一人の人物が付き従っていた。
『月の民は、月の魔力を使い、常人には発現できない魔法を行使する』
『そうやって、国の……世界の発展に力を貸していったの』
頭の中に、セレナの声が響く。
ザザッ……
――映像が変わる。
燃え盛る炎の中。
剣士や魔法使い――
たくさんの人々が戦っている。
その中には、月影を使役する人々の姿もあった。
『けれど、その中には私たち月の民を妬む者もいた』
『妬み、羨み……ときには、恐怖し……』
『やがて膨れ上がった、その負の感情は――』
『魔力を取り込み、混沌を巻き起こす』
戦士たちが立ち向かう、その先にいたのも――
同じ人間たちだった。
『混沌は、一つの存在として』
『人々の負の感情に、さらに拍車をかける』
争いの奥で――
巨大な黒い光が、天へ向かって立ちのぼる。
『混沌の渦――ヴァルガ』
『私たちは、その存在をそう呼んだ』
映像が変わる。
各国の王たちが集まり、何かを必死に話し合っている。
「どうすれば、この混乱を抑えられる!?」
「このままでは……世界が終わる……」
月の民の一人が、静かに口を開く。
「ヴァルガは、人々が生み出したもの」
「倒すのではなく、救わなければならない」
その言葉に、王の一人が反応する。
「では、誰が救えるというのだ?」
「……」
わずかな沈黙の後、月の民が答えた。
「月の民の力を持ち、精霊を従える者」
ザザッ……
――再び、映像が変わる。
セレナと一人の女性が、どこかへ向かっていた。
二人の表情には、不安と焦りが浮かんでいる。
「母さん……?」
セレナと共にいる女性を見て、タケは思わず口にする。
今より、ずっと若い。
けれど、見間違うはずがない。
その女性は――
紛れもなく、タケの母だった。
その瞬間。
ガキィィンッ!
突如、一人の男がセレナに斬りかかった。
「……っ!」
セレナは、男が振り下ろした剣を短剣で受け止める。
「おほぉー」
男は、セレナと隣にいる女性を見比べ、下卑た笑みを浮かべた。
「なぶりがいのある美人が、二人もいるじゃねぇかぁ」
そう言って、手にした曲刀をトンッと肩に乗せる。
「二人をどうしたの!?」
セレナが険しい表情で、男に叫ぶ。
「あぁ?」
男は一瞬、何のことかわからず、眉をひそめた。
だが、すぐに何かに気づいたように目を細める。
「……なるほど」
男は、セレナを見据えた。
「お前ら、月の民だな」
口元に、歪んだ笑みが浮かぶ。
「俺の記憶を読んだか」
男は、二人を軽々と飛び越える。
「お前らと遊べねぇのは、ちと惜しいが……」
男は曲刀を肩に担ぎ直し、口元を歪めた。
「目的は、済んだからなぁ」
そう言い残し、走り去っていく。
「待ちなさい!」
タケの母は、すぐさま男の後を追おうとした。
「ダメ!」
セレナが、その肩を掴んで引き止める。
「あの男から、二人の姿が見えた……」
セレナの手が、タケの母の肩に触れている。
その瞬間――
セレナを通じて、男の記憶が流れ込んだ。
タケの母は、驚いたように目を見開く。
その表情を見て、セレナは察した。
――私を通じて、男の記憶を読んだのだ。
「まだ……間に合う」
直後、タケの母は目の前に扉を開く。
「私は追いかける!」
そう言い残し、勢いよく扉へと飛び込んだ。
「待っ……!」
セレナが手を伸ばしたときには、もう遅かった。
扉は、目の前で消えていった。
セレナは、消えゆく扉に手を伸ばした。
「……」
伸ばした手を、強く握りしめる。
唇を噛みしめ、込み上げる感情を押し殺すと、再び走り出した。
白い塔の前。
そこには、一人の少女が彷徨っている。
「クレア!」
セレナは少女の名を叫び、その身体を強く抱きしめた。
「無事でよかった……」
安堵の声が、かすかに震える。
しかし、クレアはキョトンとした顔でセレナを見上げた。
「……あなた、誰?」
「……!」
セレナの表情が凍りつく。
彼女はクレアの肩を両手で掴み、その顔を確かめるように見つめた。
「クレア……あなた……」
セレナは、クレアの記憶を読んだ。
その瞬間――
「……そういうことなのね」
男の記憶と、目の前の光景が繋がる。
あの男は、禁じられた魔法を使ったのだ。
いや――正確には、クレアに使わせた。
月の民の力を得るために。
そして、その代償として差し出されたのは――
クレアの記憶だった。
「……っ」
セレナの手が震える。
頬を、一筋の涙が伝った。
「どうしたの? 何で泣いてるの?」
クレアが、困ったように尋ねる。
その声には、何の疑いもなかった。
目の前の少女は、自分が何を失ったのかさえ知らない。
セレナは答えられなかった。
ただ、クレアの肩を掴む手に、再び力がこもった。
ザザッ……
映像が変わる。
セレナは、クレアを連れ、王たちと月の民が集まる場所にいた。
「……!」
セレナの話を聞いた月の民の一人が、驚きに目を見開く。
その者は、しばらく何かを考えるように沈黙していた。
その表情には、苦渋の決断を下した者の覚悟が浮かんでいた。
「我々は……」
一度、言葉を切る。
「この先の世界へ向かい、ヴァルガを救う者の道標となります」
その言葉に、王の一人が問いかけた。
「ヴァルガを救う方法は、本当に存在するのか?」
月の民は、すぐには答えなかった。
「……確かなことは、何もわかりません」
「では、なぜ救える者がいるなどと言える?」
王の問いに、月の民は慎重に言葉を選ぶ。
「古い神話に、ある精霊の存在が記されています」
「その精霊と契約するには、月の民の力と、精霊を従える力。その両方が必要だと伝えられています」
「そんな者が、本当にいるというのか?」
「……一人だけ、心当たりがあります」
月の民は、静かに顔を上げた。
「しかし、その者はまだ幼く……」
言葉が途切れる。
「ヴァルガの手により、今は居場所すらわかりません……」
「……!」
王たちの顔に、一斉に驚きが広がった。
「つまり……」
王の一人が、険しい表情で口を開く。
「居場所もわからぬ、その一人のために、そなたらは先の世界へ向かうというのか?」
「今の私たちにできるのは……」
月の民は、静かに答えた。
「再びその者が現れたとき、進むべき道を示せるよう、道標を残すことなのです」
その言葉を聞いた王の一人が、声を荒らげた。
「来るかもわからぬ者のために……」
拳を握りしめ、月の民を睨みつける。
「その者が、本当に世界を救えるかどうかもわからぬというのに……」
声に、抑えきれない怒りが滲んでいく。
「そんなわずかな可能性に賭けて、この世界を捨てるというのか!?」
その怒声を皮切りに、ほかの王たちも次々と声を上げた。
「そうだ!」
「見損なったぞ!」
「お前たちは、我々を置いていくのか!」
その場は騒然とし、王たちの怒号が飛び交う。
ドォンッ!
一人の王が、テーブルを叩いた。
その音に、怒号が止む。
静けさが戻り、その場にいた者たちの視線が、一斉にその王へと集まった。
「そなたらは、一国の王であろう」
王は、周囲を見渡しながら言葉を続ける。
「王たる者が、そう簡単に取り乱すものではない」
その言葉に、王たちは一斉に口をつぐんだ。
「……」
やがて、王はゆっくりと立ち上がる。
「そなたらの国は、この世界は……月の民だけの力で成り立ってきたのか!?」
王は皆に手を差し伸べるようにして続けた。
「そうではないだろう!?」
「我々にも、守るべき民がいる!」
「民たちが生きる未来がある!」
伸ばした手を、強く握りしめる。
「わずかでも可能性があるのならば、我々がするべきことは、ここで嘆き、責め合うことではない!」
そして、声を落とし、諭すように語りかけた。
「守るべき民のため……」
一度、言葉を切る。
「今だけの話ではない」
「その先に託す者たちのために……」
王は、真っ直ぐに周囲を見渡す。
「今を生きる王としての役目を、果たそうではないか」
その言葉に、周囲の王たちははっとしたように顔を伏せた。
やがて――
「……その通りだ」
一人の王が、静かに口を開いた。
その一言をきっかけに、ほかの王たちも顔を上げる。
「やろう!」
「今、我々にできることを!」
決意の声が、次々と広がっていった。
やがて、立ち上がった王は月の民へと向き直る。
「すまなかった」
深く頭を下げ、名乗る。
「剣の国グラディウスの王、レグルス・グラディウスが、王たちを代表して謝罪しよう」
その姿を見て、ほかの王たちも立ち上がった。
そして、一斉に頭を下げる。
レグルスはゆっくりと顔を上げると、少しだけ微笑んだ。
「どうやら少し、そなたらに甘えすぎておったわ」
レグルスは、決意を固めた表情で尋ねた。
「改めて聞こう」
「今の我々に、何ができる?」
月の民もまた、王たちに向かって一度頭を下げた。
「今は我々が力を合わせて、ヴァルガを封印することしかできません」
「しかし、やがてその封印は解けるでしょう」
月の民の一人が、静かに言葉を続けた。
「ヴァルガの手の者の中に、我々の力を手にした者がいます」
その言葉に、王たちの表情がわずかに曇る。
「その者がいる限り、ヴァルガがこの先の世界へ干渉する恐れがあります」
月の民は、王たちの反応を確かめるように視線を巡らせた。
「だからこそ、我々は太陽の扉を閉じるつもりです」
王たちは、黙ってその言葉を聞いていた。
「一度扉を閉じれば、こちらの世界との繋がりは失われます」
月の民は、わずかに目を伏せた。
「……やがて、この世界の人々は、我々のことを忘れていくでしょう」
その場に、重い沈黙が落ちた。
「我々がここにいたことも……」
「共に戦ったことも……」
「いつか、誰の記憶にも残らなくなるかもしれません」
月の民は顔を上げ、王たちを見渡した。
「それでも、わずかな可能性があるのなら……我々は、その未来に賭けたいのです」
レグルスは、話をする月の民の肩にそっと手を添えた。
そして、わずかに微笑む。
「あいわかった……」
一度目を伏せ、静かに続けた。
「そなたらにも、険しい道を歩ませてすまない」
やがて、レグルスは王たちに向き直った。
「聞いたか!? 王たちよ!」
その声が、広間に響き渡る。
「我々は、全ての力をもってヴァルガを封じる!」
レグルスは、一度息を整えた。
「我々がいつか月の民を忘れるというのなら……」
拳を強く握りしめ、王たちを見渡す。
「言葉を、歴史を、未来へと繋いでいくのだ!」
「来たるべき時を信じ、喜んでその礎となろうぞ!」
その言葉に、王たちは力強く拳を握りしめた。
「お主にも、最後まで世話になるな……」
レグルスは、申し訳なさそうに傍らの男へ声を掛けた。
「大将、俺は息子のために戦うんだ」
男は、手にした大きな曲刀を肩に担ぎ、わずかに笑った。
「命を懸けるのに、それ以上の理由はいらんでしょう?」
そう言い残し、男は部屋を出ていった。
その背中が遠ざかっていく。
やがて、視界が白く染まり――
――気がつくと、三人の意識は再び白い空間へと戻っていた。
目の前には、セレナが立っている。
「……」
三人は、目の前の光景を振り返るように、しばらく黙っていた。
やがて、セレナが静かに口を開く。
「月の民は、先の世界へ向かった者と、過去に残った者に分かれたの」
「全ては、来たるべき未来のために……」
セレナは、そっとリゼへと視線を向けた。
そして、再び三人に向き直る。
「過去の王たちは、記憶を絶やさぬよう、次の世代へ言葉を、歴史を繋いでいった」
一度、言葉を切る。
「私も、リゼちゃんと同じ……」
セレナは、穏やかな微笑みを浮かべた。
「月の民の一人として、自分の役目を果たすために、ここに残ったのよ」
リゼは、一瞬驚いた表情を見せた。
しかし、考えがまとまらないのか、再び俯き、考え込んでしまう。
「リゼちゃん」
セレナに呼ばれ、リゼはびくっと肩を震わせた。
そして、顔を上げる。
「……はい」
セレナは、少し悲しげな表情でリゼを見つめた。
「あなたが考えていることは、いずれ知ることになるわ」
「勝手だとは思うけど……」
セレナは、わずかに目を伏せた。
「どうか、それを知っても前を向いてほしい」
リゼには、セレナの言葉の意味がよく理解できなかった。
それでも、その声に込められた想いだけは、何となく伝わってきた。
「……はい」
今は、それだけを答えた。
「さて……」
セレナは、タケとクレアを交互に見つめた。
すると、タケが一歩前に出る。
「最後に、レグルス王が話していた人は……」
一瞬、言葉を切る。
そして、意を決したように尋ねた。
「父さんなんですか?」
「……ええ。彼の名はラグナ」
セレナは、遠くを見つめる。
まるで、遠い日の彼を思い出すかのように。
「戦いだけじゃない。心も強く、勇敢な戦士だったわ」
「……」
タケは、母の言葉を思い返していた。
『父さんはねぇ』
『強くて、優しかった』
そして、今のセレナの言葉。
ここが、生者と死者の狭間にあるという世界なら――。
断片的な情報は、すでにタケの中で一つの答えを形作っていた。
頭では、わかっている。
けれど――
本当は、わかりたくなかった。
その答えを口にすれば、もう後戻りできない気がした。
今はまだ、それを受け止める覚悟がない。
だから、タケはそれ以上尋ねることをやめた。
ただ、黙って俯いていた。
「クレア」
セレナの声に、クレアが顔を上げる。
「あなたは、昔から賢い子だから」
そう言って、セレナは微笑んだ。
「もう、自分の中でパズルは完成しつつあるんでしょう?」
クレアは何も答えず、静かにセレナを見つめていた。
「……」
セレナは、そんなクレアを見つめながら続ける。
「ただ、一つだけ抜けている部分がある」
「それが――」
「アストロ……」
クレアが先に答えた。
セレナは何も言わず、静かに頷く。
「ルナス……月の民に与えられた力」
セレナは、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「私たちは、そう呼んでいるわ」
「ルナスによって、私たちは過去や、異なる世界の現在、そして未来へと繋がる扉を開くことができる」
セレナは胸に手を当て、そっと目を閉じた。
「人の記憶を読むこともできる」
「そして、月の民同士であれば、その記憶を共有することもできるわ」
そこで、セレナは一度言葉を切った。
「けれど……」
ゆっくりと目を開き、クレアを見つめる。
「記憶を辿り、忘れていたことを思い出す手助けはできる……」
「けれど、失われた記憶そのものを、元に戻すことはできないの」
クレアは、その言葉を真っすぐに受け止めていた。
やがて、静かに口を開く。
「ええ。だから私は、もう一度アストロに会わなければならない」
クレアは、迷いのない声でそう答えた。
その言葉を聞き、セレナは静かに微笑む。
しかし――
ピシッ。
不意に、乾いた音が響いた。
「……?」
タケたちが周囲を見渡す。
白く、どこまでも広がっていた空間。その一角に、細い亀裂が走っていた。
亀裂は、ゆっくりと広がっていく。
セレナはそれを見つめ、小さく息を吐いた。
「私の記憶も、あまり時間がないわね……」
そう呟くと、再び三人へと視線を戻す。
「塔には、私が使っていた部屋があるの」
「そこに、アストロに関わる本を残してあるわ」
「何か、あなたたちの役に立つかもしれない」
セレナは、そこで一度言葉を切った。
静かに口を開く。
「私たちは、ヴァルガを封じることしかできなかった」
セレナは、静かに目を伏せて話す。
「それでも、いつか誰かが、この戦いに終止符を打ってくれると信じた」
ゆっくりと顔を上げ、タケたちを見つめる。
「……私は、あなたたちに期待しているのだと思う」
「けれど、これは私たちの願いよ。あなたたちが背負わなければならないものではない」
セレナは、少しだけ寂しそうに微笑んだ。
「だから……すべてを知ったうえで、あなたたち自身が決めてほしかったの」
三人は、セレナの言葉を黙って受け止めていた。
「……クレア」
セレナが、静かにその名を呼ぶ。
その顔には、優しい微笑みが浮かんでいた。
けれど――
その目から、涙がこぼれ落ちる。
「あなたは……」
セレナの声が、かすかに震える。
「いつも誰かのために、一生懸命だから……」
頬を伝う涙を拭うこともなく、セレナはクレアを見つめ続けた。
「もう少し、自分のことも大切にしなさい……」
その言葉に、クレアの表情がわずかに揺れた。
何かを言おうと、唇がかすかに動く。
けれど、言葉にはならなかった。
視界が、ゆっくりと白く染まっていく。
「あ……」
クレアが、セレナに手を伸ばす――。
その手が届くことはなかった。
気づけば、三人は記憶晶の前に立っていた。
目の前では、淡い光がゆっくりと渦巻いている。
三人は、しばらくその場を動けずにいた。
先ほどまで、確かにそこにいたセレナ。
もう一度、その姿を見ることはできない。
そう感じたからだろうか。
三人には、記憶晶の淡い光が、どこか寂しげに見えた。
――月明かりの下。
風に揺られ、木々の葉がかすかに音を立てる。
それ以外には、何も聞こえない。
静寂を破るように――
ゴゴゴ……
先ほど上ってきた階段とは別に、下へと続く階段が姿を現した。
クレアは腰に手を当て、フゥーッと長いため息をつく。
「少し、休みましょう」
二人はクレアの言葉に頷き、現れた階段を降りていく。
階段の先には、小さな部屋があった。
壁一面に並ぶ本棚には、数え切れないほどの本が敷き詰められている。
隣には台所があり、奥にはベッドの置かれた部屋も見えた。
長い間、使われていたと思われるその場所は、どこも綺麗に整理されていた。
クレアは台所へ向かい、食器を確認する。
「紅茶でも淹れるわ。二人は少し休んでいて」
「あ、私も手伝います」
リゼはそう言って、クレアの後を追った。
二人の姿を見送ると、タケは降りてきた階段を少し上り、その段差に腰を下ろした。
懐から煙草を一本取り出し、火をつける。
ゆっくりと煙を吐き出しながら、ふと思う。
『……ここにも、煙草なんてあるのかな』
初めは、そんな他愛もないことを考えていた。
けれど、やがて――
これまでに起きた出来事が、少しずつ頭の中によみがえる。
黒い光。
月の民。
白い塔で見た、過去の記憶。
セレナが語った三百年前の真実。
色々なことを知った。
セレナの言葉を借りるなら、自分の中にあるパズルも、ほとんど埋まってきているのだろう。
残されたピースを埋める存在は、やはりアストロなのだと思う。
ただ……。
タケは、煙草を持つ手を止めた。
その先は――。
考えかけた言葉を、胸の奥にしまい込むように、タケは再び煙を吐き出した。
「あっ」
階段の下から、ひょこっと顔を覗かせたリゼが、タケを見つける。
「紅茶が入りました」
なぜか、いつもより嬉しそうな顔をしている。
「初めて淹れたので……その……」
少し照れくさそうに視線を泳がせた。
「味は保証できませんが」
それでも、リゼは笑顔を見せる。
「冷める前に、一緒に飲みましょう」
そう言うと、ひょこっと覗かせていた顔を引っ込めた。
その姿に、タケはふっと笑みをこぼす。
――無理をしているのかもしれない。
それでも、少しでも場の雰囲気を明るくしようとしている。
そんなリゼの姿に、タケの心はわずかに軽くなった。
小さなテーブルを、三人で囲む。
タケは紅茶の入ったカップを手に取った。
どこか懐かしく、心をほぐしてくれるような香りが漂う。
一口、口に含む。
「美味いな……」
温かな紅茶とその香りに、タケはほっと息をついた。
「へへ……」
リゼが、照れくさそうに笑う。
「クレアさんが、教えてくれました」
「おすすめの紅茶は、ほかにもあるのよ」
クレアは微笑みながら、リゼに告げた。
「今度、一緒に飲みに行きましょうね。お茶菓子もつけて」
「お茶菓子……」
その言葉に、リゼの目がわずかに輝く。
どうやら、今のリゼは紅茶よりも、お茶菓子のほうが気になるらしい。
そんなリゼを見て、クレアは小さく笑った。
やがて、カップをテーブルに置く。
「さて……」
その声に、穏やかだった空気が少しだけ引き締まった。
「これから、セレナが言っていたアストロに関わる本を探しましょう」
タケとリゼは、黙って頷いた。
「何が書かれているかは、わからないけれど……」
クレアは、二人を見つめる。
「その後、アストロに会いに行く」
その声には、わずかな緊張が滲んでいた。
「どちらにせよ、穏便に事が運ぶとは思っていないわ」
そう言って、クレアは紅茶を一口飲む。
そして、カップを置くと、改めて二人に視線を向けた。
「その前に……」
一拍、間を置く。
「二人とも、私に伝えておきたいことはない?」
タケとリゼは、一度お互いの目を合わせた。
やがて、二人とも視線を落とし、それぞれに考えを巡らせる。
しばらくの沈黙の後――
「はい」
リゼが顔を上げ、二人を見つめた。
その瞳には、確かな意志が宿っていた。
「私は……何で今もこうして生きているのか、わかりません」
一度言葉を切り、リゼは続ける。
「でも……不謹慎かもしれませんけど」
少し微笑み、そっと目を閉じた。
「あの日、お二人が私を連れ出してくれて……」
「一緒に行こうって、言ってくれて……」
「本当に嬉しかった……」
ゆっくりと目を開き、もう一度二人を見つめる。
「危ないこともあったけど、いろんなものを見て……」
「ここまで一緒に旅をしてきて、本当に楽しかったんです」
リゼは、膝の上で両手を重ねた。
「これから、私は何かを知ることになると思います」
「それが哀しいことだったり……挫けそうになるようなことだったとしても……」
少し照れくさそうに目を伏せ、両手の指をそっと絡ませる。
「私は……まだ、お二人と旅がしたい……」
ちらりと上目遣いに二人を見て、すぐにまた視線を落とした。
「私からは……以上です」
タケは、リゼの言葉を聞きながら、再び考えを巡らせていた。
理由もわからないまま、セレネアにやって来た。
そこでクレアとリゼに出会い、三人で旅を続けてきた。
まだ、数日しか経っていない。
それなのに、これまでの出来事はあまりにも濃密だった。
危険な目にも何度も遭った。
それでも――。
この旅を一言で表すなら、やはり楽しかった。
けれど、タケには、それ以上に強く感じたことがある。
強くなりたい――。
二人の戦いを目の当たりにして知った、自分の無力さ。
これからも三人で旅を続けたい。だからこそ、二人の隣に並べるようになりたい。
そして――。
脳裏に浮かぶ、一人の男の背中。
『いつか、必ず追いついてみせる』
「……」
タケは両手を開き、グッと力強く握りしめた。
そして、顔を上げると、二人に向かって口を開いた。
「世界とか、未来に託すとか……」
「いきなり大きなことを突きつけられて、肝心なことを忘れてたよ」
そう言って、タケはゆっくりと立ち上がった。
一度、大きく背伸びをする。
そして、改めて二人を見つめた。
「これからも三人で旅をしたい」
「強くなりたい」
一つひとつ、自分の気持ちを確かめるように言葉にする。
「その中で、自分が何をするべきなのかを考えて、答えを出すよ」
そう言って、タケは笑った。
「オレからは、以上です」
クレアは目を閉じ、二人の言葉を心に刻み込むように、静かに俯いた。
やがて顔を上げ、ゆっくりと目を開く。
「私は正直、今の気持ちをどう言葉にして伝えたらいいのか、わからない」
「まだ、考えがまとまっていない……と言ったほうがいいのかな」
そこで一度言葉を切り、クレアは少し微笑んで二人を見つめた。
「でもね」
「これからも、三人で旅を続けたい」
「この気持ちだけは、はっきりと伝えられるわ」
そして、少しだけ表情を引き締める。
「アストロと会った後に、もう一度話をさせてね」
二人はその言葉に、わずかに微笑み、黙って頷いた。
パン!
クレアが手を叩いた。
「さて、まずは本棚を調べましょう」
三人は立ち上がり、それぞれ手分けして本棚を調べ始めた。
タケは、とりあえず目についた一冊を無造作に手に取り、開いてみる。
そこには、何かの魔法だろうか。魔法陣の図と、詠唱と思われる文字が記されていた。
どのページをめくっても、似たような内容ばかりだった。
「これは、違うかな……」
そう呟き、本を棚に戻す。
「あっ……」
そのとき、リゼが手にした本を見て、思わず声を漏らした。
慌てて口元を手で押さえる。
二人がリゼに目を向けた瞬間――
バン!
リゼは慌てて本を閉じた。
「こ、これは多分、関係ありません!」
明らかに焦った様子のリゼに、タケが興味を示す。
「え? 気になるじゃんか」
そう言って、リゼの手元を覗き込もうとする。
「い、いや……その……」
リゼの顔が、みるみる赤くなっていく。
「何かの物語みたいで……」
「みたいで?」
タケが、さらに尋ねる。
「その……男の人と女の人が……キスを……」
「……」
その場が、わずかに静まり返った。
「あー……そういうやつね。うん」
聞かなければよかった。
そう思ったタケは、そっと視線を本棚へ戻した。
一瞬、三人の間に気まずい空気が流れる。
それを感じ取ったクレアは、思わずクスッと笑った。
「もう、真面目に探しなさいよね」
そう言いながら、再び本棚へ目を向ける。
――その瞬間。
白い塔の試練で見た光景が、ふと脳裏をよぎった。
タケと、自分。
あの場所で、二人は夫婦になっていた。
『……あの場所の私とタケは、もしかして、既に……』
「っ……!」
クレアは、はっと我に返った。
まるで浮かんだ考えを追い払うように、両手をパタパタと振る。
「集中、集中……」
小さく呟き、改めて本棚に向き直った。
本を開き、中を確かめては棚に戻す。
そんな作業を繰り返していたとき、クレアの目に、あるものが留まった。
それは、本と本の間にひっそりと挟まれた一通の封筒だった。
何気なく手を伸ばし、クレアはそれを手に取る。
「これは……」
小さく呟き、封筒に目を落とす。
そこに記された文字を見た瞬間、クレアの手が止まった。
しばらくの間、じっと封筒を見つめる。
やがて、タケとリゼの様子をそっと窺った。
二人はまだ、本棚の本を調べることに夢中になっている。
クレアは封筒を大切に持ち直すと、誰にも気づかれないよう、そっとポケットにしまった。
そして何事もなかったかのように、再び本棚へと視線を戻す。
「……さて」
タケは別の棚へ移動し、一冊ずつ本を取り出していく。
「これも違うな……」
表紙を確認しては戻し、また別の本を手に取る。
しばらくして、棚の奥に手を伸ばしたときだった。
「ん?」
指先に、何かが触れた。
本を一冊抜き取る。
すると、その奥に、別のものが押し込まれているのが見えた。
「……本じゃないな」
タケは手を伸ばし、それを引き出す。
それは、古びた一冊の日記だった。
表紙は長い年月を経たように色褪せ、ところどころ傷んでいる。
「誰かの日記……?」
タケは表紙を撫でる。
だが、そこに書かれていた文字は、擦れてほとんど読めなかった。
「名前も……わからないか」
ゆっくりとページを開く。
紙も古く、端は黄ばんでいる。
文字もところどころ薄れていた。
それでも、かろうじて読める部分は残っている。
タケは最初のページに目を通す。
「……何だ、これ」
思わず呟く。
「どうしたの?」
少し離れた場所にいたクレアが振り返る。
タケは手にした日記を見せる。
「日記みたいなんだけど、かなり古い。表紙もボロボロで、誰が書いたのかもわからない」
リゼも興味を持ったのか、タケの隣まで歩いてくる。
「日記ですか……?」
「うん。でも、文字が薄くて読みにくいんだよな」
タケはページをめくる。
そこには、古い時代の出来事が綴られていた。
まだすべてを読み取ることはできない。
ただ――
その中に、何度も同じ名前が記されていることだけは分かった。
「……アストロ」
タケが、その名を口にする。
クレアの表情が、わずかに変わった。
リゼも日記を覗き込む。
「アストロって……」
「たぶん、あのアストロだよな」
三人の間に、短い沈黙が落ちる。
タケはもう一度、古びたページへ視線を落とした。
そこには、アストロという名とともに、遠い過去の出来事が記されていた。
タケは、ゆっくりとページをめくった。
そこには、古い文字でこう記されていた。
『精霊の国フェリスエデンを出て、エルドリアの谷でアストロと名乗る精霊に会う』
「アストロは……精霊なのね……」
クレアが呟く。
タケは黙ったまま、続きを目で追った。
『アストロは言った』
『「我は闘神に纏わる精霊の一人、アストロ」』
『「我に力を示せ。己が我を打ち負かさんとするならば、力を与えよう」』
「……力を示せ、か」
タケが小さく呟く。
その先には、短い一文が続いていた。
『死闘の末、アストロは私を認めたのか』
『「我はそなたの力となり、従おう」』
『そう言った』
リゼが、日記を覗き込みながら尋ねる。
「この人……アストロを倒したんですか?」
「たぶん、そういうことだろうな」
タケが答える。
さらにページをめくる。
『今の私に、アストロの力は有り余る』
『代わりに私は言った』
『力はいらない。認めた者に何かをしなければならないのなら』
『どうか、人々の役に立ってはくれないか』
「人々の……役に?」
リゼが小さく呟く。
タケはそのまま、次の文章へ視線を落とす。
『アストロの能力――等価交換』
「等価……交換」
クレアが、考えるように呟いた。
タケもその言葉を反芻する。
「等価交換ってことは……何かを与える代わりに、別の何かを得るってことか?」
「おそらくね」
クレアは日記を見つめる。
だが――
その先のページは、激しく傷んでいた。
紙はところどころ欠け、文字も滲んでいる。
タケは慎重にページをめくっていく。
「……駄目だ。ここから先は読めない」
「何が書いてあったのか……気になりますね」
リゼが残念そうに呟く。
クレアも、傷んだページを見つめる。
「ええ……」
三人はしばらく、黙って日記を見つめていた。
「この日記が事実なら……」
クレアが、古びたページを見つめながら呟く。
「そこから、白い塔に封印されるような何かがあったことには違いないわね」
「そうだね……」
タケはそう答えると、
パタン。
静かに日記を閉じた。
しばらく考え込んだあと、タケはクレアに尋ねる。
「なぁ、クレア」
「ん?」
「アストロは、願いを聞く代わりに、最も大切なものを差し出す――って話だったよな?」
クレアは顎に手を当て、これまでの出来事を頭の中で整理する。
「そう……ね」
少し考えてから、言葉を続ける。
「大袈裟な言い方だとは思うけど……」
「等価交換、とも言えるわね」
「等価……交換」
リゼが小さく呟く。
三人は、再び黙り込んだ。
やがて――
お互いが、お互いの顔を見る。
誰も口を開かない。
ほんの少しの間が流れた。
そして、タケが先に口を開こうとする。
「た……」
「そうね」
「そうですね」
三人の声が重なった。
タケは途中で言葉を遮られ、目を丸くする。
「え?」
クレアとリゼが顔を見合わせる。
そして、お互いにクスッと笑った。
「三人の考えが一致したわけだし?」
クレアが、少しだけ楽しそうに言う。
「それを口にするのは、あなたが一番合ってると思うわよ」
「はいっ」
リゼも小さく頷く。
タケは、少し不服そうに二人を見渡した。
そして、ふぅっと息を整える。
「……闘おう」
二人を見据える。
「正面突破だ」
タケが立ち上がる。
「そうね」
クレアも頷き、日記を受け取る。
「これは……元の場所に戻しておきましょう」
「うん」
タケとリゼが本棚へ向かう。
その二人を見届けてから、クレアはそっとポケットに手を入れた。
指先に触れたのは、先ほど見つけた封筒。
クレアは、誰にも気づかれないよう部屋の隅へ移動する。
そして、封筒を取り出した。
表に書かれた文字は――
『クレアへ』
「……」
クレアは一度だけ、二人の背中を確認する。
それから、ゆっくりと封を開いた。
中には、数枚の手紙が入っていた。
クレアは、静かにその手紙を読み進める。
やがて――
「……ありがとう」
その声には、ほんのわずかに寂しさが混じっていた。
手紙を丁寧に折り畳み、封筒へ戻す。
そして、それを再びポケットへしまった。
「クレアー?」
タケの声が聞こえる。
「今行くわ」
クレアは二人のもとへ歩いていく。
「準備できた?」
「はい」
リゼが頷く。
タケもクレアを見る。
「じゃあ、行こう」
「ええ」
三人は、セレナの部屋を後にした。
その先に待つ、アストロのもとへ――。




