悪魔
――ヒナはウェスクア王国の首都から離れた山々の奧にある秘密の入江へと連れてこられた。この場所を知るのはラムセス本人とウェスクア王国国王、そしてテトの一行だけ。静かで、穏やかで、岩壁に囲まれたこの場所なら野次馬も近づいては来ないだろう。
ラムセスは帯刀していた剣や斧、弓矢、鎧等の武装を外して乱雑に置いた後、砂浜に大きな布を敷き、四つ角を石で押さえた。
「座るといい」
布に腰を下ろしたラムセスがヒナに言った。ヒナは俯いたまま、反応を見せない。
小さく息を吐いたラムセスはヒナの手を引き、自身の隣に座らせた。
ヒナは膝を抱え、無言のまま波打ち際に視線を落としていた。
「君には同情する。自意識も無い頃に家族を失い、仇に育てられてきたのだからな。親の様に慕っていたんだろう? 件のヴァールデーモンを」
ラムセスが言った。例によってヒナは反応を示さない。
「近い内にそのヴァールデーモンは討伐する。魔星卿を相手にするとあれば念入りな準備が必要だ。信じろ。ヤツには必ず、君を弄んだ報いを受けさせる」
語気を強めて言うも、ヒナは口を開くどころか顔をわずかにも上げることはなかった。
静寂が流れる。小波が砂を撫でる音だけが場に響く。
「……俺にはわかる。お前の悲しみと苦しみが。大切な人を失う痛みは、人生で経験し得る中で最も苦しく深い痛みだ。俺も過去に仲間を失った……親友を。そして家族を。俺とお間は同じなんだ」
「同じじゃない」
共感を示す言葉に、ヒナがようやく言葉を返した。
「いや、同じだ」
言い切るラムセス。
ヒナはわずかに顔を上げ、彼の目を見やった。
「どこが?」
ラムセスが立ち上がった。波打ち際へと歩を進め、入江の水を掬い上げて自身の髪を撫でた。
真っ白なオールバックから色が落ち、その下から紅い色が顔をのぞかせた。
「俺も、ゼノリスの民だ。十代で弟のラハン、幼馴染のソフィー、親友のローニと共に魔物退治の旅に出て以来、村には戻っていないがな」
ヒナは目を丸くした。自分一人だけだと思っていた。同じ一族の血が流れる者がまだいたとは。
ラムセスが両手で水を掬い、顔を洗う。口元の白い髭も紅い本性を見せた。
「四人ともゼノリスの村の出身だが、中でもローニの父は有名な“勇者”だった。俺達も彼のようになろうと村を飛び出し、旅を経て魔星卿を打ち倒した。この世界に、俺達を讃える詩を残したかったんだ。だが、人の記憶は薄れゆくもの……ローニの父の名を知る人間も、九十年年近くたった今では少ない。永世に語り継がれる詩を残す為、俺達は二体目の魔星卿を倒すという伝説に挑んだ。その戦いの中で、親友を……ローニを失った」
ラムセスはわずかに目を伏せた。
「俺は悲しみを晴らす為に魔物を狩り続けた。強くなるために。いつか全ての魔星卿を倒せるように……三十代の半ばに差し掛かったころ、ラハンとソフィーは抜けた。平穏を望んだ二人は故郷に戻ると言い出して、俺は一人で残った」
ゆっくりと、ゆっくりとヒナに歩み寄るラムセス。
「日々の鍛錬を怠らず、傭兵として魔物を狩り、魔星卿との戦いに備えていたが、人間である以上、時の流れには逆らえない。“勇者”の多くは肉体の全盛期を越えると引退するのがほとんどだ。どれだけ維持しようとしても、力も速さも落ちてきているのが現実だ。俺一人では魔族と戦い続けるにも限界がある。だから、考え方を変えた。俺の名と血を継ぐ者が戦い続ければ……俺の子孫が、魔星卿を打ち倒し、“魔族の王”へと至る道を開けば……俺の詩は永遠になれると」
ラムセスが衣服の胸元をはだけながら言葉を続ける。
「……なんで服を脱いでるの?」
「知っているかもしれないがゼノリスの民は特別だ。普通の“勇者”よりも早く効率的に力を身につけ、戦いを積めば特殊な能力も獲得できる。俺の場合、他者の動きの完全記憶と完全再現がそれだ。そんな特別な力も、ゼノリスの民が絶滅すれば失われる……残ったのは俺と君だけだ。ヒナ・ヴァンホーテン。母の――ソフィーの姓を継いだんだな。よく似ている。目も、鼻筋も、口元も」
ラムセスはヒナの頬を指で触れた。
ヒナは咄嗟に振り払った。
「君が生きていてくれてよかった。魔物に攫われたのが女の子でよかった。俺達なら一族を繋いでいける。俺達は伝説になるんだ。絶滅に瀕したゼノリスを一からやり直して、永遠の詩を残す。そしていつか、世界中をこの銀の瞳と紅い髪に染め上げるんだ。しつこいが君が生きていてくれて本当によかったよ」
ヒナは動けなかった。声を上げることもできなかった。
ラムセスが何をしようとしているのか彼女にはわからなかったが、生理的に――本能的に恐怖と嫌悪を感じていた。
ラムセスの影がヒナの顔に――全身に落ちる。
恐怖が心臓を鷲掴みにし、今にも潰れてしまいそうだった。
逃げることも、抵抗することもできないほど、恐かった。
“勇者”の大きな手が、少女の肌に触れようとしたその時――
――リムの飛び蹴りがラムセスの顔面にめり込み、彼をヒナから引き剥がした。
「このクズが! 最低の……ゲス野郎っ!」
リムがラムセスに馬乗りになり、左右の拳を何発も見舞う。
「ゲロ以下の! 変態のっ! ド畜生めっ!」
めいっぱい力を込めた鋼の拳がラムセスの頭部を右へ左へと揺さぶる。
ラムセスの大きな手がリムの手首を掴んだ。力ずくで互いの位置関係を反転させ、ラムセスが上となってマウントを取り返す。
「貴様、なんのつもり――」
ラムセスの横っ面に火球が直撃した。
リムから引き離され、砂浜に転がるラムセス。立ち上がったところへ剣を低く構えたテトが突撃した。渾身の突きを身体ごとぶつけるも、ラムセスは素手で剣の切っ先を両手で挟んで止めた。
テトは全力で剣を押し込もうとするも、ピクリとも動かない。ラムセスの腕力はテトの比ではなかった。
「英雄を闇討ちして手柄を奪いにきたか」
ラムセスの言にテトはわざとらしく鼻を鳴らした。
「英雄? よくそんなことが言えるな。タロナとバスが国立図書館で調べたんだ。お前があの子と同じゼノリスの民で、極度の純血主義者だってな。ここまでの道中、俺は仲間達に『俺の憧れの人がそんなことするハズない』って言い続けてたが……自分が恥ずかしいぜ!」
偉業や逸話を残している分、ラムセスの人となりはいくつかの伝記に記されていた。ここ十三年の間ずっと髪を白く染めていたこともあって、文献を読まない人々は彼の出自を忘れかけているが、書物は変わらず過去と今を繋げている。
「それで、勝てる見込みもないのにこんな愚行を? 勇気と無謀は違うぞ」
「“勇者”でなくたって、マトモな人間なら止めるに決まってんだろ! 子供に手を出すブタ野郎が!」
「人を畜生呼ばわりとは、ご立派な“勇者”だ」
「道理を説ける人間かよ! てめぇが!」
ラムセスは剣を挟んだ手を翻し、剣を持つテトを力づくで捻り投げた。続けざまにブーツに備え付けていたナイフを抜き、リムに投げつけた。鋭い刃が彼女の右肩に深く突き刺さる。
ラムセスが振り向くと、離れた位置でタロナが呪文を詠唱していた。ラムセスめがけ天から雷が一直線に落ちる。タロナの雷魔法は見事に命中したものの、ラムセスは膝を着くことさえなかった。
その隙にバズは治癒魔法でリムの傷を癒していた。彼の詠唱は極めて早く、精度も高かった。
「なるほど、魔法使いは有能らしいな」
タロナが呪文を唱え、再び雷を落とした。ラムセスは飛び退いて躱し、二撃、三撃と続けての落雷も砂浜の一部を硝子に変えるにとどまった。
ラムセスは砂浜に放置されていた武装一式に手を伸ばした。拾い上げたのは弓と矢だった。
振り向きざまに弦を引き、一瞬で狙いを定め、矢を放つ。空気を裂いて一直線に飛んだ矢は、バズの額のど真ん中に直撃した。
「っ……! …………――」
バズは天を仰ぐように倒れた。
「一人」
「バ――」
思わず仲間の名を呼びそうになったタロナだったが、同時に自覚した。敵から目を離してしまったことを。
正面へ向き直った瞬間、彼女の喉に矢が突き立てられた。噴水のように血が噴き出し、空気が抜ける。両膝を着いたタロナは言葉を――呪文を紡ぐことができなくなっていた。
「かっ! ……っ……! っ……」
「二人」
呟くラムセスに、左右から挟撃するテトとリム。
その両方を、同時に短剣と肘で受け止めるラムセス。テトを突き飛ばし、短剣でリムの腹部を斬り裂く。苦痛の声を上げる彼女の顔に刃を立て、傷だらけにしてから柄尻で殴打した。
「三人」
「てめえええええぇぇぇぇぇぇぇ!」
テトが剣を振りかぶり、ラムセスに斬りかかる。
「大振りすぎだ」
テトの胸に短剣の刃が深く、深く刺さった。
「――……っ…………ぐ……」
テトは必死に堪えるも、口の端から血が漏れ出る。
「あの子が魔物に攫われ、十三年の時を経て俺と出会ったのは運命なんだ。引き合わせてくれたことには感謝しているが、これ以上は余計なお世話だ。お前らが何をどう思おうが、あの子は俺のものだ」
「ッブ…………ハハハ……マジか。そんな台詞、よく口にできるな。呑んでんのか?」
胸に剣を突きたてられたまま、テトは笑った。
「いいや、素面だとも。あの子と俺の繋がりを説明してみせようか」
「……ぜひ聞きたいね。納得できる理由があるんならな」
「十三年前、故郷に戻った弟夫婦から手紙が届いた。そこには『娘が生まれたから見に来てくれ』、『兄さんもそろそろ落ち着いたら?』と綴られていた。あの日ほど怒りを感じたことはない。俺が戦うのを辞めたら、ローニの魂はどうなる? アイツの無念は誰が晴らす? 日和って逃げ帰っておきながら、ノンキに子供なんかこさえやがって。俺を一人にしておきながら!」
ラムセスは短剣を押し込みながら言った。テトの表情が苦痛に歪む。
「どうすればこの怒りが晴れるか、俺は考えた。ラハンとソフィーをこれ以上なく苦しめるには、二人の最も大切なものを奪うしかない。だから俺は、あいつらの娘を殺す為に村へと向かった」
テトの表情が、これまでにないほど歪んだ。あまりにも歪み切ったラムセスの言動に。
「だが、村は灰になっていた。後々になって知ったが、やったのは魔星卿のヴァールデーモンだった。ほんの少し出遅れたことで、俺は目的を果たせなかったどころか……故郷を失った。当時はゼノリスの血が途絶えたと絶望したものだが……生き残りがいたと知った時は、神の存在を信じたよ。それも、生き残ったのはあの日俺が殺そうとした赤子だったんだぞ。これを運命と呼ばずしてなんと呼ぶ!? まるでなにもかもが、この俺の為に――」
「うわあああああああああああああああああああああ!」
ヒナはラムセスの背中に槍を突き立てた。ジゼルの槍を。
「ぐっ……! よせ! やめろ、ヒナ・ヴァンホーテン!」
ラムセスの言葉など耳もくれず、ヒナは何度も槍を突き立てる。
「この……いい加減にしろ!」
槍の柄を掴み、ラムセスは力づくでヒナを砂浜に組み伏した。
「ぐっ……! ウウッ……!」
ラムセスの右手がヒナの細い首を押さえつける。
「お前の命は、運命は、俺が握っている。あの日死ぬハズだったお前が生きているのは、俺が殺さなかったからだ! 生きていられるのは俺のおかげなんだ! 生かしてもらえていることに感謝して、全てを捧げろ! それがお前の生きる理由だ!」
――瞬間、ラムセスは背骨が凍り付いた。
実際に凍ったわけではないが、そう感じた。
言いようのない殺気に振り向く。
そこには悪魔が立っていた。




