第二章 借り物の氷
俺の屋敷は、王都の西の外れにある。
三年前の戦のあと、陛下がくれた。昔どこかの伯爵が建てて、そのまま放ってあった古い屋敷だ。部屋は二十いくつあって、俺が使っているのは台所と寝室と書斎の三つだけ。庭は草が伸び放題で、門の鉄はさびている。
使用人はいない。一人で住むのに、人を雇う意味がない。
そう思っていた。
「――信じられない」
翌日の昼前、門の前に馬車が三台止まった。
降りてきたリディア殿下は、草だらけの庭と、さびた門と、玄関で鍋を持って立っている俺を順番に見て、そう言った。
「使用人は?」
「いません」
「料理番は?」
「俺です」
「……掃除は?」
「気が向いたら」
殿下の後ろで、荷物を運んできた王宮の下働きたちが、気まずそうに目をそらした。
殿下は、深く息を吸って、吐いた。
「いいわ。部屋は自分で選ぶ。いちばん日当たりのいい部屋はどこ」
「二階の東の端ですね。でも、天井に穴が」
「直させる。――あなたたち、職人を呼んで。今日中に」
下働きが一人、走っていった。
殿下は、つかつかと玄関に入ってきて、俺の鍋をのぞきこんだ。
「これは何」
「昼飯。鶏と根菜の煮込み」
「……ふうん」
殿下は、何か言いたそうな顔をして、何も言わなかった。
昼に一杯よそったら、殿下は黙って食べて、黙っておかわりを出した。
「……悪くないわ」
「どうも」
「勘違いしないで。悪くない、と言っただけよ」
「はい」
昨日、廊下で縫いとめた袖は、もう別の上着になっていた。
殿下は、あの話を一度もしなかった。俺も、しなかった。
*
二人目の候補は、その日の夕方に来た。
黒い馬車だった。扉に、帝国の双頭の狼の紋がある。
馬車の前に、痩せた年配の男が立っていた。帝国の使者だ。白い手袋をはめた手で、書状を差し出した。
「ガルム帝国皇帝陛下の名代として、和平の証たる皇女殿下をお届けにあがりました」
馬車から、女の子が一人、降りてきた。
銀に近い、白っぽい髪。肩のところで切りそろえてある。肌も白い。灰色の目が、まっすぐ俺を見ていた。
黒い旅装の、左手の中指に、透き通った石の指輪が一つ。
「ガルム帝国第三皇女、イルゼ」
声は、小さくて平らだった。
「和平の証として、参りました。……よろしく」
それだけ言って、彼女は口を閉じた。
使者は、俺に書状を渡すと、深く一礼した。
「皇女殿下を、どうかよしなに。――私は王都の帝国館に滞在しております。儀の日には、立ち会いに参ります」
そう言って、使者は馬車で帰っていった。
皇女の荷物は、鞄が二つだけだった。
玄関で、リディア殿下が腕を組んで待っていた。
王国の王女と、帝国の皇女。二人の目が合った。
「アストラ王国王女、リディアよ。わたしも候補の一人」
「……知ってる」
「そう。なら話が早いわ。わたし、負ける気はないから」
「…………」
イルゼは、リディア殿下をしばらく見て、それから俺のほうを見た。
「おなか、すいた」
「……は?」と殿下が言った。
「すぐ作るよ」と俺が言った。
その夜、イルゼは、煮込みを五杯食べた。
黙って、きれいに、五杯。パンを八つ。デザートの林檎の焼き菓子を、殿下のぶんまで。
「ちょっと、それ、わたしの――」
「おいしい」
「…………」
殿下は、文句を言いかけた口を閉じた。イルゼは、本当においしそうに食べていた。
俺は、彼女の左手の指輪を見ていた。
透き通った石の中に、白い霧が渦を巻いている。魔具だ。誰かの魔法を、閉じこめた道具。
帝国の皇女が、なんで魔具なんか。
*
夜中に、目が覚めた。
寝室の空気が、冷たかった。
窓は閉めてある。暖炉の火も残っている。なのに、息が白い。
寝台の足もとに、イルゼが立っていた。
寝間着の上に、黒い外套を羽織っていた。左手を、まっすぐ俺に向けている。指輪が、青白く光っていた。
その周りに、氷の槍が五本、浮かんでいた。
「……起きた」
イルゼが、小さく言った。
「起きた」
俺は、寝台の上で体を起こした。
「どうぞ」
「…………」
「先にどうぞ。撃つんだろ」
イルゼの眉が、ほんの少しだけ寄った。それから、氷の槍が飛んできた。
一本目は、俺の顔の横の枕に刺さった。羽毛が舞った。
二本目からは、借りた。
俺の前に、氷の槍が五本並んだ。イルゼの四本と、空中でぶつかって、砕けた。寝室じゅうに、細かい氷の粒がきらきら散った。
――冷たい。いい氷だ。鋭くて、きれいで、無駄がない。
でも、何か変だった。
魔法を借りると、持ち主の心の形が見える。昨日の殿下の剣みたいに。
この氷からは、イルゼの心が見えなかった。見えたのは、知らない男の、几帳面な指の動きだけ。何十回も同じ線を引き直して、きっちり仕上げた職人の手。
氷の粒が、床に落ちて溶けていく。
イルゼは、左手を下ろさなかった。指輪の光が、少し弱くなっていた。
「……これ」
俺は、言った。
「お前の魔法じゃないな」
イルゼの肩が、びくっと動いた。
「指輪の中の魔法だ。作ったのは帝国の宮廷の魔導士かな。すごく丁寧な仕事だ。でも、お前じゃない」
イルゼは、何も言わなかった。
灰色の目が、暗い寝室の中で、俺をにらんでいた。初めて、感情が見えた気がした。怒りだった。
「俺と同じだな」
「……なにが」
「借り物で戦ってる」
イルゼが、一歩前に出た。
指輪がまた光りかけた。そして――消えた。彼女は、左手を下ろした。
「……今日は、やめる」
「今日は」
「うん」
イルゼは、俺に背中を向けた。扉のところで、一度だけ振り返った。
「怒らないの」
「何に」
「私、あなたを殺そうとした」
俺は、枕に刺さったまま溶けかけている氷の槍を見た。
怒るべきなんだろう。普通は。でも、この子は五本撃って、一本も俺の体を狙っていなかった。最初の一本は、枕だった。
「朝飯、何がいい?」
「…………」
イルゼは、長いこと黙っていた。
それから、小さな声で言った。
「……たくさん」
扉が閉まった。
俺は、溶けた氷で濡れた枕をひっくり返して、もう一度寝た。
*
翌朝。
台所で卵を焼いていたら、玄関の扉が、壊れそうな勢いで開いた。
「たのもーーーっ!!」
声が、屋敷じゅうに響いた。
二階で、殿下が何か叫ぶのが聞こえた。食堂で、パンを三つ目にかじっていたイルゼが、顔を上げた。
玄関に、小さな女の子が仁王立ちしていた。
栗色の髪をぼさぼさに束ねて、丸い眼鏡。魔導院の紺色の外套は、袖が長すぎて指先しか出ていない。背丈は、イルゼより頭一つ低い。
女の子は、俺を指さした。
「あなたが鴉ね! 魔導院首席研究員、ミラ・ベルン! 魔導院の候補として来てあげたわ!」
「……どうも」
「それから!」
ミラは、指をさしたまま、胸を張った。
「鴉、あなたに決闘を申し込むわ!」
階段の上で、寝間着に上着を引っかけただけの殿下が、額を押さえていた。
「……朝から何なの、この屋敷は」
*
庭の真ん中で、ミラは眼鏡を押し上げた。
見物は二人。殿下は、腕を組んで縁側の柱にもたれている。イルゼは、その隣で、まだパンを食べていた。
「決闘の前に、言っておくわ」
ミラは、得意げに言った。
「あなたは、一度見た魔法を、持ち主より上手く使える。そうでしょ」
「まあ、だいたい」
「でも、わたしの魔法は写せない」
ミラの両手の間に、小さな光の粒が生まれた。
星だった。指先ほどの、白い星。それが、ぱちぱちと音を立てて、ミラの周りに増えていく。
「星砕き。わたしの魔法よ。星を作って、爆ぜさせる。でも、それだけじゃない」
ミラは、にやっと笑った。
「わたしは、撃つたびに、星の組み方を変えてる。毎回、違う式。同じ形は二度と出ない。あなたが一回見て覚えても、次の一発はもう別物。――だから、写せない!」
なるほど、と思った。
それは、面白い。
「どうぞ」
「え?」
「先にどうぞ。全力で」
ミラは、一瞬きょとんとして、それから顔を真っ赤にした。
「その余裕、今すぐ吹き飛ばしてあげる!」
星が、飛んできた。
十、二十。白い星が尾を引いて飛んできて、俺の目の前で、次々に爆ぜた。
ぱん、ぱん、ぱぱぱん。庭の草が吹き飛び、土が跳ね上がる。
俺は、横に跳んで避けながら、星を見た。
一つ目の星の式を、借りる。――撃つ。
俺の指先から出た星は、ミラの星にぶつかる前に、ぼふっ、と俺の顔の前で爆ぜた。
「…………」
顔が、熱い。たぶん、すすで真っ黒だ。
殿下が、縁側で吹き出した。イルゼは、パンを持ったまま固まっていた。
ミラが、腹を抱えて笑った。
「あっははは! だから言ったでしょ! あなたが写したのは、さっきの式! もうわたしは、次の式を撃ってるの!」
本当だった。
ミラの星は、一発ごとに中の組み方が違う。星の芯の周りに、細い光の線が何本も巻きついていて、その巻き方が毎回変わる。俺が一つ覚えたときには、ミラはもう次を撃っている。
すごい。本当に、すごい。この子は、天才だ。
星が、また飛んでくる。今度は三十。
俺は、袖で顔をぬぐって、――式を読むのをやめた。
星じゃなくて、ミラを見た。
ミラは笑っていた。でも、目が笑っていなかった。
次の星を撃つたびに、ほんの少しだけ、肩に力が入る。見られるのが、怖いのだ。写されるのが、怖い。だから、撃つたびに形を変える。誰にも、自分の芯をつかませないように。
そして、星の式がどれだけ変わっても、一つだけ変わらないものがあった。
どの星も、芯が一つだった。
周りの線がどんなに複雑に巻きついても、真ん中にある白い芯は、いつも一つきり。ぽつんと、一人で光っている。
――ああ。そういう魔法か。
「借りるよ、ミラ」
俺の周りに、星が生まれた。
式は、写していない。ミラが撃った星のどれとも違う。でも、芯は同じ。一人で光る、白い芯。
ただし、俺はその芯を、一つにしなかった。
芯の周りに、もう一つ、小さな芯を置いた。その隣に、もう一つ。線でつないで、また一つ。
星が、星を呼んで、並んでいく。
ミラの三十の星が、俺の星座にぶつかった。
爆ぜなかった。
ミラの星は、俺の星座の線に吸い寄せられて、その一部になって、並んだ。
庭の上の空に、星座が一つ、浮かんでいた。
昼間なのに、はっきり見えるくらい、白く。
「…………うそ」
ミラの手が、止まっていた。
「なんで……式、写してないのに……」
「式は、読めなかった。だから、お前を読んだ」
「わたし、を……?」
「お前の星、いつも芯が一つで、一人で光ってるんだよ。だから、周りに並べてみた」
ミラの顔が、くしゃっと歪んだ。
「いい魔法だな。天才だよ、お前」
俺は、本気で言った。
「式を毎回変えるなんて、俺は考えたこともなかった。一人で、ずっと、考えてきたんだろ」
ぱちん、と、空の星座が消えた。
ミラは、眼鏡の奥で、目にいっぱい涙をためていた。
「…………うっ」
「え」
「うわああああん!!」
ミラは、泣きながら門の外へ走っていった。
庭に、すすだらけの俺と、吹き飛んだ草と、静けさが残った。
縁側で、殿下が言った。
「……あなた、女の子を泣かせるのが得意なの?」
「いや、褒めたつもりで」
「だから泣いたのよ」
殿下は、ため息をついた。それから、少し間を置いて、目をそらしたまま言った。
「顔、拭きなさい。真っ黒よ」
イルゼが、黙って、食べかけのパンの横にあった手ぬぐいを差し出した。
*
ミラは、夕方に戻ってきた。
鞄を六つ抱えて。泣きはらした目で。
「……決めたわ」
玄関で、ミラは鼻をすすりながら言った。
「わたし、ここに住む」
「候補だから、もともと住むんじゃ」
「そういうことじゃない!」
ミラは、俺を指さした。昼間と同じように。でも、指先が少し震えていた。
「あなたを、解き明かす。あなたの魔法が何なのか、全部、調べ尽くす。それまで、ぜったい帰らない。……覚えてなさい、この、泥棒!」
「借りてるだけだって」
「泥棒は泥棒よ!」
殿下が、二階の窓から顔を出して叫んだ。
「部屋は自分で選びなさい! 東の端は、わたしの!」
食堂で、イルゼが四杯目のスープを飲んでいた。
*
◆イルゼ
イルゼは、その夜、寝台の上で手紙を開いた。
帝国を出る前の晩、宮殿の奥で渡された手紙だった。封蝋に、双頭の狼。皇帝の印。
何度も読んだ。もう、文面は覚えている。
――皇帝の名において、第三皇女イルゼに命ず。婚約披露の儀にて、鴉を殺せ。そのための刃は、儀の前に届ける。この命は、使者にも明かすな。
使者にも、明かすな。
だから、イルゼは誰にも言っていない。帝国館のあの痩せた使者も、イルゼがなぜここへ来たのか、本当の理由は知らない。
イルゼは、左手の指輪を見た。
透き通った石の中で、白い霧が静かに回っている。
三年前、イルゼは十六歳だった。
帝国の魔導兵団の、いちばん若い魔導士だった。氷の魔法が、子どもの頃から得意だった。
あの夜、三千人の魔導士が、一つの大きな魔法で繋がった。大連環。王国の城塞都市を、一夜で焼き払うための魔法。イルゼも、その輪の一つだった。
そして――あの男が、輪に触れた。
次の瞬間、三千人全員の魔法が、消えた。
イルゼの氷も、消えた。手のひらに、どれだけ力を込めても、霜一つ出なかった。
帝国に帰った三千人は、「抜け殻」と呼ばれた。魔導士の家から追い出された者もいた。自分で命を絶った者もいた。
イルゼは皇女だったから、追い出されなかった。代わりに、宮廷の魔導士が、この指輪を作ってくれた。借り物の氷。
――お前の魔法じゃないな。
あの男は、一目で見抜いた。
当たり前だ。イルゼの魔法を消したのは、あの男なのだから。
帝国には、噂がある。鴉が死ねば、奪われた魔法は、持ち主に還る――。
確かめた者はいない。でも、イルゼは信じたかった。三千人のために。自分のために。
だから、殺す。儀の日に、届く刃で。
今夜は、ただ、確かめたかっただけだ。自分に、撃てるかどうか。
撃てた。五本。
でも、一本目は、枕に撃った。自分でも、なぜそうしたのか分からない。
そして、あの男は、怒らなかった。
朝になると、本当に、卵を十個焼いてくれた。
イルゼは、指輪をつけたまま、左手を握った。
あと、二十七日。
「……殺す」
小さく言った声は、思ったより、頼りなかった。




