第三章 読めない女
四人目の候補は、馬で来た。
昼過ぎだった。門の外で蹄の音がして、出ていくと、栗毛の大きな馬から、背の高い女の人が飛び降りたところだった。
赤い髪を、首の後ろで無造作に一つに束ねている。鎧は着ていない。代わりに、背中に、俺の背丈くらいある大剣を背負っていた。
年は、二十四、五。日に焼けた顔で、にかっと笑った。
「あんたが鴉か。思ったより細いね」
「クロウです」
「知ってるよ。大公家騎士団長、ベアトリス・ヴァイス。オスカー大公閣下の命令で来た」
ベアトリスと名乗った人は、馬の首を軽く叩いて、手綱を後ろの騎士に投げた。ついてきた騎士二人は、彼女に一礼して、馬を連れて帰っていった。
「命令は二つ」
ベアトリスは、指を二本立てた。
「一つ、鴉を見張れ。二つ、ついでに嫁になれ。――ってわけで、よろしく、坊や」
坊や。
俺のことらしい。
「……正直ですね」
「隠すの苦手でね。見張られるって分かってたほうが、あんたも楽だろ?」
玄関で、殿下が額を押さえていた。
「叔父上の騎士団長が、候補……。叔父上、本気で反対してたくせに」
「閣下は、反対だから送ったんですよ、殿下。化け物の首輪の、紐を握っておきたいってね」
ベアトリスは、殿下に向かって、軽く頭を下げた。殿下には、ちゃんと敬語を使う人らしい。俺には使わない。
俺は、ベアトリスを見ていた。
いつもの癖で、相手の魔法を探していた。人は、魔法を持っていれば、体の周りにかすかな形がある。殿下なら、まっすぐな剣の形。イルゼなら、指輪の霧。ミラなら、ぱちぱち弾ける星。
ベアトリスの周りには、何もなかった。
空っぽだった。形も、色も、温度も。目の前に人が立っているのに、魔法の目で見ると、そこに誰もいないみたいだった。
「……あんた、魔法」
「ないよ」
ベアトリスは、あっさり言った。
「生まれつき、これっぽっちも。無魔ってやつ。珍しいだろ」
珍しい、どころじゃない。
俺は、生まれてからずっと、人の魔法を見てきた。魔法の無い人なら、街にいくらでもいる。でも、その人たちだって、近くで見れば、何かがある。喜んでるとか、怒ってるとか、心の形の、薄い影みたいなものが。
この人には、それもなかった。
読めない。
生まれて初めて、目の前の人間が、何を考えているのか、まったく分からなかった。
「どうした、坊や。変な顔して」
「……いや」
俺は、正直に言った。
「あんたのこと、何も分からない。初めてだ、こんなの」
ベアトリスは、一瞬だけ目を丸くして、それから大声で笑った。
「あっはっは! そりゃいい。あたしも、あんたのこと何も分からないよ。おあいこだ」
*
「さて、坊や」
荷物を部屋に放り込んだベアトリスは、庭に出てくるなり、大剣を地面に突き立てた。
「一つ、手合わせ願おうか」
「……今から?」
「見張る相手の腕は、知っときたいだろ。剣で」
「俺、剣は素人ですけど」
「知ってる。だから剣で、だよ」
縁側には、もう見物が揃っていた。殿下と、イルゼと、帳面を抱えたミラ。昨日、泣いて走っていったミラは、今朝から俺の後ろをずっとついて回っている。何でも書き留める。俺がくしゃみをした回数まで。
ベアトリスは、物置から練習用の木剣を二本持ってきて、一本を俺に放った。
「来な」
行った。
三秒で、転がされた。
「…………」
空が青い。背中が痛い。
「もう一回」
行った。今度は二秒だった。
縁側で、ミラが「二秒……」と帳面に書いていた。殿下が、口を手で覆って肩を震わせていた。笑っている。
「坊や、あんた、魔法がないとただの坊やだね」
ベアトリスが、木剣を肩に担いで、楽しそうに見下ろしていた。
「それが分かりゃ十分。――じゃ、次は本番だ」
ベアトリスは、木剣を放って、背中の大剣を抜いた。
重い音がした。鉄の塊みたいな、分厚い刃。
「魔法あり。あんたは何でも使っていい。あたしはこれ一本」
「でも、あんたは魔法がないから、借りるものが――」
言いかけて、気づいた。
ここには、魔法を持っている人間が、三人いる。
俺は、縁側を振り返った。
「殿下。剣、一本だけ出してくれます?」
「……は?」
「昨日借りたのは、今朝の日の出で消えたので。もう一回見せてもらわないと」
殿下の顔が、みるみる赤くなった。
「な……っ、どうしてわたしが、あなたのために――」
「お願いします」
「いやよ!」
殿下は叫んで、それから、ぶん、と右手を振った。
光の剣が一本、俺の顔めがけて飛んできた。
俺は、それを指二本で挟んで止めた。
「ありがとうございます」
「当てるつもりで投げたのよ!」
「分かってます。だから、まっすぐで助かりました」
光の剣が、俺の指の間で、ふっと消えた。
代わりに、俺の背後に、三十本の光の剣が並んだ。
ベアトリスが、口笛を吹いた。
「いいねえ。王女殿下の剣か」
「先にどうぞ」
「言われなくても!」
ベアトリスが、地面を蹴った。
速い。
あの大剣を担いでいるのに、走り出しの一歩で、もう俺の三歩先にいた。俺は光の剣を十本、正面に並べて壁にした。
ベアトリスは、止まらなかった。
大剣を、横に一閃。十本の光の剣が、まとめて砕けた。
「――は」
魔法の剣を、鉄で叩き割った。
あり得ない、とは思わなかった。ただ、すごい、と思った。この人は、剣の当て方を知っている。どこに、どの角度で、どれだけの力で叩けば、物が壊れるか。全部、体で覚えている。
読めないのに、分かる。
この人は、ものすごく強い。
ベアトリスの二撃目が来た。俺は後ろに跳んで、残りの二十本を、ベアトリスの周りに散らした。正面じゃない。上、横、後ろ、足もと。
ベアトリスは、上からの五本を大剣で払い、横からの五本を体をひねってかわし、後ろからの五本を――見もせずに、背中で大剣の腹に受けた。
「勘?」
「勘!」
笑いながら答えた。
足もとの五本だけが、ベアトリスの靴の縁をかすめて、土に刺さった。一瞬、ベアトリスの足が止まった。
俺は、殿下の剣を、もう一度三十本、呼び出した。
今度は、壁にも、矢にもしなかった。
檻にした。
ベアトリスの周りを、三十本の光の剣が、ぐるりと囲んだ。切っ先を全部、内側に向けて。どの隙間からも、大剣は振れない。
――と、思った瞬間。
俺の喉もとに、冷たいものが当たった。
大剣の、切っ先だった。
ベアトリスは、檻の中から、剣を突き出していた。光の剣と光の剣の、指一本ぶんの隙間を通して。
光の剣の檻の中に、ベアトリス。
ベアトリスの剣の先に、俺の喉。
しばらく、どっちも動かなかった。
「……引き分け?」
俺が言うと、ベアトリスは、大剣を下ろして、腹を抱えて笑った。
「あっはははは! 楽しい! ああ、楽しいね、坊や!」
光の剣を消すと、ベアトリスは俺の背中を、ばしん、と叩いた。肺から息が全部出た。
「あたしね、戦う前に、だいたい終わり方が見えるんだよ。相手の目と肩を見りゃ分かる。でも、あんたは見えなかった。最後まで、どうなるか分からなかった」
「俺も、あんたが全然分からなかった」
「おあいこだ」
ベアトリスは、にかっと笑った。
縁側で、殿下が、こっちをにらんでいた。
怒っている。たぶん、勝手に剣を使ったから。……でも、なんでか、さっきより顔が赤い。
「殿下」
「……なに」
「いい剣でした。今日のは、ちゃんと俺のほうを向いてた」
殿下は、口を開けて、閉じて、それから、くるりと背を向けて屋敷の中に入っていった。
扉が、ばたん、と閉まった。
ミラが、帳面に何か書いていた。
「……今のは、何の記録?」
「王女殿下の、顔の色の変化」
「やめてやれよ」
イルゼは、縁側で、黙って林檎をかじっていた。
でも、その灰色の目は、さっきからずっと、ベアトリスを見ていた。
*
その夜。
屋敷の庭で、何かが鳴いた。
狼の遠吠えに似ていた。でも、もっと低くて、地面の下から響いてくるような声だった。
寝室を出ると、廊下にもう全員いた。殿下は細い剣を抜き、ミラは眼鏡をかけ直し、イルゼは指輪を光らせ、ベアトリスは大剣を担いで、寝間着のまま。
「庭だね」
ベアトリスが言った。
庭の真ん中に、獣がいた。
牛ほどの大きさの、黒い狼。毛皮が、夜の闇よりも黒い。輪郭がゆらゆらと揺れて、煙みたいだった。そして、腹のところだけが、ぼんやりと青白く光っている。
首に、太い金属の輪が巻かれていた。
獣が、こっちを見た。
目は、無かった。
「何、あれ……」
ミラの声が震えた。
殿下が、前に出た。
「下がりなさい。――はっ!」
光の剣が十本、獣に向かって飛んだ。
獣が、口を開けた。
光の剣が、吸い込まれた。
十本とも、獣の口の中に、まるで水が排水口に流れ込むみたいに、すうっと消えた。
獣の腹の光が、少し強くなった。
「食べた……!?」
「魔法を、食う獣だ」
俺は、言った。見れば分かった。あの獣には、心の形がない。代わりに、底の抜けた器みたいな、何でも呑み込む穴がある。
魔法を食って、腹にためる獣。
「じゃあ、これは!」
ミラが、星を三十、撃った。獣は口を開けて、全部食った。腹の光が、また強くなった。
イルゼの氷の槍。食った。
「待て、撃つな! 食わせると大きくなる!」
遅かった。獣の体は、さっきより一回り大きくなっていた。
獣が、俺に向かって跳んだ。
俺の中には、今、借りている魔法がいくつかある。殿下の剣。ミラの星。イルゼの氷。
撃てば、食われる。
――じゃあ、魔法じゃないもので。
「ベアトリス!」
「あいよ!」
ベアトリスが、獣の横から大剣を叩きこんだ。
獣は、ベアトリスを見もしなかった。魔法を持たない人間は、こいつにとって、ただの石ころなのだ。大剣が、獣の前足を斬り飛ばした。
でも、斬れた足の付け根から、黒い煙が湧いて、すぐに新しい足になった。腹の光が、少し暗くなった。
「再生しやがる!」
「食った魔法で治してるんだ!」
獣は、ベアトリスを無視して、俺のほうへ来る。俺の中の魔法が、いちばんうまそうに見えるらしい。
俺は、庭を走りながら、考えた。
魔法を食う。食った魔法で大きくなって、傷を治す。
腹に、ためる。
――ためる、なら。
「全員、聞いてくれ!」
俺は叫んだ。
「全力で撃て! あいつに、食わせろ!」
「は!? 今、食わせるなって――」
「いいから! 食いきれないくらい食わせるんだ! ミラ、星を全部! 殿下、剣を出せるだけ! イルゼ、指輪の氷を空にしていい!」
一瞬、全員が俺を見た。
最初に動いたのは、ミラだった。
「――あとで説明してもらうからね、泥棒っ!」
百を超える星が、ミラの周りに生まれた。
殿下が、唇を噛んで、両手を振った。光の剣が五十本。イルゼが、指輪を高く掲げた。氷の槍が、庭の空を埋めつくした。
俺も撃った。三人ぶんの魔法を、借りられるだけ、全部。
獣が、口を開けた。
食った。食った。食った。
星を、剣を、氷を。獣の腹の光が、青白から白へ、白から目を刺すような銀色へ、どんどん強くなっていく。体が、膨れ上がっていく。牛から、小屋くらいの大きさに。
腹の皮が、ぱんぱんに張っていた。中で、光が暴れているのが透けて見えた。
「ベアトリス! 腹だ!」
「待ってました!」
ベアトリスが、獣の背中を駆け上がった。
大剣を、真下に。
ずん、と、重い音。
獣の腹が、裂けた。
中から、光があふれ出した。
星と、剣と、氷。食われた魔法が、全部、一度に夜空へ噴き上がった。
屋敷の上の空に、白い星が散り、光の剣がきらめき、氷の粒が月の光を跳ね返して、雪みたいに降ってきた。
しばらく、誰も、何も言わなかった。
きれいだった。それしか、言うことがなかった。
獣の体は、煙みたいにほどけて、消えた。
あとに、金属の首輪が一つ、草の上に残っていた。
*
首輪を拾ったのは、ミラだった。
拾って、裏返して――ミラの顔色が変わった。
「……うそ」
首輪の内側に、紋が刻んであった。開いた本と、星。
魔導院の紋だった。
「これ、魔導院の試験獣よ」
ミラの声が、低くなった。
「魔法を食べる獣。研究棟の地下で飼ってるのは知ってた。でも、こんな……」
首輪には、小さな丸い石がはめこまれていた。透き通っていて、中に細い目盛りみたいな線が何本も刻まれている。
「量り石……」
「何だ、それ」
「食べた魔法の量を、量る石。この獣に何かを食べさせて、どれだけの魔法を持ってるか量るための……」
ミラは、言葉を切った。
石は、まっぷたつに割れていた。目盛りの線が、全部、焼き切れていた。
「院長が……あなたの中の魔法を、量ろうとしたんだ。わたしに、何も言わないで。わたしが、ここにいるのに」
ミラは、割れた石をぎゅっと握った。
小さな拳が、震えていた。怒っている。自分の組織に。
「でも、量りきれなかった」
ミラは、顔を上げて、俺を見た。眼鏡の奥の目が、昼間とは違う光り方をしていた。
「石が割れたの。ありえない。この石は、魔導院の全員の魔法を足しても、割れないように作ってあるのに」
俺は、何も言わなかった。
言えることは、なかった。
「……あなた、本当は、何なの」
ミラの問いに、ベアトリスが大剣を担ぎ直して、あくびをした。
「ま、今夜はもう寝ようか。誰も怪我してないしさ」
ベアトリスは、そう言いながら、ミラの手から首輪をひょいと取って、自分の腰の袋にしまった。
俺と、一瞬だけ目が合った。
読めない目だった。
*
◆ベアトリス
ベアトリスは、部屋に戻ると、灯りをつけて、大公への報告を書いた。
――閣下へ。鴉は、魔法なしではただの若造。剣の腕は素人です。
――ですが、魔法を持たせれば、底が見えません。今夜、魔導院の試験獣が屋敷を襲いました。院長が鴉の魔法の量を量ろうとしたものと思われます。量り石は割れました。
――鴉は、一人で片づけようとしませんでした。全員に撃たせ、最後はあたしに斬らせた。あれは、人を使うのがうまいのではなく、人を信じるのが早いのだと思います。
そこまで書いて、ベアトリスは筆を止めた。
命令の二つ目は、書かなかった。「陛下の動きも、それとなく見ておけ」。閣下は、そう言った。兄上は何かを隠している、と。
陛下のことは、今のところ、何も書くことがない。
ベアトリスは、首輪を手に取った。魔導院の紋。これは、閣下に送る。
それから、窓の外を見た。
庭の草の上に、まだ少し、氷の粒が光っていた。
――読めない。
あの坊やは、そう言った。生まれて初めてだ、と。困った顔で。
ベアトリスも、初めてだった。
剣を向けて、終わり方が見えなかった相手は。
大公家の騎士団長になって六年。誰と戦っても、剣を抜く前に、だいたい分かった。勝つか、負けるか。何合目で終わるか。それが分かってしまうのが、ずっと、少しだけつまらなかった。
今日は、分からなかった。
喉もとに剣を突きつけたのに、勝った気がしなかった。
「……いつか、本気でやりたいね、坊や」
ベアトリスは、灯りを消した。
暗い部屋で、自分の口もとが笑っているのが分かった。




