第二話 収穫祭の夜から、ちょうど百日
それから、温室で彼と顔を合わせるのが当たり前になった。
花の話、遊学先の話、互いが読んだ本の話。トリスタンは口数こそ少ないが、彼女の話を決して遮らず、最後まで聞いてから自分の考えを述べた。意見が違えば違うと言い、その上で彼女の考えを面白がった。
ある日、南の国の歴史書について意見が食い違い、二人でずいぶん長いこと議論したことがあった。アガットがつい熱くなって反論すると、トリスタンは目を丸くし、それから嬉しそうに笑った。
「なるほど。そういう見方もあるのですね」
「……申し訳ございません。少々、言葉が過ぎました」
「どうして謝るのです?私は今、とても楽しいのですが」
その言葉に、アガットは胸がくすぐったくなるのを感じた。
ランドルフの前では、アガットはいつも「正しい答え」を探していた。彼の機嫌を損ねないように、彼の面目を潰さないように、自分の意見を飲み込んできた。
けれどトリスタンの前では、思ったことをそのまま口にできる。間違っていても笑われず、意見が違っても怒られない。
それがどれほど楽で、楽しいことか。彼女は生まれて初めて知った。
日々は静かに過ぎていく。
その間、ランドルフの評判はみるみる落ちていった。
自分で書いた式典の挨拶は、要点がぼやけたまま延々と続き、最後には来賓の老伯爵が居眠りを始めた。外国の使節を迎えた席では、相手の冗談を侮辱と取り違えて険悪な空気にした。慌てて取り繕ったのは、たまたま同席していたトリスタンだった。
「最近の第二王子殿下は、どうなさったのか」
「いや、むしろ今までが、アーベライン嬢のおかげだったのでは」
そんな囁きが王宮のあちこちで交わされるようになった。国王の耳にも届いていたらしく、ランドルフは何度か呼び出され、そのたびに不機嫌な顔で戻ってきたという。
当のランドルフは、それを全部アガットのせいにした。
「君が手を抜くから僕が恥をかくんだ。わざとだろう、性悪め!」
久しぶりに顔を合わせた学院の廊下でそう怒鳴られたとき、アガットは呆れてしまった。
「殿下。わたくしは、殿下のお仕事を代わりにするために生まれてきたわけではございませんわ」
「なんだと!?」
「ご自身でできないことでしたら、侍従や家庭教師にお尋ねになればよろしいでしょう」
ランドルフは何か言い返そうとしたが、うまい言葉が見つからなかったらしい。最後には「可愛げのない女だ!」と吐き捨てて去っていった。
そしてミーナは、そんな彼の腕の中で涙ぐみながら囁いた。
「ランドルフ様、おかわいそう……。わたし、アガット様にひどいことを言われたんです。身の程を知れって……それに、この前なんて……」
アガットの耳にも、その噂は届いていた。
自分がミーナをいじめている。持ち物を隠し、ドレスを汚し、ついには階段から突き落とした――と。
そんな事実は一つもない。そもそもアガットは、ミーナとまともに会話をしたことすらほとんどなかった。
けれど噂というものは、事実よりも面白い方へ転がっていく。ランドルフが公然とミーナを連れ歩くようになってからは、彼女こそが本当の恋人で、アガットは嫉妬に狂った邪魔者なのだという話まで広まっていた。
腹が立たないわけではない。長年尽くしてきた相手から、そこまで悪し様に言われる筋合いなどないのだから。
ただ、以前のようにランドルフの機嫌を取って誤解を解こうという気には、どうしてもなれなかった。
そんなある日、温室でトリスタンが眉をひそめた。
「弟が、何か企んでいるようです」
「存じておりますわ」
アガットは花の茎を整えながら答えた。
「たぶん、近いうちに大勢の前で婚約破棄を言い渡されます。……ある人に、そう占われましたの」
トリスタンは鋏を置き、彼女をまっすぐに見た。
「占い、ですか?」
「ええ。収穫祭の夜に、百日後に婚約を破棄されると。最初は半信半疑でしたけれど、最近は本当にそうなるのではないかと思っております」
彼女が笑ってみせると、トリスタンはかえって難しい顔になった。
「怖くはないのですか」
「少しも、と言えば嘘になります。でも――」
アガットは手元の花に目を落とした。
「あの方と結婚する未来の方が、ずっと怖かったのだと、最近気づきましたの」
自分でも驚くほど、素直に言葉が出てきた。
ランドルフと結婚すれば、きっと一生こうして彼のために働くのだろう。彼の失敗を補い、彼の機嫌を取り、彼の言葉に傷ついても笑顔でいなければならない。
以前は、それが当たり前だと思っていた。
けれど今は、温室に来る時間を失うことも、好きな本を読む余裕がなくなることも、目の前の人と自由に話せなくなることも、ひどく嫌だった。
「……アーベライン嬢」
トリスタンが彼女の手元から鋏を受け取り、作業台に置いた。
「何があっても、あなたを一人にはしません」
その真剣な表情に、アガットの胸が大きく跳ねた。
何か答えなければと思うのに、うまく言葉が出てこない。自分でもわかるほど頬が熱くなり、結局、彼女は小さく頭を下げることしかできなかった。
その言葉の意味を、深く考えないようにした。
考えたら、望んでしまいそうだったから。
そして、その日が来た。
王家主催の、冬の大夜会。国中の貴族が集い、国王夫妻と王太后も臨席する、一年で最も華やかな夜。
収穫祭の夜から、ちょうど百日。
アガットは日数を数えていたわけではなかったが、招待状に記された日付を見たとき、老婆の言葉を思い出していた。
楽団の演奏が途切れた瞬間、ランドルフがミーナの手を引いて広間の中央に進み出た。
「アガット・アーベライン!前へ出ろ!」
ざわめきが波のように広がる。アガットは扇を閉じ、ゆっくりと人垣の中から歩み出た。
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