第一話 あんた、百日後に婚約を破棄されるよ
「お嬢さん。あんた、百日後に婚約を破棄されるよ」
収穫祭の夜、広場の片隅に出ていた占いの天幕でのこと。
皺だらけの手で水晶玉を撫でながら、老婆はひどくあっさりと言った。侍女の手前、ほんの戯れのつもりで座っただけのアガット・アーベラインは、思わず瞬きをした。
「……わたくしの婚約者が、どなたかご存じで?」
「知らないねえ。ただ、見えたものを言っただけさ」
老婆は欠けた歯を見せて笑った。
「大勢の前で、派手にやられる。あんたは何も悪くないのにね。ま、信じるも信じないも好きにおし」
天幕を出ると、夜風が冷たい。
アガットの婚約者は、この国の第二王子ランドルフである。幼い頃に家同士で決められた縁で、彼女は物心ついた時から「未来の王子妃」として育てられてきた。
礼儀作法、歴史、諸外国の言葉。ランドルフが苦手な勉強をすべて肩代わりできるように、と。
実際、そうしてきた。ランドルフが式典で読み上げる挨拶文は彼女が考えたものだし、外国の使節を迎える席では、彼の隣で通訳と会話の舵取りを務めてきた。ランドルフはいつも「助かるよ」と笑い、手柄はすべて自分のものとして受け取った。
それでいいと思っていた。王子妃とは、そういうものだと。
――けれど最近、ランドルフの隣にはいつも別の令嬢がいる。
男爵令嬢ミーナ・ホルト。蜂蜜色の巻き毛に、潤んだ大きな瞳。学院で彼女がランドルフの腕にしがみついて歩く姿を、アガットは何度も見ていた。
百日後、ね……。
馬車の窓に映る自分の顔は、驚くほど落ち着いていた。
悲しいかと問われれば、少しは。幼い頃からずっと隣にいた人なのだから、何も感じないわけではない。けれど胸の大部分を占めていたのは、もっと別の、乾いた感情だった。
――ああ、やっぱり。
その夜、寝台に入ったアガットは天井を見つめながら考えた。
占いが当たるかどうかはわからない。けれど、もし本当に百日後にすべてを失うのなら、その日まで誰かのためではなく、自分のために生きてみてもいいのではないか。
翌朝、ランドルフの侍従が、いつものように封筒を持ってやってきた。
「殿下より、来月の式典の挨拶文をお願いしたいと」
「申し訳ありませんが、お断りしますわ」
侍従がぽかんと口を開けた。
「殿下の挨拶は、殿下ご自身のお言葉であるべきでしょう。そうお伝えくださいな」
その日の午後、ランドルフ本人が血相を変えて侯爵家に乗り込んできた。
「どういうつもりだ、アガット!」
「どういうつもり、とは?」
「挨拶文だ!君が書かなくて誰が書く!」
「殿下がお書きになればよろしいかと」
ランドルフは顔を真っ赤にした。それから、ふと何かに思い当たったように鼻で笑った。
「……ははあ。ミーナに嫉妬しているんだな?みっともない真似はやめたまえ。君は僕の婚約者なんだから、黙って役目を果たしていればいいんだ」
アガットは扇で口元を隠し、にっこり微笑んだ。
「ご心配なく、殿下。嫉妬など、少しもしておりませんわ」
本心だった。それが何より、自分でも意外だった。
ランドルフの世話をやめると、驚くほど時間が空くことに気が付いた。
これまでのアガットは、朝から晩まで何かしら彼のために動いていた。
式典の準備、外国語の資料の翻訳、宮廷行事の確認。婚約者として当然だと思って引き受けてきた仕事は、いざ手放してみれば、どれも彼女がしなければならないものではなかった。
空いた時間に何をしようか考えて、真っ先に思い浮かんだのは王宮の奥にある温室。
王族と、その許しを得た者だけが入れる場所で、王子の婚約者である彼女にも出入りは許されていた。今まで一度も、そんな余裕がなかっただけだ。
ガラス張りの天井から陽が降り注ぎ、異国の花々が咲き乱れている。見たこともない大輪の花や、葉に美しい模様の入った植物を夢中で眺めていると、背後から声がかかった。
「その花が好きですか」
振り返ると、黒髪の青年が立っていた。
袖をまくり、手には土のついた鋏。庭師かと思ったが、その顔を見てアガットは慌てて膝を折った。
「王太子殿下……!」
ランドルフの兄、王太子トリスタン。
長く隣国に遊学しており、半年ほど前に帰国したばかりだ。寡黙で、夜会にもほとんど顔を出さない。氷のような人だと噂されていた。
「顔を上げてください。ここでは、ただの花好きです」
トリスタンはわずかに口元を緩めた。氷どころか、ひどく穏やかな目をしていた。
「これは南の国の花で、夜にだけ香りが強くなるんです。……アーベライン嬢は、あの国の言葉が話せましたね」
「ご存じなのですか?」
「帰国して間もない頃の使節団の晩餐で。弟の隣で、見事に会話を回していた。あれは弟には無理だ」
さらりと言われ、アガットは返す言葉に詰まった。
自分の働きを、見ている人がいたのだ。
「……殿下は、花がお好きなのですか?」
「ええ。遊学先では植物園によく通いました。言葉が通じなくても、花を見ているだけなら気まずくありませんから」
「まあ。殿下にも、そのような時期がおありだったのですか?」
「もちろん。最初から外国語が堪能だったわけではありませんよ」
トリスタンは少し困ったように笑った。
「初めて市場に行ったときなど、花を買うつもりが、なぜか野菜を山ほど持たされて帰りました」
「ふふっ。それは、どのような言い間違いをなさったのです?」
「それが、いまだにわからないのです」
思わず声を立てて笑ってしまい、アガットは慌てて口元を押さえた。けれどトリスタンは気を悪くした様子もなく、むしろ彼女につられるように笑っていた。
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