第2話:小さな家出と、娘の決意
冷たい静寂が支配する寝室で、ゼノンは立ち尽くしていた。
手元にあるのは、完璧に偽造された密会映像が流れる魔導鏡と、リーゼロッテが残した書き置き。
夜空を覆う紫の雷雲は、彼の怒りと絶望の深さをそのまま表していた。
(落ち着け。私は千年の時を生きた魔王だ。これしきの揺さぶり、どうということはない……!)
自分に言い聞かせるが、指先が微かに震えるのを止められない。
恋愛指南書には『誤解が生じたときは即座に話し合え』とあった。しかし、肝心の相手がどこにいるのかが分からない。実家の聖教会へ向かったのは確実だろうが、今のゼノンが力任せに突入すれば、それこそ「本性を現した魔王が聖女を襲撃した」と、侯爵の思うツボだ。
「パパ……」
その時、足元から衣類が擦れる微かな音が聞こえた。
ゼノンが弾かれたように視線を落とすと、そこには大きな旅行カバンを引きずった、5歳の愛娘エルナの姿があった。
「エルナ!? ……なぜここに? ママと一緒に連れて行かれたのでは……」
ゼノンは慌てて膝をつき、小さな娘の肩を抱いた。
エルナは白金の髪を少し乱しながら、きゅっと唇を結んでゼノンを見つめ返してくる。
「ママね、すっごく泣いてたの。おてがみ見て、えーんって。それで、エルナを連れておんもに出ようとしたの」
「そうか……。では、なぜお前はここにいるのだ?」
「エルナ、パパがわるいことするわけないもんって言ったの! でもママ、お耳が痛い痛いになっちゃってて、エルナのお話聞いてくれなかった。だからね……」
エルナは引きずってきたカバンをポンと叩いた。
「エルナがママを、地下のまほうのお部屋にぽいってしてきた!」
「……は?」
魔王ともあろう男が、間抜けた声を上げた。
エルナが言う「地下のまほうのお部屋」とは、ゼノンが万が一の時の避難シェルターとして、公爵邸の地下深くに構築した絶対結界室のことだ。神の攻撃すら遮断する特級の隔離空間である。
「ママ、泣き止まないから、エルナのまほうで、ねんねさせて、地下室のベッドに運んだの。いまは、もう目が覚めてると思う!」
エルナの瞳の奥で、ゼノン譲りのどす黒い、いや、極めて強力な魔力がパチパチと火花を散らしている。
5歳にして、母親を無傷で昏睡させ、最強の結界室まで一人で運搬する圧倒的な才能。まさしく魔王の血を引く天才児だった。
「エルナ……お前、ママを監禁してきたのか?」
「ちがうよ? 『お話し合い』のじかんだよ。パパ、いこ! パパとママが仲良しじゃないと、エルナ、ご飯が美味しくないもん!」
エルナはゼノンの大きな手をきゅっと握りしめた。
その小さな手の温もりに、ゼノンの脳内を支配していた絶望が一瞬で消し飛ぶ。
(そうだ。私には、この世界最強の味方がついている。何を弱気になっていたのだ)
「ああ、行くぞ、エルナ。我が家の太陽を取り戻しに」
ゼノンはエルナを軽々と抱き上げると、邸宅の最下層へと向かって一歩を踏み出した。
第2話をお読みいただきありがとうございます!
まさかの別居危機でしたが、5歳の愛娘エルナちゃんが圧倒的な実力を発揮してくれました。ママを地下室へ連行するという、父親譲りの思い切りの良さです。次回の第3話では、いよいよ地下室での夫婦対面。誤解の行方と、裏で糸を引く侯爵への逆襲の準備が始まります。どうぞお楽しみに。
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