0008 愛無き世界
魔天使は、じっとその「肉」を見つめる。水子。間引かれた命。しかも、この「肉」は五体満足、内臓も全部揃っている。両手足があって、指は5本ずつある。こんなに幸福な滑り出しが出来たのに、この「肉」が死を賜った理由は、「経済力が無いから」。要するに、働いていない、あるいは子育てできるだけの稼ぎがないからである。
どんな命も金次第。それが、神の思し召しなのか。いや、神の思し召しが届かない動物達は、もっと残酷な環境にて生き続けているのではないのか。しかし、「金」次第で健康な子供が、ゴミ袋の中に突っ込まれて、焼却処分を待つ身となるのでは、「命」の価値とは如何なものか。考えさせられてしまう。
いや、考えるべきは自分ではない。それに、幾ら考えをこねくり回した所で、この命にとって救いになるだろうか。そう思った時、魔天使は奇跡を見る。
もう死んだものだと思っていた赤ん坊の口が、僅かに動いている。生きているのだ。何という事だ。こいつはまだ生きるつもりだ。魔天使は思う。こいつをどうしてやろうか。幸せだけど子供がいない家庭に送り届けるのか。いや、そんなコウノトリになんかなりたくない。もっと現実的な救いでなければ、それこそ「神の思し召し」に反するのではないか。
別に「神様」に含むところはないが、自分でも信じていない善意を根拠に動くつもりもない。しかし、こいつには見込みがある。何もさせないで、幸せな日常を与えるのが、果たして正しいのか。
敵に塩を送るつもりではない。いや、砂糖になるかのどうかなんて、誰にも分からない。
「獣皇女、カイム、推参いたしました」
「あんた、子供に興味無い?」
「ありません」
「なら、適任ね。この赤ん坊の面倒を頼むわ。煮るなり焼くなり、好きにしなさい。それと、武器もあげる。プファイファー・ツェリスカに似せたものよ」
「異世界より来た私が、ここで人間の赤ん坊を育てよ、と言うのですか」
「そんなお人好しになった訳ではない。あなたは、異世界で居心地に不平不満があった様ね」
「不平不満と言われると、怒られそうですが、まぁ確かに退屈で凡庸で都合の良い世界でした。それでも、理不尽で残酷で不条理な現世よりはマシ、その一念だけでこれまで生きてきました」
「それは生きているとは言えない。人生の無駄遣いよ。そんな無駄な暇つぶしをするくらいなら、子供一人育ててもらって人生の有効活用をしなさい」
「……ご承知いたします。ただ、1つ、お願いがございます。この赤ん坊の名前は、あなたがお決め下さい」
「そうね、「オウ」。その子の名前は、「オウ」よ」
「このカイム、このオウと共に生き続けます」
カイムは、自分が産んだわけでもないのに、かつて自分が捨てた人間としての本能から、授乳させて、風呂に入れて、おむつを変えて、オウの面倒を完璧にこなしていた。
カイムの前世は、保育士だからだ。辛くて給与の安い3K職場であったが、そんなのぶっ飛ぶくらいに、子供が好きだった。自分の全てを犠牲にしてもいいくらいに、この仕事に賭けていた。
だが、思いの深さはそれが折れた時の影響もまた根深くなる。カイム、中森まゆみは、ある日、自分の信じていたものに裏切られていた。
役員が保育施設の資金を横領して、豪遊していたのがバレていたのだ。その際に、担保として提供していたのが、園児達だったのだ。
結局、頑張って、愛して、努力していたのは自分だけだったのだ。もうどうでもいいと思っていった時に、魔天使からの誘いを受けて、異世界へと転移していた。現世にはもう悔いも思い残しもない。深すぎる思いは、へし折られた時、回収するのが困難になる。彼女の思いは、回収が困難なほどに深すぎていた。
そして、気がつけば、異世界を支配する獣皇女にまで上り詰めていた。まるで暇つぶしで遊んでいたゲームをクリアした様な感覚であったが、魔天使の声がかかり、今回、久しぶりに現世に戻ってきていた。
どんどん酷くなっているな。カイムの感想がそれである。現世の世の中の荒む事、まるで世紀末である。言っている事はご立派だけど実現出来ていない奴、俺は現実主義だと言って自己中心的な行動や言動を撒き散らす奴、そしてそういう奴らに迎合して自分の渇きを癒そうとする奴ら、どいつもこいつも最悪だ。
だから捨てたんだ。もう悔いなんて無い、未練なんて無い。この末に滅びたとしても同情なんてしない。でも、オウの前では、そういう感情は出さないようにする。子供には、たくさんの夢を見せてやりたい。その夢を根ざすものは、無償の愛である。有償になったら、それは単なるサービス業となってしまう。
カイムは、白いフードを深く被っている姿で、町中を歩く。ベビーカーに乗せながら、街を歩く途中で、自分に向けられた敵意を感じる。まさか、もうやってきたのか。
プファイファー・ツェリスカに似せた拳銃を引き抜く。シングルアクション、1発撃つごとにハンマーを起こす必要のあるリボルバー拳銃である。全弾5発、弾倉に詰まっている弾丸を全弾、異世界からの刺客に撃ち込む。ビルの屋上から、弓矢にてオウの命を狙っていたエルフが、起きてくる。急速に焼け爛れていき、骨も溶けて、地面に落ちる前に消えてしまう。
カイムの顔を隠していた白いフードが、一瞬だけはだけてしまう。人間とオオカミを足して二で割った様な顔だ。急いでフードを被り直すと、カイムは足早にオウと共にその場を後にする。もうこの街には居られない。また別の街を探さないといけないな。




