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三河の片隅で、家族を守る――その名はまだ誰も知らない  作者: 可可多


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第九話 囲炉裏の夜、巡る季節

数日が過ぎた、ある夕刻のこと。竹千代は父の口から、思いがけない話を耳にした。


隣接する郷士の家との間で、境の用水をめぐるいざこざが持ち上がっていたのだという。双方が己の言い分を譲らず、事は一触即発の様相を呈していた。父・弥左衛門に代わってその場に赴いたのが、松丸だった。


松丸は、双方の言い分をまず黙って最後まで聞いたという。片方の郷士がなぜ意固地になっているのか、その裏に隣の郷士の代替わりで水回りの取り決めが曖昧になっていたという事情があることを辛抱強く聞き出し、双方の顔が立つ形で新たな取り決めを取りまとめてみせた。力ずくで押さえつけるのではなく、まず相手の事情を聞く。それは、井堰の交渉の折に竹千代がしばしば口にしていた流儀そのものだった。


「儂も、いつぞや竹の遣り口を、傍で見ておったのでな」


夕餉の席でその顛末を語り終えた弥左衛門は、そう付け加えて目を細めた。竹千代は、己の流儀が兄の中に確かに根付いていたことを知り、胸の奥が静かに温かくなるのを感じた。


松丸は近頃、父の名代として近隣の郷士との折衝や、家督継承に向けた実務の見習いに追われており、稽古場に姿を見せる時間もめっきり減っていた。だがその日、久方ぶりに己の得物の手入れをしながら汗を拭う松丸の表情には、ようやく一区切りついたという安堵が見て取れた。


「あにうえ、お疲れのところ恐れ入ります」


竹千代が声をかけると、松丸は振り返り、屈託のない笑みを浮かべた。十六となった兄は、すっかり若武者らしい精悍さを身につけている。


「おお、竹か。何用じゃ、そのように改まって」


「実は、ちちうえ、ははうえ、平蔵殿もご一緒に、あにうえにお話ししたきことがございます。今宵、皆で少しお時間をいただけませぬか」


松丸は一瞬怪訝な顔をしたが、竹千代の少し緊張した面持ちに、何か大事な話であることを察したようだった。


「相分かった。夕餉の後にでも、皆で集まろうぞ」


その夜、囲炉裏を囲んで家族全員と平蔵が顔を揃えた。竹千代は、少し頬を赤らめながらも、これまでの経緯、今川からの召し抱え打診、父の対応、そして自らの心づもりを、たどたどしくも真摯に語った。


松丸は黙って聞き入っていたが、竹千代が「家族の安寧こそが第一である」と語る段になると、その表情に驚きと、深い感慨が浮かんだ。


「……竹よ」


松丸は低く、しかし温かい声で言った。


「儂は、お主に焦りを覚えたこともあった。武芸でも算術でも、儂を追い越していく弟に、正直、悔しさもあった。じゃが……お主がそこまで、この家のことを想うておったとは」


松丸は膝を進め、竹千代の肩に手を置いた。


「案ずるな。儂が家督を継ぐ折には、お主のような弟がいてくれること、これほど心強いことはない。今川であろうと、儂の下であろうと、お主の道を、儂も全力で支えよう」


囲炉裏の火が、家族全員の顔を暖かく照らしていた。竹千代は、あの夏の夕暮れに垣根の向こうへ消えていった兄の背中と、固く握られていた拳の形を、ふと思い出した。あの時の焦りは、こうして今、確かな支えへと形を変えたのだ。竹千代は深く頭を下げた。


「……ありがとうございます、あにうえ」


家族会議の夜を境に、阿久居館には確かな安堵と結束の空気が満ちていた。今川からの召し抱え打診という外圧はなお燻り続けているものの、家族全員がその重みを分かち合う覚悟を固めたことで、竹千代の心にも静かな落ち着きが戻っていた。


季節は巡り、天文二十六年の実りの秋から、冬、そしてまた春へと移ろっていく。竹千代の日々は、これまでと変わらぬ律動を保ちながらも、着実に深みを増していった。


手習い所では、竹千代の算術指導を受けた童たちの中から、そろばんを自在に操る者が少しずつ現れ始めた。特に、人足頭の老爺の孫にあたる利発な童・彦太が、竹千代の教えを熱心に吸収し、簡単な帳面付けをこなせるまでに成長したことは、竹千代にとって静かな喜びだった。前世の知識を独り占めするのではなく、次の世代へと少しずつ橋渡ししていく。それもまた、この乱世を生き抜く知恵の一つなのだと、竹千代は感じていた。


槍の鍛錬は、もはや技を新たに開発する段階を超え、流水槍を己の骨肉と完全に一体化させる、静かな深化の時期に入っていた。平蔵との立ち合いも、以前のような師弟の指導という形ではなく、二人の武芸者としての純粋な鍛錬、時に汗を飛び散らせ、時に無言で型を合わせる、静謐な時間へと変化していった。


村の内政面では、井堰による豊かな収穫が二年続いたことで、阿久居郷の蔵には久方ぶりに米の余裕が生まれ始めた。竹千代は父の許しを得て、老爺や村人たちと共に、次なる課題、用水路の維持管理や冬場の備蓄体制の見直しについて、そろばん片手に静かに議論を重ねていった。ただし、あまりに急進的な提案は控え、あくまで「経験ある古老たちの知恵を数字で補う」という、これまで築き上げてきた協働の姿勢を崩さぬよう、竹千代は慎重に振る舞い続けた。


一方で、今川と織田の間の緊張は、遠く尾張・三河の国境地帯で小競り合いを繰り返しながら、じわじわと高まりを見せていた。父・弥左衛門は時折、拳母城下や津島商人からもたらされる情勢の噂を、夕餉の席でぽつりぽつりと語った。


ある晩、弥左衛門は湯呑みを傾けながら、独り言のようにこう漏らした。


「聞けば、松平の遺児で、竹千代という幼名の子がおるそうな。今は今川の人質として、駿府におるという話じゃ」


竹千代の箸が、皿の上でぴたりと止まった。


「……竹千代」


自分と同じ名を持つ誰かが、この乱世のどこかに、確かに生きている。竹千代はその一言に、総毛立つような感覚に襲われた。これまでの既視感は、音の響きへの漠然とした引っかかりに過ぎなかった。だが今度は違う。紛れもなく実在する誰かが、己と同じ名を負っているという、動かしようのない事実だった。


(……儂は、いったい何者なのだ。竹千代という名は、いったい何を意味する)


弥左衛門はさらに、織田弾正忠家の当主、織田信長という若き当主にまつわる、常軌を逸した奇行の噂も語って聞かせた。そうした断片的な情報の数々を、竹千代は表情に出すことなく、しかし胸の内で静かに、注意深く蓄えていった。


囲炉裏の炭が、小さく爆ぜる音を立てた。竹千代はその音を聞きながら、己の名の奥に眠る何かが、まだ誰にも、そして自分自身にも知られぬまま、静かに息をひそめていることを、改めて思い知らされていた。

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