↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
三河の片隅で、家族を守る――その名はまだ誰も知らない  作者: 可可多


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
10/11

第十話 旋風槍

父の語った松平竹千代や織田信長の噂は、その後もしばしば竹千代の脳裏をよぎった。だが、正体の知れぬ違和感に囚われて足を止めるほど、竹千代は暇でも臆病でもない。分からぬものは分からぬままに、今できることを積み重ねる。それもまた、竹千代のやり方だった。


その日も、竹千代は庭先で流水槍の最後の型を締めくくった後、汗を拭いながらふと考え込んだ。近接戦において、もはや己の槍は平蔵をして「一合と保つまい」と言わしめるほどの域に達している。だが、もし敵が間合いの外、弓の届く距離にいたならば、どうする。


その瞬間、脳裏に苦い記憶が蘇った。稽古弓を引こうとして、幼い筋力ではまともに矢を番えることすらできず、盛大にひっくり返った「蛙の踊り」。あれから数年経った今もなお、竹千代の弓の腕は絶望的なまでに上達していない。


「うぎぎぎ……」


竹千代は思わず唸り声を漏らした。あれほど槍術では異次元の速度で技を磨き上げられるというのに、弓だけはどうしてこうも、身体が言うことを聞かないのか。前世の記憶を辿っても、弓道や洋弓の専門知識までは持ち合わせていない。純粋に、身体感覚として弓という武具との相性が悪いのだと、竹千代は苦々しく結論づけていた。


(……いや)


竹千代はふと足を止めた。遠くの敵を制するのに、必ずしも弓でなければならぬ道理はない。


前世の記憶の底から、ふとある光景が浮かび上がってきた。陸上競技の槍投げ。助走をつけ、全身の力を一本の槍に伝え、大空高く弧を描いて飛ばす、あの投擲競技だ。竹千代の頭の中で、点と点が繋がっていく。己が既に極めた捻り突きの腰の捻転、角運動量保存の理は、突く動作だけでなく、槍を投げる動作にも応用できるのではないか。薙ぎ払いで培った遠心力の活用も、助走からの全身連動という形に転用できるはずだ。


竹千代は近くに落ちていた、稽古用の折れた木の棒を拾い上げ、試しに軽く投げてみた。狙いも力加減も滅茶苦茶で、棒は情けなく数間先の地面に突き刺さっただけだった。それでも、その瞬間の腰の捻りの感触に、竹千代は確かな手応えを感じ取っていた。


(弓が使えぬのなら、槍そのものを、飛び道具にしてしまえばよいのだ)


これは、単なる思いつきではない。竹千代がこれまで積み上げてきた流水槍の技術体系、重心移動、角運動量保存、遠心力の活用という物理法則の理解があってこそ、辿り着ける発想だった。


夕刻、稽古を終えた平蔵が槍の手入れをしているところへ、竹千代はいつになく改まった様子で歩み寄った。


「平蔵殿。折り入って、ご相談したきことが」


平蔵は片眉を上げ、手入れの手を止めた。竹千代がこうして改まって切り出すときは、大抵何か常識外れの企みがある。この数年の付き合いで、平蔵はそれをよく心得ていた。


「何じゃ、申してみよ」


竹千代は、これまでの着想を、弓が絶望的に不得手であること、しかし遠間の敵に対する備えが武芸者として必要であろうと考えたこと、そして槍を投げるという奇妙な発想に至った経緯を、包み隠さず語った。


「……槍を、投げるじゃと」


平蔵は最初、怪訝な顔を隠さなかった。槍は本来、間合いを保ちながら突き、払い、叩く得物であり、手放して投げるなど、武芸の常道からは大きく外れる発想だった。得物を手放すというのは、丸腰になることに等しい。実戦において、それがどれほど危険な賭けかは、古強者の平蔵には即座に理解できた。


だが、平蔵は竹千代の言葉を最後まで黙って聞いた後、しばし顎に手を当てて考え込んだ。


「……儂は、そのような技を教えたことも、見たこともない。じゃが」


平蔵はゆっくりと口を開いた。


「お主のこれまでの技も、儂の教えた型の枠には収まらなんだ。捻り突きも、薙ぎ払いも、儂の常識の外から生まれたものじゃ。ならば、この投げ槍とやらも、頭ごなしに否定するのは早計であろうな」


平蔵は腕を組み、竹千代を見据えた。


「教えることはできぬ。じゃが、手伝うことならばできる。的を持って走り回るくらいのことは、儂にもできよう。力の加減や間合いの見切りについては、儂の見立ても多少は役に立つはずじゃ」


竹千代の顔がぱっと明るくなった。


「かたじけのうございます、平蔵殿」


「ただし」


平蔵は指を一本立て、釘を刺すように続けた。


「これは、あくまで独り遊びの延長として、目立たぬところで行うのじゃぞ。得物を手放して投げるなど、周囲の目に触れれば武士の作法を知らぬ童と侮られかねぬ。裏山の奥、人目のつかぬところで試すがよい」


この助言は、単なる武芸の指導を超え、これまで竹千代が積み重ねてきた「疑念度を上げない」振る舞いの延長線上にある、平蔵なりの深い配慮であった。


竹千代は裏山での試行を切り上げると、汗ばんだ額を拭い、静かに木立の下へ腰を下ろした。新たな技への昂りで逸っていた心、それを自覚した瞬間、竹千代の脳裏には苦い記憶が過ぎった。素振りの反復に憑かれたように没頭し、過労で倒れたあの夜のことだ。閃きに任せて突き進むことの危うさを、竹千代は身をもって知っている。


「少し、頭を冷やそう」


竹千代は独りごちると、あぐらをかき、背筋を伸ばして目を閉じた。呼吸を整え、一つ、二つと数えながら、逸る心の熱を静かに鎮めていく。前世の記憶にある瞑想法と、平蔵から学んだイメージトレーニング、かつて素振り過労の後、褥の中で型の理解を劇的に深めたあの手法を、竹千代は今、意識的に組み合わせていった。


瞼の裏に、これまでの投擲の感覚を一つひとつ思い描く。助走の歩幅、腰の捻転が生む角運動量、指先が槍の柄を離れる刹那の感触。それらを、性急に「もっと」と求めるのではなく、ただ静かに反芻し、身体の記憶として深く沈める。木々の間を抜ける風の音、遠くで啼くひよどりの声、土と落ち葉の匂い。五感が研ぎ澄まされていく中で、竹千代の心拍は徐々に落ち着きを取り戻していった。焦りは、技を粗くする。平蔵が幾度となく説いてきたその教えを、竹千代は改めて胸に刻んだ。


どれほど時が経っただろうか。竹千代がゆっくりと目を開けたとき、西日が山の稜線に沈みかけていた。肩の強張りは解け、逸っていた心はすっかり凪いでいる。


(急く必要はない。流水の理は、急がぬからこそ流水なのだ)


竹千代は静かに立ち上がり、木立を後にした。


翌日から、竹千代は裏山での試行を再開した。だが、その様子は以前とは明らかに違っていた。逸る心のままに何度も槍を投げつけていた昨日までとは打って変わり、一投一投を丁寧に検証し、平蔵の的確な観察眼を借りながら、着実に技を積み上げていく。


「今のは、腰の捻りが少し早すぎたな」


平蔵が的代わりの藁束の傍らから声を飛ばす。竹千代は頷き、槍を拾いに走りながら、頭の中で先ほどの投擲を反芻した。捻り突きで培った腰から穂先へ力を伝える間合いを、地面に足がついたまま行う動作から、助走の勢いを乗せた動作へと転換する。そこに、今までにない難しさがあった。摺り足連携で培った重心移動の感覚を、今度は前進しながら力を溜め、最後の一歩で全身の力を解き放つという投擲特有のリズムへと組み替えていく。何度も何度も、竹千代は同じ動作を繰り返した。だが、それは以前のような盲目的な反復ではない。三度投げては休み、平蔵の講評を受け、瞑想で得た身体感覚の記憶と照らし合わせながら、一投ごとに精度を高めていく、極めて理性的な鍛錬だった。


夕刻が近づく頃、竹千代の投じた槍が、これまでで最も美しい弧を描いた。腰の捻転から生まれた回転が槍の軸を安定させ、風を切り裂くように飛翔し、狙い定めた藁束の中心近くに深々と突き刺さった。


平蔵が、思わず低く唸った。


「……見事じゃ。今の一投、間合いにして十五間はあったろう。しかも、あの精度」


竹千代は肩で息をしながらも、静かな満足感を噛みしめていた。これは弓のような才のなさを晒す技ではない。己が積み上げてきた槍術の理論の、自然な延長線上にある技だった。


「平蔵殿、一つ気にかかることが」


竹千代は、藁束に突き刺さったままの槍を見つめながら切り出した。


「この技は、確かに遠間の敵を打ち倒せましょう。じゃが、投げてしもうては、わたしの得物は手元から失われまする。もし敵が複数、あるいは間合いを詰めてきたら、丸腰も同然」


平蔵は腕を組み、深く頷いた。


「そこよ。儂も、その一点をずっと危ぶんでおった。得物を手放すというのは、武芸者にとって最も忌むべき隙じゃ。いかに見事な投げであっても、それだけでは片手落ちよ」


二人はしばし黙考した。竹千代の頭には、前世の記憶にあった様々な武具の運用法が過ぎった。投擲武器を主体としながらも、近接戦への切り替えを前提とした戦い方。だが、この時代の郷士の子が、そのような装備を潤沢に揃えられるはずもない。あくまで阿久居の身代に見合った、現実的な解でなければならない。


「まず一つ。予備の得物を携える、ということでしょうか」


竹千代がそう言うと、平蔵は首を横に振った。


「それも一案じゃが、いかんせん重い。長槍を二本も三本も背負うては、動きが鈍る。それに、この身代で潤沢に槍を誂えるのも、容易ではあるまい」


竹千代は頷いた。阿久居の家は井堰改修で潤ったとはいえ、まだ贅沢に武具を揃えられるほどの余裕はない。


「ならば、短めの得物を、腰に一振り忍ばせておくのはいかがでしょう。この技を放った後、間合いを詰められた際の最後の備えとして」


平蔵の片目が光った。


「うむ、それは理に適う。長脇差か、あるいは短めの手槍、穂先を小さく、柄も短くした投槍専用の予備を、腰の後ろに差しておくのじゃ。放った直後、瞬時に抜いて構えられれば、丸腰の隙は最小限で済む」


さらに二人は、投げた後の主力の槍そのものについても話し合った。


「戦の場であれば、事前に地に伏せさせた郎党や人足に、予め何本かの槍を用意させ、投げた後にすぐさま手渡す、という運用もできましょう」


竹千代の提案に、平蔵は感心したように唸った。


「それは、もはや一人の武芸ではなく、小さな備えの運用じゃな。お主の頭は、いつも儂の思いもよらぬところへ飛ぶ」


「では平蔵殿。この技、名を付けねばなりませぬな」


竹千代がそう言うと、平蔵は稽古着の埃を払いながら、しばし考え込んだ。


「助走の風を孕み、旋回しながら宙を斬り裂いて飛ぶ、か。……ならば『旋風槍』でどうじゃ」


竹千代は深く頭を下げた。


「旋風槍。……ありがたく頂戴いたします」


竹千代は的の傍らに立てかけていた稽古槍を手に取り、じっとその穂先を見つめながら、思案げに続けた。


「平蔵殿。槍を極めんと幾年も振ってきて、ふと思うたのです。槍は、確かに強い得物にございます。じゃが、間合いによって、その強さには大きな偏りがある」


平蔵は黙って耳を傾けた。竹千代は槍を軽く構え、間合いを取るように一歩下がった。


「中間合い、今まさに槍が最も力を発揮する距離では、まず並の敵に後れは取りませぬ。捻り突きも薙ぎ払いも、この間合いあってこそ。旋風槍が仕上がった今、遠間もまた埋まりました。じゃが」


竹千代は今度は、槍を持ったまま一気に敵の懐へ飛び込むような足運びをしてみせた。だが、長い柄が邪魔をして、動きがぎこちなく詰まる。


「見ての通りにございます。敵がぐっと間合いを詰め、組み合うほどの至近に入り込んでしまえば、この長柄はかえって己の枷となる。振るう間合いもなく、突く間合いもなく、ただ得物が邪魔になるばかり」


平蔵は深く頷いた。それは、槍働きの古強者である平蔵自身が、幾度となく実戦で味わってきた苦渋でもあった。


「そのとおりじゃ。乱戦の中、敵に組み付かれ、槍が使い物にならぬようになった時、多くの雑兵はそこで命を落とす。あるいは槍を捨て、腰の刀に頼るしかない」


竹千代は槍を下ろし、平蔵をまっすぐに見た。


「旋風槍で遠間を制し、流水槍で中間合いを制する。ならば、至近距離、この最後の穴を埋める術こそが、わたしの武芸を真に隙のないものにするのではないかと」


その瞳には、これまでの技を超えた、新たな探究への静かな熱意が宿っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。