↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
三河の片隅で、家族を守る――その名はまだ誰も知らない  作者: 可可多


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
11/12

第十一話 流水柔

平蔵は稽古槍を地面に立てかけると、囲炉裏端に腰を下ろすよう竹千代に促した。夕闇が迫る中、隻眼の古強者は、珍しく己の若き日の記憶を辿るように、遠い目をして語り始めた。


「儂が初めて敵の懐に組み付かれたのは、まだ二十歳にもならぬ頃じゃ。三河の小競り合いでな……槍を構える間もなく、雑兵に組み付かれ、共に泥田へ転げ落ちた」


平蔵は自らの片目の古傷に、無意識に触れた。


「あの時、儂を救ったのは、剣でも槍でもない。父から仕込まれた小具足の心得よ。組討ちにおいては、まず敵の重心を崩すこと。力比べで勝とうとしてはならぬ。相手の腕、襟、あるいは帯を掴み、己の重心移動と共に相手を流す。そこに活路がある」


竹千代は身を乗り出した。重心を崩す、力ではなく流す。それは、竹千代が既に体得している摺り足連携の理論、すなわち重心移動による体幹制御と、驚くほど通底するものだった。


「至近では、間合いを取ろうとするな。むしろ己から敵の懐に飛び込め。飛び込んだ上で、相手の得物を封じる。腕を抑え、肘を極め、あるいは足を掛けて崩す。それから、脇差か、あるいは素手のまま急所を突く」


平蔵は具体的な技をいくつか、実際に竹千代の腕を取って示してみせた。手首を捻り上げる関節技、足を掛けて相手の重心を崩す崩し技、組み付かれた際に相手の力を利用して投げる体捌き。それらは決して洗練された武術体系ではなく、幾多の修羅場を潜り抜けた古強者の、泥臭くも実戦的な生き残るための技の集積だった。


「これらは、儂が幾つもの死線を潜り抜けて、身体で覚えたものじゃ。型として整うたものではない。じゃが、命のやり取りの中では、これが何よりもの武器になる」


竹千代は、平蔵の一つ一つの動きを食い入るように見つめ、時に自らも体を動かして感覚を確かめた。それは、これまで学んできた華麗な槍術とは全く異質な、泥と血の匂いのする、生々しい生存の技術だった。


竹千代の熱心な眼差しに、平蔵は片目を細めた。多くを語らぬ質の古強者であったが、これほどまでに真剣に耳を傾けられれば、心を動かされずにはいられない。夕闇はいよいよ濃くなり、囲炉裏の炭がぱちりと爆ぜる音が、静かな座敷に響いた。


「ならば、もう少し話すとするか」


平蔵は湯呑みの白湯を一口含み、記憶の糸をたぐるように語り始めた。


「儂がこの片目を失うたのも、組討ちの最中よ。今川方との小競り合いで、敵の雑兵と組み合うた際、相手が土くれを掴んで顔に投げつけおった。目つぶしよ。武士の作法にはない、卑怯な手じゃ。じゃが」


平蔵は自嘲めいた笑みを浮かべた。


「戦場で卑怯も正々堂々もない。あるのは、生き残る者と、死ぬ者だけじゃ。あの時、儂は片目を失いながらも、痛みに構わず相手の帯を掴み、共に地に転がりながら脇差を抜いて突いた。あの瞬間、儂の中で何かが変わった。武芸とは、美しい型を極めることではない。生き延びるための、ありとあらゆる手管の集積じゃとな」


竹千代は息を呑んで聞き入っていた。前世の記憶にある、洗練され安全に管理された武道とは全く異なる、生々しい戦国の実相がそこにあった。


「他にもある。夜討ちの折、狭い民家の中で敵と鉢合わせたことがあった。槍はおろか、太刀を振るう間合いすらない。あの時儂を救ったのは、囲炉裏の灰を掴んで敵の顔に浴びせたことよ。武具ではない、その場にあるものを使う機転。それもまた、至近距離での戦の理よ」


平蔵はさらに、雨で足場が悪い中での組討ち、鎧を着けた相手と素肌武者の組討ちの違い、夜陰に紛れての奇襲対応など、幾つもの修羅場の記憶を、飾ることなく語り続けた。それらの話の端々には、平蔵自身がこれまで語ってこなかった、若き日の恐怖や、仲間を失った悲しみが、抑えた声の震えとして表れていた。


「……儂がこうして話すのは、竹、お主が初めてじゃ。松丸様にも、これほど赤裸々には語ったことがない」


平蔵はふと、そう漏らした。その言葉には、竹千代への特別な信頼が込められていた。


竹千代は居住まいを正すと、囲炉裏越しに平蔵へ向き直り、深く頭を垂れた。子供らしい素早い会釈ではない。心の底からの敬意を込めた、ゆっくりとした一礼だった。


「平蔵殿。今宵伺うたお話の数々、この竹千代、生涯忘れませぬ。片目を失われた折のこと、松丸あにうえにすら明かされなんだお心の内まで。そこまでのご信頼を賜り、まことにありがたく、深く感謝申し上げまする」


顔を上げた竹千代の瞳には、稽古中に見せる真剣さとも、家族の前で見せる甘えとも違う、静かで確かな敬愛の光が宿っていた。


「わたしは、平蔵殿という師に出会えたことを、心から果報者と思うております。捻り突きも、薙ぎ払いも、摺り足連携も、旋風槍も。すべては平蔵殿が、この未熟な童を根気強く導いてくださったからこそ、生まれたもの。そして、今また新たに教えていただいたこの組討ちの理も、必ずやわたしの武芸の、なくてはならぬ一部となりましょう」


竹千代は少し言葉を切り、それから、はにかむような、しかし芯のある笑みを浮かべた。


「これからも、どうか共に歩ませてくださいませ。まだ見ぬ新たな槍の理、まだ見ぬ武芸の境地を、平蔵殿と共に切り拓いていきとうございます。わたし一人では、決してここまで来られませなんだ」


平蔵は、しばし言葉を失ったように竹千代を見つめていた。隻眼の古強者の頬に、行灯の灯りに照らされて、微かな光るものが伝った。それを隠すように、平蔵は無骨な手の甲で目元を拭った。


「……お主というやつは」


平蔵の声は、かすかに震えていた。


「儂は、これまで幾多の主に仕え、幾多の若武者を見てきた。じゃが、こうまで師を立て、共に歩もうと言うてくれる弟子には、出会うたことがない」


平蔵は居住まいを正し、竹千代に向かって、武士としての礼、深く重い、一つの誓いのような一礼を返した。


「この老いぼれの命ある限り、竹、お主と共に槍の道を歩もう。約束じゃ」


炭火の爆ぜる音だけが、静かな座敷に響いていた。


竹千代は静かに立ち上がると、囲炉裏の炭を軽く整え、平蔵の湯呑みに新しい白湯を注ぎ足した。子供らしい気配りというよりも、共に長い一日を過ごした同志への、自然な労わりの仕草だった。


「平蔵殿、今宵は長々とお話しくださり、まことにありがとうございました。片目のこと、若き日のご苦労……語るには、決して容易いことではなかったはず。どうか、今宵はゆっくりとお休みくださいませ。わたしのために、これ以上お躰を酷使されては、本末転倒にございます」


平蔵は湯呑みを傾けながら、ふっと笑みを漏らした。


「儂を気遣うか。……いつの間にやら、儂の方が労わられる側になってしもうたわ」


その声には、揶揄うような響きと共に、確かな温かさがあった。老いた武芸者の身体には、長年の傷や無理が静かに蓄積している。片目の古傷はもとより、幾多の戦を潜り抜けてきた躰は、若い頃のようには利かない。竹千代のさりげない気遣いは、平蔵にとって決して軽いものではなかった。


「なに、心配は無用じゃ。じゃが……そうさな、久方ぶりに、今宵は早めに褥に入るとするか」


平蔵はゆっくりと腰を上げ、囲炉裏端を後にした。去り際、竹千代の肩に一度、労うように手を置いていった。


竹千代もまた、自室へと戻る道すがら、夜空を見上げた。星々が冴え冴えと輝いている。今宵得たものは、新たな武芸の知識だけではない。平蔵という一人の人間の、痛みも喜びも含めた人生の重みに触れたことこそが、何より貴重な財産だと、竹千代は静かに噛みしめていた。


翌朝、卯の刻の薄明かりの中、竹千代は誰よりも早く庭先に立っていた。昨夜平蔵から授かった組討ちの理、重心を崩す、力を流す、環境を利用する。それらの断片を、竹千代は頭の中で流水槍の理論と重ね合わせていく。


(流水槍の核心は、角運動量保存と重心移動の連続性。ならば、得物を失った状態でも、この理は活きるはずだ)


竹千代はまず、槍を持たぬ素手のまま、摺り足の型をなぞってみた。腰の捻転、重心の滑らかな移動。この感覚を、そのまま相手を崩す動きに転用できないか。想定するのは、敵に組み付かれた瞬間だ。敵の腕を掴み、摺り足の要領で己の重心を横へ流す。すると、力比べをせずとも、相手の体勢が自然と崩れていく。さらに、捻り突きで培った腰の捻転力を、突きではなく投げに転用する。相手の襟や帯を掴み、己の捻転の勢いに乗せて投げ飛ばす。これもまた、既存の技術の応用として成立しうる。


昼過ぎ、稽古場に姿を見せた平蔵に、竹千代は早速この試みを見せた。


「ほう……」


平蔵は竹千代の動きをじっと観察した後、自ら組討ちの構えを取り、実際に組み付いてみせた。だが、そう容易くはいかなかった。相手が本気で抗う実戦では、理論通りに事は運ばない。竹千代は何度も地に転がされ、時に受け身も取れずに背中を強かに打った。


「甘いわ、竹。頭で分かっておることと、躰が動くことは別物じゃ」


平蔵の言葉は厳しかったが、その目には確かな期待が宿っていた。


竹千代は稽古を切り上げると、井戸端で汗を拭い、木陰へと腰を下ろし、目を閉じた。今日の失敗の数々を、裁くのではなく、ただ静かに観察者として眺め直す。そして意識は、前世の記憶の奥深くへと沈んでいった。組み合った者たちが相手の力を利用して大きく崩れ落ちる様、受け身を取って衝撃を殺す動き、関節を極めて相手の抵抗を封じる攻防。それらの記憶が、脳裏に鮮やかに蘇ってくる。


(そうだ……崩しは、相手の力の向きに逆らわず、その延長線上に己の力を足すことだった。力比べで勝とうとした時点で、負けが決まっていたのだ)


受け身についても、顎を引き、背中を丸め、掌で地を叩いて衝撃を分散させる動きを、平蔵に崩された際の一連の流れに組み込んでいく。長い静寂の後、竹千代がゆっくりと目を開けた時には、頭の中に、先ほどよりもずっと明確な、体系立った動きの筋道が描かれていた。


竹千代は、いきなり平蔵に組討ちを挑むことを控えた。頭で理解した理論も、体が覚えていなければ、実戦の刹那には役に立たない。それは、これまでの鍛錬の中で幾度も学んできた教訓だった。竹千代は裏庭の柔らかい土の上を選び、そこで独り、受け身の型を来る日も来る日も繰り返した。後ろ受け身、側方受け身、そして前方への回転受け身。最初のうちは、掌で地を叩くタイミングが合わず、背中に鈍い痛みが走ることもあった。だが竹千代は、平蔵直伝の「三度やって、休み、また三度」というインターバル鍛錬法を、今度は受け身の反復にも忠実に適用し、急がず、しかし着実に体へ染み込ませていった。


母・お蘭は、庭で転げ回る息子の姿に最初は目を丸くしたが、「これも武芸の稽古のうちにございます」という竹千代の説明に、微笑ましそうに見守るようになった。兄・松丸も時折様子を見に来ては、「相変わらず変わったことをする奴よ」と苦笑しながらも、どこか感心した様子で眺めていた。


「平蔵殿、お願いいたします」


竹千代は稽古場の中央で、深く一礼した。数日前、何度も地に転がされたあの日から、竹千代の目つきは明らかに変わっていた。単なる好奇心の熱ではなく、地道な鍛錬を経た者だけが持つ、静かな自信が浮かんでいる。


平蔵は片目を細め、竹千代の佇まいを一瞥した。


「ほう……この数日、独りで転げ回っておったのは、無駄ではなかったようじゃな」


「はい。まだ至らぬところは多々ございましょうが、ご指南のほど、お願い申し上げます」


平蔵は頷き、両者は組討ちの間合いへと入った。今度は、先日のような一方的な稽古ではない。平蔵もまた、竹千代の成長を測るべく、本気の力で組み付いてきた。


竹千代は、平蔵の腕が己の襟にかかった瞬間、力で抗おうとする本能を抑え込んだ。流す、力を受け流す。瞑想で整理した理論のままに、平蔵の引く力の方向へ、あえて自ら体を沈み込ませる。すると、力比べであれば圧倒的に不利なはずの体勢から、平蔵の重心がわずかに前へと泳いだ。その一瞬の隙を捉え、竹千代は摺り足の要領で足を捌き、平蔵の帯を掴んで、捻り突きで培った腰の回転力を投げの動きへと転用した。


平蔵の巨躯が、大きく弧を描いて宙を舞った。


「おおっ」


平蔵自身、驚きの声を上げながらも、瞬時に受け身を取り、地に叩きつけられる衝撃を殺して見せた。さすがは古強者の反射神経であった。竹千代もまた、逆に平蔵から関節を極められる場面や、力任せに引き倒される場面では、練習した受け身を的確に使い、大きな怪我を負うことなく地に転がった。


何度も何度も、二人は組み合っては転がり、立ち上がっては再び組み合った。日が傾く頃には、両者とも土まみれ、汗まみれになっていた。だが、その顔には、互いへの深い充足が浮かんでいた。


「……見事じゃ、竹」


平蔵は肩で息をしながら、地に座り込んだ。


「まさか、この儂を投げ飛ばす日が来ようとはな。あの理、力に逆らわず、流し、崩す。お主は、まことに底が見えぬ」


竹千代は肩で息をしながら、平蔵の傍らに腰を下ろした。土と汗の匂いの中、二人はしばし言葉もなく、傾きゆく夕陽を眺め続けた。


「平蔵殿、この技にも、名を賜れませぬか」


竹千代がそう言うと、平蔵はしばし考え込んだ後、静かに口を開いた。


「流水槍と同じ理から生まれた技じゃ。……『流水柔』でどうじゃ」


竹千代は深く頭を垂れた。


「流水柔。……ありがたく頂戴いたします」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。