↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
三河の片隅で、家族を守る――その名はまだ誰も知らない  作者: 可可多


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
12/12

第十二話 流水無形

竹千代は、三つの間合いで培った技を、それぞれ独立したものとして留めておくつもりはなかった。旋風槍で得た全身連動による威力の増幅、流水柔で得た相手の力を受け流し己の重心を自在に操る崩しの理。これらを、原点である流水槍そのものへと、再び還元できないだろうか。


竹千代は誰もいない裏山の稽古場に独り立ち、槍を静かに構えた。焦る必要はない。急がば回れ、流水は急がぬからこそ流水なのだと、己に言い聞かせながら、一つひとつの動きを確かめるように槍を振り始めた。


まず、捻り突きに、流水柔で得た「相手の力の流れを読む」感覚を重ねてみる。これまでの捻り突きは、己の力を一方的に穂先へ乗せるものだった。だが、相手の体重移動の流れを先に読み、その流れに逆らわず、むしろ流れの隙間に己の捻転を滑り込ませれば、より少ない力で、より深く、より速く相手の懐へ届くのではないか。


何度も同じ動作を繰り返し、微妙に力の入れ具合、体の沈み込みの深さを変えながら試していく。ある瞬間、槍の穂先が、まるで水が岩の隙間を縫うように、抵抗なく虚空を裂いた。


(これだ……)


次に、薙ぎ払いに、旋風槍で培った「助走からの力の連続的な伝達」を応用してみる。踏み込みの瞬間にこの理を組み込むと、円弧の速度と威力が、明らかに一段引き上げられた。そして摺り足連携にも、流水柔の「重心を自在に崩し、また立て直す」感覚を融合させることで、単なる移動術ではなく、敵の攻撃をいなしながら己の間合いを保つ、より生きた足運びへと進化していった。


日が傾き始めた頃、竹千代は最後に、三つの技を途切れることなく一つの流れとして繰り出した。その動きは、もはや型という言葉では収まりきらない、水そのものの流動性を帯びていた。


竹千代は槍を静かに置くと、稽古場の端で見守っていた平蔵の前に進み出て、深く、長く頭を垂れた。夕陽が二人の影を長く地に伸ばしていた。


「平蔵殿」


竹千代の声は、これまでのどの時よりも、静かで、しかし確かな重みを帯びていた。


「先ほどの極み……あれは、わたし一人の力では、決して至れなんだ境地にございます。捻り突きも、薙ぎ払いも、摺り足連携も、旋風槍の理も、流水柔の理も、その一つひとつの根に、平蔵殿の教えがございます。この槍の道すべての、真の創始者は平蔵殿にございます。……どうか、この技、平蔵殿のお名を冠していただきたく存じます」


その申し出に、平蔵はしばし絶句した。だが、目を閉じ、深く息を吐いた後、ゆっくりと目を開けた。


「……竹よ。儂は、お主のその心根に、幾度となく胸を打たれてきた。じゃが、今回ばかりは、違う考えを持っておる」


平蔵は竹千代の肩に、節くれ立った手をそっと置いた。


「儂はきっかけを与えたに過ぎぬ。それを至極の境地にまで昇華させたのは、他ならぬお主自身の才と、たゆまぬ精進であった。儂の名を冠すれば、それはお主の成し遂げたことを、儂が横取りするようなものじゃ。……儂の名は、もう十分に刻まれておる。お主の心の中に、な。それで十分よ。この槍は、竹千代、お主自身の名で呼ばれるべきじゃ。『竹千代流』とでもすればよかろう」


竹千代は、その言葉に胸を突かれた。だが顔を上げたとき、先ほどまでの重厚な佇まいは、いつの間にか、年相応の照れ隠しの表情へと変わっていた。


「平蔵殿……そのお心遣い、まことにありがたく存じます。じゃが……その『竹千代流』というのは、いささか、可愛らしすぎるのではと……童の遊びの延長のような響きがいたしまして……ちと、恥ずかしゅうございます」


平蔵は一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐに堪えきれぬように吹き出した。


「ぶはっ。先ほどまでの神妙な顔つきは、いずこへ行ったのじゃ」


平蔵は肩を震わせて笑い続けた。武芸者としての深い矜持を語っていた弟子が、一転して名前の響きを気にして照れる。その落差が、たまらなく愉快だったのだろう。


「はっはっは。よかろう、よかろう。ならば、共に考えるとするか」


「お主の武芸の本質は、流れる水のごとく途切れず、逆らわず、されど確かに敵を制することにある。ならば『明鏡止水』はどうじゃ」


「明鏡止水……美しい響きにございますが、少々仰々しいような」


「では、もそっと素朴なものはどうじゃ。『水鏡の型』とか」


「水鏡……悪くはございませぬが、まだしっくりきませぬ」


二人は夕暮れの稽古場で、あれこれと候補を出し合いながら、しばし穏やかな時を過ごした。堅苦しい師弟の指導ではなく、まるで悪戯を企む友人同士のような、和やかな空気がそこにはあった。


竹千代は、二人で出し合った候補をもう一度、頭の中で反芻した。少し考え込んだ後、ぱっと顔を上げた。


「平蔵殿、やはり『流水の理』を軸にしたものがようございます。最初に平蔵殿がわたしの型を評して『流水のようであった』と仰ってくださった、あの言葉が、わたしにとって何よりの誇りにございますゆえ。『流水無形』。形無きがゆえに、あらゆる形に応じる。遠間なれば旋風と化し、中間なれば穂先の理となり、至近なれば身一つの流れとなる。この名が、一番しっくりくるように思います」


平蔵は、その名を口の中で幾度か繰り返し、深く頷いた。


「うむ、悪くない。いや、良い。形無きがゆえに、あらゆる形に応じる。それはまさに、お主の武芸そのものじゃ。よかろう。今日より、お主の武芸体系は『流水無形』と名乗るがよい」


竹千代は歩みを止め、平蔵の方へ向き直った。


「平蔵殿。この『流水無形』は、平蔵殿もまた、名乗っていただきとうございます。わたし一人が名乗るものではございませぬ。平蔵殿が、この理の礎を築いてくださったのですから、二人で歩む道の名にございます」


平蔵は、しばし言葉を失ったように竹千代を見つめていたが、やがて深く、静かに頷いた。


「……相分かった。この老いぼれの晩年に、まさかそのような栄誉を賜ろうとはな。良かろう、儂もまた、『流水無形』の名を胸に刻もう」


その夜、館の広間には、家族全員が顔を揃えていた。竹千代は、旋風槍の着想から流水柔の会得、それらを統合した流水無形の完成までの経緯を、生き生きとした口調で語った。


弥左衛門は腕を組み、感嘆の声を漏らした。


「遠間、中間、至近、すべてに応じる武芸とは。竹よ、お主はまこと、儂の想像を遥かに超えていく」


お蘭は涙ぐみながら、竹千代の手を取った。


「怪我はないのですね。よかった、本当によかった」


母の第一の関心は、常に息子の身の安全にある。その変わらぬ愛情に、竹千代は胸が温かくなるのを感じた。


松丸は、笑いながら竹千代の肩を小突いた。


「儂もいずれ、稽古をつけてもらわねばならぬな。弟に稽古を乞う兄とは、些か情けない話じゃが」


その言葉に、広間全体がどっと笑いに包まれた。囲炉裏の火が、家族全員の顔を暖かく照らし出していた。平蔵もまた、その輪の中で、静かな、しかし深い満足の笑みを浮かべていた。


翌朝、竹千代はふと気づいた。旋風槍の着想から流水無形の完成まで、幾月もの間、自分は槍と組討ちのことばかりに意識を向けていた。その間、家の中では何が起きていたのだろうか。竹千代は改めて、館の中をゆっくりと見て回ることにした。


まず訪れたのは、父・弥左衛門の書院だった。文机には帳面が幾冊も積まれている。竹千代がそっと目をやると、井堰改修以降の収穫高、年貢の納め、そして今川方への軍役供出の記録が、几帳面な筆致で綴られていた。数字を追う限り、阿久居家の蔵は確かに以前より潤っている。だが、軍役の欄には、以前より頻度を増した徴発の記録が見て取れた。三河をめぐる情勢が、着実に緊迫の度を増していることが、その帳面から静かに伝わってきた。


台所を覗くと、母・お蘭が味噌を仕込んでいた。以前より米櫃には確かな余裕があり、囲炉裏端には干し柿や塩引きの魚が吊るされている。お蘭は竹千代の姿に気づくと、優しく微笑んだ。


「ようやく落ち着いたのですね、竹。近頃はずっと稽古場に籠りきりでしたから」


その一言に、竹千代は少し申し訳なさを感じた。武芸の探求に夢中になるあまり、家族との何気ない時間を疎かにしていたのではないか、と。


母屋の一角では、松丸が父に代わって近隣の郷士との折衝記録を整理していた。元服を終え、家督継承への実務経験を積む兄の表情には、以前よりも確かな責任感と落ち着きが宿っていた。厩に足を運ぶと、老いた馬が一頭、静かに藁を食んでいる。武具庫を覗けば、手入れの行き届いた甲冑や刀がいくつか並んでいたが、その数は決して多くない。今川方からの軍役供出の要求が増えれば、この乏しい武具でどれだけの人数を動員できるのか、竹千代は内心で静かに算段を巡らせた。


村に目を向けると、井堰の恩恵を受けた田畑は、冬支度を終えて静かに雪を待つばかりとなっていた。村人たちの表情にも、以前のような困窮の影は薄れている。だが、豊かさは時に周囲の目を引く。今川方の目付役に名を控えられたあの一件を思えば、この平穏がいつまで続くかは、決して楽観できるものではなかった。


竹千代は、台所で見た米櫃や干し柿を思い出しながら考えた。武芸の探求にかまけて、家族に何か直接的な形で報いることを、しばらく忘れていたように思う。ならば、この磨き上げた技を、家族のために役立ててみせようではないか。


三河の山野には、冬を前にして田畑を荒らす猪や、里近くまで出没する鹿が少なくない。竹千代の脳裏に、旋風槍の使い道が閃いた。


「平蔵殿、旋風槍の腕試しに、山で害獣を狩ってみとうございます。獲物があれば家族への何よりの土産にもなりましょう」


平蔵は少し驚いた顔をしたが、すぐに得心したように頷いた。


「なるほど、的が動かぬ藁人形とは違い、生きた獣を相手にするのは良い修練になろう。じゃが、猪は侮れぬ。手負いにでもなれば、突進してくる。儂も同行しよう」


二人は裏山の奥、村人たちが猪道と呼ぶ獣道の近くに身を潜めた。冬枯れの木立の間から、白い息を殺しながら、竹千代はじっと気配を探る。しばらくして、下草を踏み分ける音と共に、大柄な猪が姿を現した。竹千代は静かに槍を構え、助走のための最初の一歩を踏み出す機を計った。


獣の横腹がこちらを向いた瞬間、竹千代は地を蹴り、腰の捻転から生まれる力の全てを一本の槍に乗せて、投じた。風を切り裂く音と共に、槍は正確に猪の急所を捉え、深々と突き刺さった。猪は短く鳴いて数歩よろめいたが、それ以上動くことはなかった。


「見事な一投じゃ。しかも急所を的確に捉えておる」


平蔵は猪の傍らに膝をつき、慣れた手つきで刃物を取り出した。


「儂も若い頃は、猟師の真似事もしたものよ。獣は、仕留めてすぐに血抜きをせねば、肉が臭くなる。まずはここじゃ」


平蔵は猪の喉元を的確に裂き、血を抜いていく。竹千代は、その一連の動作を食い入るように見つめた。前世の記憶にある食肉処理の知識は、あくまで衛生管理や流通の観点からのものであり、こうした山野での実践的な手順とは異なる部分も多い。竹千代は素直に、平蔵の経験に基づく手際を学ぼうとした。


「腹を裂く際は、内臓を傷つけぬよう気をつけよ。胆嚢や腸を破れば、肉全体が汚れてしまう。この冬場は、肉は塩をまぶして軒先に吊るせば、しばらくは保つ。皮は、なめせば防寒着や敷物にもなろう。無駄にするところは、ほとんどないのじゃ」


竹千代は頷きながら、平蔵の言葉を一つひとつ胸に刻んだ。獣一頭を仕留めることの意味、それは単なる狩猟の成果ではなく、命をいただき、その全てを余すことなく生かすという、この時代の民が当たり前に持つ知恵と敬意の表れだった。


二人は手分けして猪を解体し、背負い籠に収めた。夕闇が迫る山道を、竹千代は重い荷を背負いながらも、不思議な充実感を胸に、平蔵と共に館への道を辿った。


「今宵は、良い夕餉になりそうじゃな」


夕闇に染まる館の門をくぐると、竹千代は背負い籠を揺らしながら、少し息を弾ませて母屋へと駆け込んだ。


「ちちうえ! ははうえ! 見てくだされ! 猪を仕留めましてございます! 平蔵殿と共に、裏山で!」


弥左衛門は目を丸くし、それから籠の中の見事な肉塊を見て、感嘆の声を漏らした。お蘭は驚きと安堵の入り混じった表情で駆け寄り、竹千代の全身を確かめるように見た。


「怪我はありませぬか。危ないことを」


「平蔵殿が同行してくださいましたゆえ、大事ございませぬ」


平蔵が横から補足するように頭を下げた。


「奥方様、若様の腕前は確かなものにございます。危なげなく、見事な一投にて仕留められました」


竹千代は、この機を逃すまいと、少し姿勢を正して切り出した。


「ちちうえ、ははうえ。この技、これからも役立てとうございます。たまに、こうして山へ出て、獲物を狩ってきてもよろしいでしょうか。無論、平蔵殿と共に、無理のない範囲で」


弥左衛門とお蘭は、顔を見合わせた。父の目には、息子の新たな才への誇らしさと、それでもなお拭いきれぬ一抹の心配が浮かんでいた。


「良かろう。ただし、必ず平蔵と共に、無理のない範囲でのことじゃ。獣は時に人の命をも奪う。決して驕らず、慎重にな」


お蘭も、渋々ながらも頷いた。


「平蔵殿が付いてくださるなら。ですが、少しでも危ういと思えば、すぐに戻ってくるのですよ」


竹千代は深く頭を下げた。


「かたじけのうございます。必ず、お約束を守りまする」


その夜、囲炉裏には猪肉の煮える良い匂いが立ち込め、家族全員が久方ぶりの馳走を囲んで、賑やかな夕餉のひとときを過ごした。窓の外では、静かに雪が降り始めていた。この平穏がいつまで続くか、竹千代にはまだ知る由もない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。