第八話 面が割れる
一
夏の盛り、阿久居郷にひとつの報せが届いた。隣接する今川方の支城、拳母城下で氏神を祀る夏祭りに合わせ、地侍・郷士の子弟が己の武芸を披露する「奉納組太刀」が催されるという。
拳母は三河でも今川の支配が特に色濃い土地柄で、城下には物見高い商人や旅の武芸者までもが集まり、祭りの日は普段の何倍もの人でごった返すという。奉納組太刀はその祭りの目玉であり、氏神への奉納という体裁を取りながら、実のところは近隣の郷士・地侍の子弟たちが一堂に会し、腕前を競い合う晴れの場であった。表向きは神事だが、その実態は、今川家が三河の在地武士から有望な人材を見出す品定めの場に他ならない。目付役と呼ばれる今川家配下の武士たちが観覧席の一角に陣取り、扇子片手に子弟たちの太刀筋を値踏みしているという噂は、阿久居郷にも既に伝わっていた。
出場するのは、多くが十二、三から十五、六の元服を控えた少年たちで、竹千代のようにまだ前髪を残す幼い子供はごく少数だという。父・弥左衛門がこの話を持ち帰った時、館の中には静かな緊張が走った。出れば否応なく今川の目に留まる。出なければ、それはそれで臆病者との評判が立ちかねない。郷士という立場は、常にこうした綱渡りの上に成り立っていた。
「竹よ、出てみるか」
父・弥左衛門は複雑な表情でそう切り出した。息子の才を誇りたい親心と、あまりに人目を引けば今川方に目をつけられ、軍役や人質同然の召し抱えを強いられかねないという郷士としての警戒心。その両方が、皺の刻まれた顔に浮かんでいた。
竹千代自身、平蔵と築き上げた「流水槍」を、実戦の緊張感の中で試したいという純粋な欲求があった。だが同時に、あまりに圧倒的な技を見せつければ、十歳の童にしては出来すぎているという不審の目を、今度は村の外、今川という巨大な権力機構に向けて曝すことにもなりかねない。
(……出るなら、出るで良い。ただし、出過ぎぬこと。父上のお顔を潰さぬ程度に、な)
二
祭りの当日、拳母城下の土俵は、幟旗と篝火に囲まれ、蒸し暑い夏の空気と観衆の熱気とが入り混じっていた。竹千代が控えの列に並ぶと、周囲の少年たちの中には、既に元服を済ませ月代を剃った者、腰に立派な脇差を佩いた者の姿も見える。皆一様に、稽古槍を握る幼い竹千代へ値踏みするような視線を投げてよこした。
控えの列からちらりと観衆を見渡すと、父と平蔵の姿はすぐに見つかった。だが、松丸の姿はどこにもなかった。用があって来られなかったのか、それとも来なかったのか。竹千代はそれ以上考えることをやめ、静かに槍を握り直した。
竹千代は木刀を模した稽古槍を手に土俵へ進み出た。相手は五つ年上、体格で頭一つ大きい少年だった。名を聞けば近隣の地侍の三男とのことで、腰の据わった構えと、木刀を軽々と振り回す膂力には、年季の入った稽古の跡が窺えた。少年は幼い竹千代を一瞥すると、口の端に侮りとも取れる笑みを浮かべた。周囲の観衆からも、体格差を見て取ってか、失笑にも似たどよめきが漏れる。
行司役の合図と共に、少年は間合いを詰めるより先に、大上段からの一撃を叩き込んできた。力任せの、しかし決して軽んじてよい速さではない一撃だった。竹千代は摺り足でわずかに半身をずらし、紙一重でその軌道を外す。木刀が空を切る音が、竹千代の耳元をかすめた。
少年の目の色が変わった。侮りが警戒に変わる、その一瞬を竹千代は見逃さない。捻り突きで踏み込み、相手の初太刀が振り抜かれた直後の隙、腕がまだ戻り切らぬその刹那を狙って、木刀の切っ先を喉元すれすれに突き入れる。少年は慌てて身を捩り、辛うじてそれをかわしたが、体勢は大きく崩れていた。
崩れた体勢を見逃す竹千代ではない。流れるように薙ぎ払いへ転じ、相手の得物を下から掬い上げるように弾き飛ばす。乾いた音を立てて、少年の木刀が宙を舞い、土俵の外へと転がり落ちた。
一切の力みなく、水が岩を避けるように流れる竹千代の型に、観衆はしばし声を失った。先ほどまでの失笑は、いつの間にか静まり返った沈黙に取って代わっている。少年は呆然と、自らの手にもう得物がないことを見つめ、やがて悔しさを滲ませながらも深く頭を下げた。竹千代もまた、静かに槍を引き、相手へ一礼を返す。勝ち誇るような素振りは、あえて見せなかった。それこそが、平蔵から学んだ武芸者としての礼であり、また、目立ちすぎぬための処世でもあった。
三
その夜、竹千代は父の部屋を訪ねた。行灯の灯りが、疲れの色濃い弥左衛門の顔を照らしている。今川方目付役の一件を、平蔵から既に聞かされているのだろう。父の眉間には深い皺が刻まれていた。
「ちちうえ」
竹千代は框に座り、まっすぐに父を見た。子供らしい甘えた声ではなく、しかし十歳の童らしい素朴さも失わない、絶妙な間合いで切り出す。
「わたしは……今日のようなこと、これからも出とうございます。槍を振るうのは楽しゅうございますし、平蔵殿に恥をかかせとうもありませぬ。……ですが」
竹千代は一度言葉を切り、父の反応を窺った。弥左衛門は腕を組んだまま、じっと息子を見つめている。
「ですが、ちちうえがお困りになることは、したくありませぬ。今日、目付役とやらに名を控えられたと聞きました。これが阿久居の家にとって、良くないことなのですよね……。わたしは、何も分かっておりませぬ。ちちうえにとって、どうするのが一番都合が良いのか、教えてくださいませぬか」
これは演技ではなかった。少なくとも、演技の皮を被った本音だった。竹千代は前世の記憶から、戦国の権力構造が個人の武勇よりも家の存続と立ち位置を優先することを痛いほど理解している。だからこそ、己の欲、槍を振るいたい、実力を試したいという純粋な欲求を、父という家長の判断の下に、あえて委ねてみせたのだ。
弥左衛門は、しばし絶句したように竹千代を見つめていた。やがて、深いため息と共に、頬が僅かに緩んだ。
「……お主は、時折、恐ろしいほど大人びたことを言う。じゃが、その物言いは、決して悪いものではない」
父は行灯の灯りを見つめながら、静かに語り始めた。
「今川方に名が知れたこと自体は、もう覆せぬ。ならば、儂が考えるに大事なのは『出過ぎず、されど隠れもせず』という按配じゃ。次に声がかかった時、あからさまに拒めば何か隠しておるのではと勘繰られる。かといって、二つ返事で応じれば、お主を人質同然に取られかねぬ」
弥左衛門は行灯の灯りに目を細めながら続けた。
「儂が窓口として立つ。今川方から何ぞ言うてきたら、まず儂が話を聞き、家として応じられる形、例えば『まだ元服前ゆえ』『家の跡目のこともあり』と、時を稼ぐ理由はいくらでも作れる。お主は、儂が良しと言うた時にだけ、槍を振るえばよい」
竹千代は深く頭を下げた。
「畏まりました、ちちうえ。すべて、ちちうえのお指図に従いまする」
四
翌朝から、竹千代の稽古には新たな熱が籠るようになった。ただし、その熱は決して盲目的なものではない。平蔵から学んだインターバル鍛錬法を厳格に守り、朝の涼しい刻限に集中して型を反復し、日中は手習い所の指導や村の様子見に充て、夕刻にまた短く槍を振るう。過労という敵を制御下に置いたまま、質を高める鍛錬へと軸足を移していった。
平蔵もまた、教えることはないはずの型に、なお付き合い続けた。師として教えるのではなく、一人の武芸者として立ち合いの相手を務めるという形で。
「今日は儂が本気で参るぞ、竹」
平蔵が木刀を構えると、その眼光には老いてなお衰えぬ古強者の凄みが宿った。竹千代は摺り足で間合いを計り、捻り突きで牽制し、平蔵の重い一撃を紙一重でいなす。何度も何度も、夕陽が沈むまで二人は打ち合った。こうした中で、竹千代は自らの流水槍にまだ粗さが残ることに気づき始めていた。特に、薙ぎ払いから次の摺り足へ移る継ぎ目に一瞬の隙が生じることを、平蔵の的確な一撃が何度も証明してみせた。
五
数ヶ月が過ぎ、稲穂が実りを迎える頃、阿久居郷にひとつの早馬が到着する。今川家の使者を名乗る一行が、拳母の目付役の名代として、阿久居弥左衛門への面会を求めてきたのだった。
館内には緊張が走った。父・弥左衛門はすぐさま裃を改め、上座の準備を命じる。竹千代は台所の陰から、母お蘭と共にその様子を窺っていた。
「竹よ、今日のところは奥に控えておれ。儂が話をつける」
弥左衛門の声には、以前のような不安の色は薄れ、代わりに家長としての覚悟が滲んでいた。竹千代は静かに頷き、平蔵と共に別室で控えることとなった。
奥座敷の襖一枚を隔てた向こうから、遠く低い話し声が漏れ聞こえてくる。竹千代は膝を揃えて座り、平蔵はその傍らで腕を組んだまま、じっと気配を殺していた。片目の古傷が、行灯の灯りに時折鈍く光る。
「平蔵殿」
竹千代は、ぽつりと呟くように言葉をこぼした。子供らしい、しかし本物の不安が滲む声だった。
「ちちうえ、お困りになっておられぬでしょうか。わたしのせいで、あのような使者が参ることになったのですから」
平蔵は、しばし黙したまま襖の向こうへ目をやっていたが、やがて低く、しかし力強い声で応じた。
「案ずるな。弥左衛門様は、若い頃から今川の家中とも、松平の残党とも渡り合うてきたお方じゃ。口先の駆け引きでは、そこいらの使者風情に後れは取らぬ」
平蔵は竹千代の方へわずかに顔を向け、片目に穏やかな光を宿した。
「それに、お主があの晩、弥左衛門様にすべてをお任せすると申したであろう。あれで、弥左衛門様の腹は据わったのじゃ。息子が己を家長として立ててくれた、その心が、あのお方の背筋を伸ばしておる。案ずるべきは、お主が思うほど多くはない」
竹千代は俯いていた顔を、静かに上げた。
「……はい」
半刻ほどが過ぎた頃、ようやく客間の方で人の動く気配がし、使者一行が辞去する足音が遠ざかっていった。
「待つというのも、武芸のうちじゃ」
平蔵がぽつりと言った。
「猪武者は、間合いを待てずに斬り込んで、己から死地に飛び込む。真に強き者は、機が満ちるまで、静かに息を潜められる」
竹千代は小さく頷いた。それは槍の理でもあり、この乱世を生き抜くための処世の理でもあるのだろう。
六
やがて廊下に足音が響いた。母・お蘭が襖越しに声をかける。
「竹、平蔵殿。旦那様がお呼びです。母屋の書院へ」
書院に入ると、弥左衛門は脇息にもたれかかるようにして座っていたが、竹千代たちの姿を見ると、疲れた顔にどこか安堵したような笑みを浮かべた。
「待たせたな。竹、平蔵、そこへ座れ」
弥左衛門は湯呑みの白湯を一口含み、ゆっくりと語り始めた。
「今川の使者、あれは拳母城の目付役の名代でな。単刀直入に申せば、竹、お主を今川様の直臣、あるいは近習として召し抱えたい、という打診であった」
その一言に、竹千代の背筋にひやりとしたものが走った。恐れていた事態が、ついに現実の言葉となって突きつけられたのだ。竹千代は膝の上で拳を握りしめたが、表情には出さず、ただ静かに父の次の言葉を待った。行灯の灯芯が微かに爆ぜる音だけが、書院に響いていた。
「儂はな、竹。即答は避けた。『倅はまだ十歳、元服前の身。家の跡目のこともあり、軽々にお答えできる立場にはございませぬ』と、まずはそう申し上げた」
父の声は落ち着いていたが、その奥に張り詰めた緊張があった。
「使者殿は、それでも食い下がってきた。『元服を待たずとも、近習として召し出す例は珍しゅうない。むしろ若きうちから仕えれば、将来の立身も約束されたも同じ』とな。……向こうも、一筋縄ではいかぬ相手であった」
弥左衛門は一度、竹千代の顔をじっと見つめた。
「儂は、こう申した。『倅の武芸、そしてこの度の井堰の一件、今川様のお目に留まったこと、阿久居家として身に余る光栄に存じまする。されど、倅はまだ幼く、また兄・松丸もおり、家督のことも定まっておりませぬ。何とぞ、元服の後、しかるべき折に改めてお話をいただければ』とな」
父はそこで一度言葉を切り、静かに付け加えた。
「これは、突っぱねたわけではない。だが、はいそうですかと差し出したわけでもない。……時を稼いだ、というのが正しかろう。使者殿も、最後には『しからば、しかるべき折に』と、ひとまず引き下がってくれた」
弥左衛門は深く息をつき、竹千代をまっすぐに見た。
「竹よ、これは先延ばしにしたに過ぎぬ。二年、三年のうちには、また同じ話が来よう。その時、お主自身がどうしたいか、それを、これからゆるりと考えておくがよい。今川に仕えて名を上げるのも一つの道じゃ。じゃが、それがこの家にとって、そしてお主自身にとって、真に良き道かどうかは、儂にも分からぬ」
竹千代は正座したまま、父の目をまっすぐに見返した。声は十歳の子供のものでありながら、その言葉の芯には、揺るぎない静かな覚悟が宿っていた。
「ちちうえ。わたしは、今川様に仕えることそのものが、良いとも悪いとも思うておりませぬ。わたしにとって大事なのは、ちちうえ、ははうえ、あにうえ、そして平蔵殿が、これからも安んじて、豊かに暮らせるかどうか、それだけにございます」
書院に、しんと静寂が満ちた。竹千代は続けた。
「今川様の元へ上がることで、この家が守られ、皆が飢えずに済むのであれば、わたしは喜んでその道を選びまする。逆に、あにうえがこの家を継ぎ、わたしがそのお支えとして生きる道の方が、皆にとって良いのであれば、それもまた良し。……あるいは、まったく違う道であっても構いませぬ。わたしは、己一人の出世や誉れのために生きとうはございませぬ」
その言葉に、真っ先に反応したのは平蔵だった。隻眼の古強者は、片手で口元を覆い、何かをこらえるように俯いた。
弥左衛門は、しばし言葉を失っていた。行灯の灯りに照らされた父の顔には、驚きと、それを上回る深い感動が浮かんでいる。
「……竹よ。お主は、齢十歳にして、儂よりもよほど当主らしいことを申す」
父はそう言うと、静かに目頭を押さえた。武士として人前で涙を見せることは恥とされる世にあって、それでも隠しきれない情が滲み出ていた。
「良い。良いぞ、竹。……その心があれば、お主がどの道を選ぼうとも、儂は案じまい。この阿久居の家は、お主のような子を持てたことを、心から誇りに思う」
七
竹千代は、先ほどまでの落ち着いた物言いから一転、急に頬を赤らめてもじもじと身をよじらせた。十歳の童らしい、飾らない照れくささが顔に滲む。
「あの……ちちうえ」
竹千代は指先で袴の裾を弄びながら、上目遣いに父を見た。
「今のこと、あにうえにもお伝えせねばと思うのです。あにうえは、いずれ家督を継がれるお方ゆえ、わたしの心づもりも知っておいていただかねば。……ですが」
そこで一度言葉を詰まらせ、耳まで赤くしながら続けた。
「わたしから直に、あにうえに『家族のために生きる』などと申すのは、その、なんと言いますか、気恥ずかしゅうて。ちちうえと、ははうえと、平蔵殿にも、その場に居ていただけませぬか。皆で一緒に、あにうえにお伝えしていただければと」
弥左衛門は、その様子に思わず相好を崩した。先刻までの、当主も顔負けの大人びた発言をしていた息子が、一転して年相応に恥じらう姿を見せたことに、父としての愛おしさがこみ上げてきたのだろう。
「良かろう。……ならば近いうちに、皆で膳を囲む席でも設けようか」
竹千代はほっとしたように頷きながらも、その胸の奥では、まだ見ぬ兄の反応を思い、小さな不安の種を抱え続けていた。




