第七話 流水の名
一
天文二十四年、春。阿久居郷には、久方ぶりの静けさが訪れていた。
井堰の完工から、はや半月が過ぎている。朝靄の中、竹千代は館の縁側に立ち、田へと続く水路を眺めていた。堰から溢れ出す水は、もう濁った泥水ではない。澄んだ流れが幾筋にも分かれ、乾いてひび割れていた畦道の隅々にまで、生き物のように染み渡っていく。年貢と軍役供出のために既に目減りしている米俵の陰で、いつも肩を落としていた父・弥左衛門の背が、この半月でわずかに伸びたように見えるのは、気のせいではないだろう。
竹千代はふと、己の名を胸の内で呟いた。(竹千代……この名がいつか何を意味するのか。いや、まだ知らぬままでよい。今はただ、この流れを守るだけで)
「竹よ」
振り向くと、片目に古傷を刻んだ郷田平蔵が、木刀を肩に担いで立っていた。祝宴の夜、初めて名を呼ばれたあの瞬間から、平蔵の眼差しには以前のような値踏みするような険がなくなっている。
「今日はもう、見てやることもあるまいよ。今の型に、儂の口を挟む隙はなさそうじゃ」
その言葉に噓はなかった。だが同時に、平蔵の目の奥にはまだ別の色があった。竹千代の躰の奥に潜む、底知れぬ何かへの畏怖。それは消え去ったわけではなく、信頼という名の器の中に、静かに沈められただけなのだと、竹千代自身がよく分かっていた。
母・お蘭は台所で麦を挽きながら、時折こちらを見ては目を細める。乳母のお妙は洗濯物を抱えて忙しく立ち働き、兄・松丸は納屋の陰で自らの太刀筋を黙々と磨いている。誰もが、この束の間の平穏を噛みしめていた。
二
だが竹千代は知っている。三河という土地が、今川・織田・松平という三つの巨大な力の狭間に挟まれた、極めて危うい均衡の上に成り立っていることを。前世の記憶を辿れば、今川と織田の睨み合いは、あと数年もすれば桶狭間とかいう地で決着を見るはずだ。もっとも、それがいつ、どのような形で我が身に降りかかってくるかまでは、竹千代にも分からない。郷士の子として、いずれは元服という不可逆な変化を経て、戦場に出ることも避けられないだろう。
(……そろそろ、のんびりもしておれぬか)
朝餉の席で、父・弥左衛門が珍しく改まった声で切り出した。
「竹よ、松丸も。近頃、今川様の軍役の触れが、また一段と重うなってきておる。年貢の取り立ても、隣国の動きも……この阿久居も、いつまでも堰の恵みだけに浮かれてはおられぬ」
弥左衛門の声には、安堵と緊張の両方があった。井堰は救ってくれた。だが戦国の世そのものが、これで穏やかになったわけではない。むしろ豊かになった村ほど、周囲の目を引き、狙われやすくなる。それもまた、竹千代が前世の知識と、この八年間の経験から痛感していることだった。
三
夏に入ると、竹千代は日課の稽古量を静かに、しかし着実に引き上げていった。かつて過労で倒れた苦い記憶がある。手のひらの血豆が潰れ、母が烈火の如く叱責したあの夜だ。その教訓から、平蔵直伝の「三度振って、休み、また三度」というインターバル鍛錬法を厳格に守りながら、朝は明けやらぬうちに裏庭へ出て、夕は星が瞬くまで穂先を振り続けた。
汗が肌着に染み込み、真冬には吐く息が白く凍りつく中でも、竹千代の稽古は途切れなかった。ただし、それは狂気じみた反復ではない。前世の運動生理学の知恵、超回復の理論や筋繊維の休息サイクルを無意識に応用し、休む勇気もまた鍛錬の一部と心得ていた。それでもなお、二年という歳月の重みは軽くはない。ある冬の夜、稽古の切り上げ時を見誤り、指先の感覚が失われるほど槍を振り続けてしまったことがあった。翌朝、微熱と気だるさに見舞われ、母お蘭に「無理はならぬと、あれほど言うたであろう」と涙ながらに叱責される一幕もあった。傍らでお妙は、叱る言葉ひとつ持たぬまま、竹千代の赤く腫れた指先を桶の湯で無言のうちに冷やし続けていた。その温もりだけが、叱責の後に残った気まずさをそっと溶かしてくれた。
平蔵は、竹千代の捻り突き、薙ぎ払い、摺り足連携が、二年の歳月を経てさらに研ぎ澄まされていく様を、もはや師としてではなく、一人の武芸者として畏敬の目で見守った。ある夕暮れ、竹千代が三つの技を淀みなく連結させ、円弧の軌道の果てに静止したとき、平蔵は長い沈黙のあと、こう漏らした。
「……儂は、お主に何も教えられることがのうなった。あとは、お主自身の道じゃ」
その言葉には、誇らしさと、一抹の寂しさが同居していた。
四
夕暮れ時、竹千代は稽古着のまま平蔵の詰所を訪ねた。手には、二年の歳月をかけて磨き上げた愛槍。言葉は少なかった。
「平蔵殿。……見ていただきたいものがございます」
平蔵は片眉を上げたが、何も問わずに立ち上がり、庭先へと竹千代を促した。夏の名残の蜩が鳴く中、竹千代は静かに槍を構えた。
摺り足が土を撫でるように滑り、腰の捻転が穂先へと伝わる捻り突き。そこから途切れることなく、遠心力を活かした薙ぎ払いへと繋がり、さらにその軌道の反動を利用して次の摺り足へ。三つの技が、もはや別々の型ではなく、一つの流れとして竹千代の躰から解き放たれていく。夕陽を浴びた穂先が幾筋もの残光を宙に描き、最後は静かに、まるで水面が凪ぐように静止した。
長い沈黙があった。平蔵は腕組みをしたまま、瞬きすら忘れたように立ち尽くしていた。
五
竹千代はゆっくりと槍を引き、地面に膝をつき、深く頭を垂れた。
「この型は……平蔵殿がいなければ、生まれませんでした。剣の理を、槍の理を、そして何より武芸者としての心構えを教えてくださったのは、平蔵殿です。この未だ名もなき型に、どうか名を賜りとうございます」
平蔵の隻眼が、微かに潤んだ。この老武芸者が、これまでの人生で誰かにこれほどまでの敬意を捧げられたことがあっただろうか。彼は長い沈黙のあと、しゃがれた声を絞り出した。
「……儂のような叩き上げの郎党風情に、名付けの栄誉とはな。柄にもない」
そう言いながらも、平蔵の口元には隠しきれない喜びがあった。彼は夕空を仰ぎ、竹千代の型を、摺り足の静けさ、突きの鋭さ、薙ぎの雄大さを、脳裏に反芻するように目を閉じた。
「水のようであった。留まらず、途切れず、されど静と動を併せ持つ……。竹よ、この型、『流水槍』と名付けよう。お主の躰が描いた、水の理そのものじゃ」
六
竹千代は再び深く頭を垂れた。今度は、無言ではなく、はっきりと声にして。
「……ありがとうございます、平蔵殿」
平蔵は竹千代の肩に、節くれ立った手をそっと置いた。
「儂の弟子は、儂を超えて、なお儂を立ててくれる。これ以上の果報があろうか」
ふと、竹千代は生垣の向こうに目をやった。人影がひとつ、足早に納屋の方角へと遠ざかっていく。松丸の背中だと分かるまでに、さして時はかからなかった。声をかけるより先に、その姿は夕闇に紛れて見えなくなった。ただ、固く握りしめられていたらしい拳の形だけが、竹千代の目の奥に残像として焼きついていた。
風が裏庭の木立を抜け、蜩の声が一段と高くなった。竹千代は槍を握り直し、まだ見ぬ何かが、この静けさの向こうで待ち構えているような、そんな予感を胸の奥にそっと仕舞い込んだ。




