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三河の片隅で、家族を守る――その名はまだ誰も知らない  作者: 可可多


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第六話 面を上げよ、竹千代

逸る心を抑え、竹千代はいつも通りの日々へと戻っていった。朝は槍を振り、捻り突き、薙ぎ払い、そして摺り足を絡めた一連の型を、平蔵から授かった緩急のリズムを守りながら丹念に磨き上げる。昼は手習い所で算術に励み、仲間たちに時折教えを乞われながら、自らの理解もまた深めていった。


その規則正しい生活の裏で、館の外では着々と準備が進められていた。弥左衛門は木材商人と掛け合い、平蔵は人足候補たちへ正式に声をかけて回り、お蘭は工事に赴く者たちへ配る握り飯の算段を立てていた。竹千代が積み上げてきた幾つもの伏線が、一つ一つ現実の形へと組み上がっていく様を、竹千代は日課の合間、遠目に見守り続けた。


(ふむ。段取りさえ整えば、あとは動くだけよ。……とはいえ、この身では杭一本打てぬのが、なんとももどかしいがな)


やがて雪解けの水が三河の田畑を潤し始める頃、館には慌ただしい活気が満ちるようになった。木杭を積んだ荷車が門前に並び、鍬や縄を手にした人足たちが、朝な夕なに屋敷の周りを行き交うようになる。長かった発案の日々を終え、いよいよ井堰改修は、竹千代の描いた図面が現実の土と水に触れる時を迎えようとしていた。


竹千代は、自らの非力さを承知していた。杭を打つことも、土を運ぶこともできぬ細腕では、現場の役には立てぬ。だが、頭で成す仕事なら、いくらでもできよう。


「ちちうえ、わたしに、しざいと、にんそくのかずをかぞえるやくを、まかせてもらえませぬか」


竹千代はそう願い出て、木杭の本数、縄の長さ、日々の人足の出面を、算盤片手に丁寧に記録する役目を任された。毎朝、現場に届く木杭を一本一本数え、帳面代わりの木片に印をつけていく。人足たちの出欠、休憩の頃合い、作業の進み具合。培ってきた算術の腕が、幼いながらも確かな実務として現場に組み込まれていった。


だが、それを快く思わぬ者もいた。古参の人足の一人、白髪頭の老爺が、竹千代の記録簿を横目に舌打ちした。


「若様が数を数えたところで、堰が早う直るわけでもあるまいに。昔からこうやって、目分量でやってきたのじゃ。小僧に何が分かる」


その言葉には、竹千代への侮りというより、長年の経験に基づく現場のやり方への確かな誇りと、新参の数え方への根深い不信が滲んでいた。竹千代はその視線に一瞬たじろいだが、平蔵が横から「まあ聞いてやれ。存外、役に立つやもしれぬぞ」と取りなし、事なきを得た。


竹千代は老爺の傍らに歩み寄ると、これまでの得意げな態度を一切消し、素直に頭を下げた。


「じさま、めぶんりょうで、ながねんやってきたこと、まことにすごいとおもいまする。わたしのかぞえかたと、じさまのめぶんりょう、くらべさせてもらえませぬか」


老爺は意表を突かれたような顔をしたが、まんざらでもなさそうに鼻を鳴らした。


「ふん……まあ、好きにするがよい」


それから数日、竹千代は老爺の目分量による見積もりと、自らの算盤による記録を、毎日欠かさず突き合わせていった。


「じさまのめでは、きょうはにんそくがじゅうにん」 「わたしのかぞえでは、じゅういちにんと、はんにちのものがひとり」


老爺の長年培った勘は、驚くほど正確であることが多かったが、時に竹千代の細かな記録が、半日だけ働いた者や、資材の微妙な過不足といった、目分量では拾いきれぬ差異を明らかにすることもあった。


「ほう……この木杭の数、儂の勘定より三本多いではないか」


老爺がある日、竹千代の帳面を覗き込んで唸った。確かめてみれば、荷車から降ろす際に紛れ込んでいた予備の杭が、まさにその三本であった。老爺は片眉を上げ、「小僧の数え方、存外に馬鹿にできぬな」と、初めて素直な感心の声を漏らした。


以来、老爺は自らの目分量を語りながらも、竹千代の帳面をちらちらと横目で確かめるようになり、二人の間には、経験と数字が補い合う、奇妙だが確かな協働関係が芽生えていった。現場の人足たちの間にも、「若様の数え方も、なかなか馬鹿にできぬぞ」という評判が、静かに広まり始めていた。


竹千代は毎朝、日課の稽古を終えると欠かさず現場へと足を運び、老爺と共に木杭の本数、人足の出面、資材の消耗具合を丹念に記録し続けた。日を追うごとに、老朽化していた堰の木組みは新しい杭に置き換わり、傾いていた取水口も、竹千代の描いた図面通りの角度へと修正されていく。


雨の日には作業が滞り、資材が思うように届かぬ日には人足たちの間に苛立ちも生まれたが、そのたびに竹千代は老爺や平蔵と共に段取りを組み直し、無理のない範囲で工程を調整していった。かつて過労で倒れた教訓は、竹千代の中に確かな戒めとして根付いており、決して独りで抱え込むことなく、周囲の力を借りながら着実に前進を続けた。


やがて桜のつぼみが膨らみ始める頃、堰の新しい木組みは完成し、水の流れが目に見えて改善された。下流の阿久居側の田には、これまでにない潤沢な水が届くようになり、隣村への分水も約束通り確保された。田を見回った弥左衛門は、満々と水を湛える田を前に、思わず息を呑んだ。


「これは……見事なものよ」


現場に集った人足たちからも、達成感に満ちた歓声が上がった。老爺は、竹千代の肩を武骨な手でぽんと叩き、「小僧、よう成し遂げたな」と、誇らしげに笑ってみせた。竹千代自身、前世の知識が初めて確かな形でこの世界に根付いた瞬間を、深い感慨と共に噛みしめていた。


春の陽射しがようやく力強さを増し始めた頃、堰の完工を祝う、ささやかな宴が催されることとなった。母屋の前庭には筵が敷かれ、乏しい蓄えの中からもお蘭が心を尽くして用意した握り飯や漬物、そして弥左衛門が奮発した濁り酒の樽が並べられた。工事に携わった人足たちは、日焼けした顔をほころばせながら三々五々と集まってきた。


「若様のおかげじゃ、まことに」


老爺は、竹千代に杯代わりの湯呑みを差し出しながら、しみじみと呟いた。


「儂も長う生きてきたが、あそこまで理にかなった普請は、そうそう見たことがない。じゃが、それ以上に、若様が、儂ら年寄りの言うことも、ちゃんと聞いてくださったのが、何より嬉しかったわ」


その言葉に、周りの人足たちも次々と頷き、口々に労いの声をかけてくる。竹千代は面映ゆさに頬を染めながら、それでも一人一人の顔を見つめ、深く頭を下げた。


「みなのちからがなければ、なしえなんだこと。まことに、かたじけない」


弥左衛門は満々と水を湛える田を見渡しながら、傍らの竹千代の肩に手を置いた。


「これで、少なくとも今年の田植えは案じずに済む。竹千代、お主は儂の誇りぞ」


その声に嘘偽りのない実感が籠っているのを、竹千代ははっきりと感じ取った。お蘭は言葉を挟むことなく、ただそっと竹千代の手を握り、幾度も撫でていた。松丸は少し悔しそうな、しかし温かな笑みを浮かべ、「儂も、いつか何か成し遂げねばな」と、竹千代の背をぽんと叩いた。お妙は握り飯を竹千代の手に渡しながら、目に涙を浮かべた。


「若様、本当に大きゅうなられましたねえ」


その一言には、乳飲み子の頃からこの子を見守り続けてきた歳月の重みが、静かに滲んでいた。平蔵は離れた場所から杯を傾けつつ、その様子を静かに、しかし満足げに見守っていた。


夕暮れ時、田に張られた水面が茜色に染まり、そこに人々の笑い声が幾重にも重なって溶けていった。竹千代は前世の記憶と今生の幼い心、その両方でこの温もりを深く胸に刻みながら、遠く三河の空の向こうに広がる、まだ見ぬ乱世の行く末を、静かに見つめていた。


祝宴の熱気も冷めやらぬ夕暮れ、竹千代は誰にも告げず、そっと裏庭へと足を運んだ。手には、これまで幾百幾千と振り続けてきた愛用の槍。堰の完成という大きな節目を経て、竹千代の胸には、これまでにない静かな充実感が満ちていた。


(今なら、あの型が、極まる気がする)


竹千代は静かに構えを取った。夕焼けに赤く染まる空を見上げ、大きく息を吸い込む。腰を沈め、これまで平蔵から学んだ基本、幾度も倒れながら会得した捻り突き、独りで編み出した薙ぎ払い、そして体の奥底から染み出るように身についた摺り足。その全てが、もはや考えることなく、一つの流れとして体の隅々にまで行き渡っていた。


竹千代は、これまでで最も速く、最も鋭く、その一連の型を解き放った。腰の捻転が穂先へと伝わり、円弧を描いて薙ぎ払われた刃風が、夕闇の空気を切り裂く。続く踏み込みと共に繰り出される突きは、まるで一筋の光のように、狙い違わず虚空を貫いた。息を継ぐ間もなく、次の動作、また次の動作へと、途切れることなく連なっていく。


最後の一撃を放ち終えた時、竹千代は肩で大きく息をつきながら、槍を杖のように地に突き立てた。汗が額を伝い、夕日に赤く輝きながら地面に落ちていく。振り返れば、いつの間にか稽古場の隅に、平蔵が腕組みをしたまま、じっとその一連の動きを見つめていた。


「……小僧」


平蔵の声は、これまでのどの言葉よりも、静かで、重みを帯びていた。


「その型、もはや儂の教えられる域を、とうに超えておるな」


竹千代は息を整えながら、夕焼けに染まる空を見上げた。前世で見たどんな景色よりも、今この瞬間の三河の空は、鮮やかに、そして愛おしく、竹千代の目に映っていた。


竹千代は槍を静かに地面から引き抜くと、汗の滲む額も拭わぬまま、平蔵の方へと向き直った。そして、これまでのような子供らしい戯れの態度を一切消し去り、深々と、長く、頭を垂れた。


言葉は、何一つ発しなかった。


この数年、乳児の頃から数えれば実に長い月日、平蔵は竹千代にとって、ただの武芸指南役ではなかった。剣の型を授け、槍の才を見出し、井堰の構想を信じて根回しに動き、幾度もの疑念の淵に立ちながらも、最後まで見放すことなく寄り添い続けてくれた。その全てへの感謝を、幼い言葉ではとても言い尽くせぬと、竹千代は本能的に悟っていた。だからこそ、ただ深く、頭を下げ続けることしかできなかった。


夕闇が次第に濃くなり、稽古場に立ち込める土と汗の匂いの中、竹千代は微動だにせず、その姿勢を保ち続けた。


平蔵もまた、何も言わなかった。


ただ、腕組みを解き、じっとその小さな背中を見つめていた。片目の古傷が、夕闇の中で微かに震えたように見えたのは、あるいは気のせいであったかもしれない。武骨な男の喉の奥から、堪えるような、しかし決して漏れることのない、深い息遣いだけが、静かに聞こえていた。


長い沈黙の後、平蔵はようやく、低く、しかし確かな声で口を開いた。


「……面を上げよ、竹千代」


初めて、「小僧」ではなく、その名を呼んだ。


「儂の方こそ、礼を言わねばならぬ。お主のような弟子を持てたこと、この老いぼれの武芸者冥利に尽きるわ」


その言葉には、もはや疑念の影は微塵も残っていなかった。ただ、師として、そして一人の人間として、竹千代という少年への、掛け値なしの敬意だけがそこにあった。


夕闇に沈んでいく三河の空の下、遠く関所の方角から、今宵もまた、夜警の柝の音が、規則正しく響いていた。竹千代。この名の奥に眠る何かを、まだ誰も知らぬまま。


(完)

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