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三河の片隅で、家族を守る――その名はまだ誰も知らない  作者: 可可多


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第五話 お主は、いったい何者だ

竹千代は自室に籠もり、これまで書き留めてきた幾枚もの木片を囲炉裏端に並べた。堰の断面図、木杭の本数、人足候補たちの得意分野。散らばっていた情報の欠片が、竹千代の脳裏で一つの体系立った計画へと組み上がっていく。


(まず、木杭を打ち直す組と、土手を固める組を分ける。力自慢の者を杭打ちに、木組みに詳しい年寄りを差配役に据え、若い衆を土運びに回す。水を堰き止める間は、田への影響を最小限にせねばならぬゆえ、農閑期のうちに……いや、田植えの時期との兼ね合いも見なければ)


竹千代は木片に、工程を示す粗雑な図を描き起こしていった。誰が何日目にどこで働くか、木杭がどれだけの速さで打ち込めるか、天候による遅延の余地。幼い筆致の向こうに、驚くほど実務的な段取り表が結晶していった。


翌日、その木片を見せられた平蔵は、しばし言葉を失っていた。


「……小僧。これは、儂が陣普請で見てきた差配のやり方と、驚くほど似ておるぞ。いや、人の動かし方に関しては、こちらの方が無駄がない」


平蔵の声には、これまでの武芸における感嘆とはまた違う、実務家としての深い敬意が滲んでいた。弥左衛門にこの段取り表を見せた際も、弥左衛門はしばし絶句した後、静かに、しかし確かな重みを持って呟いた。


「竹千代……お主は、いったい何者なのだ」


その問いに、明確な答えを返せる者は、この場に誰一人としていなかった。


竹千代は父の重い沈黙を前に、しばし俯いていたが、やがて意を決したように顔を上げた。


「ちちうえ。どうやらわたしは……こういうことをかんがえたり、つくったりするのが、とくいなようにございます」


その声は、これまでの得意げな調子とは違い、どこか自分自身を持て余すような、素朴な戸惑いを帯びていた。弥左衛門は無言のまま、次男の顔をじっと見つめ続けている。竹千代は続けて、少し肩を落とし、上目遣いに付け加えた。


「……でも、ゆみは、ぜんぜんうまくなりませぬ……」


その言葉と共に、竹千代の目にはうっすらと涙の膜が浮かんでいた。奇妙な体勢での弓稽古、館じゅうを巻き込んだ滑稽な失態。それらの記憶が、悔しさの滲んだ呟きとして、この重い沈黙の場に不意に差し込まれた。


弥左衛門は、その落差に思わず小さく息を漏らした。張り詰めていた表情が、僅かに緩む。


「……そうか。弓は、まるで駄目か」


「はい……あにうえにも、げらげらわらわれました……」


しょんぼりと肩を落とす竹千代の姿に、弥左衛門はとうとう堪えきれず、低く笑いを漏らした。


「はは……そうか、そうか。何もかもができるわけではないのだな」


その一言と共に、弥左衛門の中に渦巻いていた重苦しい疑念の一部が、確かに解けていくのが見て取れた。ただ底知れぬ怪物のような子ではなく、不得手なことに涙を滲ませる、紛れもない我が子。その実感が、父の胸にゆっくりと染み渡っていった。


竹千代は父の笑い声に、かえってむっとした様子で頬を膨らませた。


「ちちうえ、なぜわらうのですか! ゆみでしゅぱっと、まとをいるのが、かっこいいからじぶんでもやりたいのに!!」


そう叫びながら、竹千代はその場でぶんぶんと地団駄を踏んだ。弓の名手が颯爽と矢を放つ姿への憧れと、それがどうしても叶わぬもどかしさが、幼い体いっぱいに溢れ出しているようであった。


弥左衛門は、その様子にますます笑いを深め、涙まで滲ませながら次男の頭を乱暴に撫でた。


「ふ、ふはは! そう怒るな竹千代。かっこよさと、うまさは、また別のことよ。お主には、お主にしかできぬことがあるではないか」


その言葉に、傍らで様子を見ていたお蘭も、袖で口元を覆いながらくすくすと笑いを漏らしていた。囲炉裏の炭が爆ぜる音と共に、館の一室には、これまでの張り詰めた緊張とは無縁の、実に穏やかで温かな笑い声が満ちていった。


竹千代はなおも頬を膨らませたままであったが、その胸の奥では、父の重かった疑念が確かに解けていく手応えを、幼いなりにしっかりと感じ取っていた。


(ふん、まあ、よい。かっこよさは、いつかきっと、ものにしてみせようぞ)


竹千代は日々の日課に戻り、槍を手に取っては、これまでのように根を詰めすぎることなく、ほどよい加減でイメージトレーニングを織り交ぜていった。捻り突き、薙ぎ払い、そして摺り足を絡めた一連の型を、瞼の裏で丁寧になぞりながら、時に木刀を軽く振って感触を確かめる。過労を招いた苦い経験は、竹千代の中に確かな教訓として根付いていた。


そうして十日ほどが過ぎた頃、平蔵の使いで隣村へ赴いていた弥左衛門が、幾分か疲れた、しかし安堵の色を隠しきれぬ表情で館へと戻ってきた。夕餉の席、弥左衛門は箸を置くと、家族一同を見渡しながら、静かに切り出した。


「……名主との話、まとまった」


その一言に、竹千代は思わず箸を取り落としそうになった。弥左衛門は続けた。


「屋根の木材と、津島の薬師の話を持ちかけたところ、名主はいたく喜んでな。跡取り息子の病、あれは相当に思い悩んでおったようじゃ。堰の改修と分水の件、正式に承知してくれたわ。甚兵衛も、名主の意向とあれば否やはないとよ」


弥左衛門はそこで一度言葉を切り、次男へと視線を移した。その眼差しには、これまでの警戒とは全く異なる、確かな信頼と誇らしさが宿っていた。


「竹千代……お主の集めた話が、家を救うたのやもしれぬぞ」


お蘭は思わず涙ぐみ、松丸も驚いた顔で弟を見つめていた。つい先日まで、ただの甘えん坊の弟だと思っていた。それが今この短い間に、父の信頼をここまで勝ち得ている。その事実が松丸の胸に、誇りと焦りの入り混じった複雑な感情を呼び覚ましていた。囲炉裏の炎が、家族の顔を暖かく照らし出していた。


その夜の阿久居家は、久方ぶりに屈託のない温かさに包まれていた。お蘭は台所に立ち、乏しい蓄えの中から、それでも精一杯の馳走を用意した。塩引きの魚と、普段よりわずかに白い麦飯であった。


「今日ばかりは、ちいとくらい贅沢をしても罰は当たりますまい」


そう言って笑う母の顔は、この数年で見た中でも一等明るいものであった。竹千代はふと気づいた。この笑顔には、あの度重なる銭の心配のため息が、今夜は一つも混じっていない。


弥左衛門は珍しく濁り酒に口をつけ、赤らんだ顔で竹千代の頭を幾度も撫でた。


「よう頑張った、竹千代。お主のおかげで、来年からは田の水争いに頭を悩ませずに済みそうじゃ」


その声には、次男への確かな誇りが滲んでいた。松丸は「儂も、負けてはおれぬな」と、悔しさよりも清々しい闘志を瞳に宿し、竹千代の肩を軽く小突いた。お妙は目を潤ませながら「若様が本当に良い若様に育たれて」と声を詰まらせ、傍らに控えていた平蔵も、珍しく穏やかな笑みを浮かべて杯を傾けていた。


「小僧、これからは堰の普請よ。気は抜くなよ」


その武骨な言葉の裏には、深い信頼が確かに込められていた。囲炉裏の炎が家族の顔を暖かく照らし、外では春の訪れを告げるような、柔らかな夜風が板戸を静かに揺らしていた。


竹千代は、前世の記憶と今生の幼い心、その両方でこの温もりを深く胸に刻みながら、心の中で静かに誓った。この家を、この人々を、必ず守り抜くのだと。


だが同時に、脳裏には、遠く聞こえてくる関所の喧騒、今川・織田・松平という巨大な渦の存在も、消えることなく在り続けていた。


(されどあの名への違和感だけは、解けるどころか日を追うごとに胸の奥で静かに疼きを増しておる。まるで、まだ見ぬ嵐の予兆のように)


(この穏やかな夜も、いつまで続くか分からぬ。束の間の平穏に、過ぎぬのやもしれぬな)


竹千代は、幼いながらにそれを悟っていた。


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