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三河の片隅で、家族を守る――その名はまだ誰も知らない  作者: 可可多


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第四話 賢いのやら、阿呆なのやら。

「うむ、そろばんをもつと、かしこくなったきがするなあ」


竹千代は意味不明な独り言と共に、そろばんの珠に指をかけた。手習い所での算術の授業は、これまで意図的に並の出来に留めてきた分野であったが、この日ばかりは、抑えていた前世の記憶が堰を切ったように溢れ出した。


師匠が出す加減の問題を、珠を弾く指先が澱みなく追っていく。二桁、三桁の繰り上がり計算はおろか、師匠がまだ黒板代わりの木板に書き終わらぬうちに、竹千代の口からは既に答えが漏れていた。収支の釣り合い、割合の感覚、利子や換算の理屈が、珠を弾く手の動きの端々に滲み出していた。


「な……」


手習い師匠は、竹千代の弾き出す答えの速さと正確さに、思わず絶句した。これまで「まあ人並みよの」と評していた童が、ある日突然、師匠自身が暗算で追いつけぬほどの速度で問題を解き明かしていく。周りの手習い仲間たちも、ぽかんと口を開けて竹千代の手元を見つめていた。


「竹千代……お主、いつの間にこれほどまでに……」


師匠の声には、驚嘆と共に、これまでの評価との落差への戸惑いが、隠しようもなく滲んでいた。竹千代は内心で「しまった」と冷や汗をかきつつも、表向きは「なんとのう、わかるようになったのじゃ」と、屈託のない笑顔でごまかすほかなかった。


(火消しは、もう無理か)


竹千代はそろばんを小脇に抱えると、胸をぐいと張り、居並ぶ手習い仲間たちを見渡して高らかに言い放った。


「ぬははっはあはは! ちくしょうは、かしこいのじゃ! みなのもの、ひれふすがよい!」


あまりの傲岸不遜な物言いに、手習い所は一瞬しんと静まり返った。師匠でさえ、次に何と叱りつけるべきか迷うほどの、堂々たる開き直りであった。だがその得意満面の高笑いの絶頂で、


「ぬはーっ、はっはは……げほっ! ごほごほっ! ごっほ……!」


調子に乗りすぎた息が喉に絡み、竹千代は盛大にむせ返った。目には涙が滲み、顔を真っ赤にして咳き込む姿は、先ほどまでの威張りっぷりとは似ても似つかぬ、実に情けない有様であった。


その瞬間、張り詰めていた空気が弾けるように崩れ去った。手習い仲間たちは堪えきれずに一斉に噴き出し、「なんじゃそれは、かしこいのに、むせておるではないか」と囃し立てる。師匠までもが口元を押さえながら、肩を震わせて笑いを堪えていた。


「妙な力を持つ子」という不穏な噂は、この一件によって「調子に乗ってはすぐ墓穴を掘る、生意気だが憎めない童」という、はるかに人畜無害な評判へと塗り替えられていった。


「ふははは、げほっふ……みな、わからぬところは、ききにこいよ」


咳と虚勢の入り混じった、なんとも締まらない宣言であった。仲間の一人が「先に咳を止めてから言え」と突っ込みを入れると、どっと笑いが弾けた。


それから幾日か、竹千代は手習いの合間、算盤を弾く手が止まった仲間たちの傍らに、当たり前のように腰を下ろすようになった。


「ここはな、まず十のくらいから、こうやってくりあげるのじゃ」


指先で珠を弾きながら、竹千代はできるだけ易しい言葉を選んで説き聞かせた。なぜその計算が成り立つのかという理屈を、幼子にも分かるよう噛み砕いて伝える作業は、竹千代自身にとっても新鮮な挑戦であった。時に自分でも説明に詰まり、「うーむ、これはどう言えばよいのか」と首をひねる場面もあったが、その素直な戸惑いすらも、教わる側の童たちには親しみやすく映った。


「おお、わかったぞ、竹千代」


一人の童が声を弾ませて珠を弾き、正解を導き出した時、竹千代は自分のことのように嬉しそうに手を叩いた。日を追うごとに、手習い所の隅に小さな輪ができていった。師匠もまた、この光景を苦笑混じりに見守っていたが、ある日ふと竹千代に声をかけた。


「お主、教えるのもなかなか堂に入っておるな」


その言葉には、これまでの警戒とは異なる、素直な評価の色が滲んでいた。手習い所の外でも、「阿久居の竹千代様に教われば、そろばんがわかるようになる」という評判が、村の童たちの間に静かに広まっていった。


夕餉の折、竹千代はふと箸を止め、思い出したように父へ問いかけた。


「ちちうえ。あのせきのはなし、あまへいどのとの、そのごは、どうなっておりますか」


弥左衛門は箸を置き、少し驚いたような、しかしどこか安堵したような表情を浮かべた。息子がまだこの件を気にかけていたことに、意外さと共に、頼もしさも感じているようであった。


「うむ……あれからも、平蔵を使いに立てて話を詰めておる。薪炭の融通と、堰の改修で得られる水の一部を隣村にも分けるという条件、甚兵衛の奴もようやく本腰を入れて乗ってきたわ。じゃが」


弥左衛門の表情に、僅かな翳りが差した。


「村役人風情が一存で決められる話でもない。隣村の名主にも話を通さねばならぬ。それに、今川様への軍役の触れが、また新たに出た。近々、普請の人足を何名か供出せよとのお達しでな。堰の改修に回せる人手が、思うように確保できるか、そこが目下の悩みどころよ」


竹千代は箸を握りしめたまま、その言葉を静かに噛みしめていた。技術も、算段も整いつつある今、最後に立ちはだかるのは、いつもながらの人手と時という、この乱世特有の残酷な制約であった。


(絵図面だけでは、堰は直らぬ。人が動かねば、な)


手習いの合間、竹千代は算盤を教える手を休めることなく、さりげなく話題を差し向けた。


「なあ、みなのいえに、どぼくやせきづくりに、くわしいものはおらぬか。ちちうえが、せきをなおすとかで、ひとでをさがしておられるのじゃ」


無邪気な世間話を装ったその問いかけに、算術に励んでいた童たちは、思い思いに手を挙げて答え始めた。


「儂の父は、若い頃に堰普請の手伝いをしたことがあると聞いたことがある」 「うちの兄は、土を運ぶのが得意じゃ、力自慢での」 「隣の家のじさまは、木組みに詳しいと評判じゃぞ」


竹千代は算盤を弾く手を止めぬまま、その一つ一つの情報を、まるで珠を数えるように頭の中で丁寧に整理していった。誰が力仕事に長けているか、誰が木組みや土木の経験を持つ者を身内に抱えているか。散発的な世間話の断片が、竹千代の中で一枚の人足候補の見立てへと形を成していく。


手習い師匠は、生徒たちの賑やかなやり取りを微笑ましく見守りながらも、竹千代のさりげない誘導の巧みさに、ふと感心したような、それでいて僅かに引っかかるものを覚えたような、複雑な表情を浮かべていた。


その日の夕刻、竹千代は父の元へ駆け寄り、いくつかの候補となる家の名を、得意げに報告した。


「ちちうえ、せきづくりにくわしいものが、なんにんかおるやもしれませぬぞ」


弥左衛門は驚いた顔をしながらも、次男が持ち帰った具体的な名前の数々に、思わず身を乗り出した。


数日後、竹千代は平蔵に頼み込み、手習いで聞き出した候補者たちの家を、それとなく訪ね歩く機会を得た。土木・木組みに詳しいという老爺の家では、竹千代は框に座らせてもらい、深い皺の刻まれたその手が語る、堰普請の昔語りに熱心に耳を傾けた。


「若様は、こんな年寄りの話を、真剣に聞いてくださるか……」


老爺は最初こそ戸惑いを見せたが、木杭の間隔や水の逃がし方についての竹千代の的確な相槌に、次第に目を輝かせながら語りに熱を込め始めた。力自慢と評判の若者の家では、竹千代は自ら米俵を運ぶ真似事をして見せ、「わたしも、てつだいたい」と無邪気にはしゃいで見せた。到底戦力にはならぬ幼い体であったが、その屈託のない態度は、力仕事を生業とする者たちの間に、自然な親しみを生み出していった。


「若様は、お偉ぶることもなく、まっすぐなお方じゃ」


そんな評判が、訪ね歩いた家々の間に静かに広まっていった。中には、「阿久居の若様がじきじきに頭を下げに来られたのじゃ、断るわけにもいくまい」と、義理堅さから協力を申し出る者も現れ始めた。竹千代の存在は、単なる技術的な発案者を超えて、この改修事業における人と人との橋渡し役としての意味合いを、静かに帯び始めていた。


竹千代はふと、以前父が漏らしていた言葉を思い出した。


(そういえば、あまへいどのも、はじめはぜにをのぞんでおったが、けっきょくは、たきぎでおちついたのじゃったな。ならば、なぬしどのも、もしかして……)


竹千代は平蔵の詰所を訪ね、思いついたことをそのまま口にした。


「へいぞうどの。となりむらのなぬしどのは、なにか、ほしいものやこまりごとがあると、きいたことはないか」


平蔵は片眉を上げ、しばし記憶を辿るように腕を組んだ。


「……そういえば、噂に聞いたことがある。あの名主の家は、跡取り息子が病がちでな。三河でも評判の医者に診せたいが、遠方ゆえ礼金も馬鹿にならぬと、頭を悩ませておるという話じゃ。それと、名主の家の屋根も、この数年の嵐でだいぶ傷んでおるとも聞く。木材の手配に苦労しておるとかどうとか」


竹千代の脳裏に、相手の本当の困りごとを見抜き、応えることこそが交渉を有利に進める鍵であるという理屈が、鮮やかに像を結んだ。竹千代は懐から木片を取り出すと、聞いた話を丁寧に書き留めていった。


「これは……使えるやもしれぬ」


平蔵もまた、竹千代の意図を察したのか、片目を眇めながら、感心したように頷いていた。かつては末恐ろしいと身構えたものだが、今はむしろ、この底の見えぬ才覚をどこまで伸ばせるか、楽しみですらあった。


竹千代は算術指導の合間を縫って、さりげなく話題を広げていった。


「なあ、みなのしっているところで、やねをふくための、よいざいもくをあつかうものはおらぬか。それと、びょうにくわしい、いしゃさまのことも、なにかしっておれば、おしえてくれ」


童たちは思い思いに答えを返し始めた。


「儂の父は木こりじゃ、屋根板に良い木も心得ておるぞ」 「隣村の外れに、名医と評判の年老いた医者がおると聞いたことがある。三河の御典医の弟子であったとかどうとか」


さらに、傍らでその様子を見ていた手習い師匠が、意外にも自ら口を挟んできた。


「竹千代……お主、また何やら企んでおるようじゃな。まあ良い、儂も一つ知っておる話がある。津島の方に、諸国を巡り歩く薬師がおってな、儂の遠縁がその世話になったことがある。腕は確かじゃと聞いておる」


師匠の言葉には、これまでの警戒とは異なる、むしろ協力的な色さえ滲んでいた。竹千代のこれまでの誠実な振る舞いが、いつしか大人たちの信頼をも動かし始めていたのである。


竹千代は木片に、木こりの父を持つ童の名、名医の噂、そして師匠の遠縁が世話になったという薬師の情報を、丁寧に書き留めていった。断片的な情報の数々が、一枚の地図のように、交渉のための具体的な手土産の形を成し始めていた。


竹千代は木片に書き留めた情報を手に、まず手習い所へと戻り、教えてくれた童たち一人ひとりに深々と頭を下げて回った。


「みな、まことにかたじけない。おかげで、ちちうえのやくにたてそうじゃ」


童たちは照れくさそうに笑いながらも、次男坊にわざわざ礼を言われたことに、まんざらでもない様子であった。手習い師匠にも「せんせいのおはなし、たいへんたすかりました」と丁寧に礼を述べると、師匠は「なに、大したことではない」と鼻を鳴らしながらも、口元には隠しきれぬ笑みが浮かんでいた。


その夜、竹千代は木片を大事に懐に抱え、弥左衛門の前に正座した。傍らには、書見を終えたばかりの松丸も居合わせていた。


「ちちうえ。あまへいどののほかに、なぬしどののことでも、しらべたことがございます」


竹千代は一つ一つ、丁寧に語り始めた。名主の跡取り息子が病がちであること、屋根の修繕に木材を求めていること、そして木材調達の伝手、腕の良い薬師の噂。これまで断片的に集めた情報を、筋道立てて報告していく。弥左衛門は最初こそ半信半疑の様子であったが、次第にその表情が驚きへと変わり、やがて深い感嘆の色を浮かべるに至った。


「……竹千代。お主、まさかこれを一人で集めてきたのか」


弥左衛門はしばし言葉を失った後、木片を受け取り、まじまじと見つめた。


「これは……使える。いや、大いに使えるぞ。名主の弱みを直に突くのではなく、困りごとに寄り添う形で持ちかければ、角も立つまい」


囲炉裏の炎に照らされたその横顔には、次男への評価が、これまでとは明らかに異なる重みを持って刻まれていくのが見て取れた。松丸は何も言わなかったが、弟の懐から次々と出てくる報告を、書見していた手を止めたまま、複雑な面持ちでじっと見つめていた。


第四話をお読みいただき、ありがとうございます。


ちょっとした裏話ですが、日本にそろばんが本格的に伝来・普及するのは室町末期から安土桃山時代にかけてと言われているらしいです。

とすると、本作の年代の手習い所で童たちがそろばんを使っているのは歴史的には少し早すぎるのですが、算術の視覚的なわかりやすさを優先してあえて「そろばん」として描写しました。ただでさえ、よみずれえ文章なので!

「竹千代が前世の知識でこっそり木を削って作らせた特注品」……くらいに脳内補完して楽しんでいただけると嬉しいです。

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