第三話 手柄は、くれてやる。
一
竹千代はがっくりと肩を落とし、木片の粗図を見つめながら小さくため息をついた。
「かんがえかたは、あっておるのに……ちちうえは、とりあってくれぬかもしれぬのか……」
その素直な落胆ぶりに、平蔵は珍しく苦笑を浮かべた。武骨な男の口元に、僅かな慈しみが滲む。
「そう気を落とすでない、小僧」
炭火に薪をくべ足しながら、平蔵は低い声で続けた。
「殿とてお主が思うほど、頭の固いお方ではない。ただ、家を背負う者というのはな、良い思いつきかどうかより先に、それで誰が損をし、誰が得をするかを考える。井堰の話は、隣村との争いに直に関わる。生半可な話の持っていき方をすれば、かえって藪蛇になりかねぬということよ」
平蔵は炭火の向こうから、竹千代の顔をまっすぐに見据えた。
「言うたであろう。儂も力を貸すとな。一人で気を揉むな。まずは、殿がどう考えるか、儂からそれとなく探りを入れておいてやる。それから、お主がどう切り出すか、共に思案しようぞ」
その言葉に、竹千代の肩から幾分か力が抜けた。囲炉裏の炭が爆ぜる音だけが、しばし静かな詰所に響いていた。
二
竹千代は炭火の照り返しを受けた顔を、ぱっと輝かせた。
「そうじゃ! へいぞうどのが、おもいついたことにすればよいのじゃ! ちちうえも、へいぞうどののいうことなら、きっときいてくれよう!」
無邪気な笑顔でそう告げる竹千代を、平蔵はしばし無言で見つめた。囲炉裏の炭が爆ぜ、赤い火の粉が舞う。その沈黙は、先ほどまでの温かな師弟の情とはまた異なる、値踏みするような重さを孕んでいた。
「……小僧」
平蔵の声は、低く、これまでにない硬さを帯びていた。
「お主、齢八つにして、そこまで頭が回るか。手柄を人に譲り、裏から糸を引くというその考え、童の思いつきにしては、あまりに大人びておるな」
竹千代は内心で冷や汗をかいたが、表面上はきょとんとした顔でとぼけてみせた。
「そんな、むずかしいことは、わからぬ。ただ、そのほうがうまくいくと、おもうただけじゃ」
平蔵はしばらくその顔をじっと見据えていたが、やがて小さく息を吐き、片目を眇めながらも、口の端を僅かに緩めた。
「まあ良い。お主の言うことは、道理としては悪くない。この案、儂が思いついたことにして殿に持ちかけてやろう。手柄などくれてやるのに惜しみはせぬ」
平蔵はそう言って話を引き受けたものの、その眼差しの奥には、これまでとは異なる種類の、畏怖にも似た警戒の色が、確かに宿されていた。
三
竹千代は頬を膨らませ、両の拳を握りしめると、地団駄を踏むようにその場でぷりぷりと怒りを露わにした。
「ええい! なにがいかんのじゃ! けんじゅつのときも、へいぞうどのはこわいかおをしておった! よいことをかんがえても、こわいかおをされるのか! わけがわからぬ!」
叫びながら、竹千代は囲炉裏端に置かれた木片の粗図を、思わずぐしゃりと握りつぶした。その子供らしい癇癪ぶりに、平蔵は一瞬呆気にとられたように目を丸くしたが、やがて堪えきれぬとばかりに、低い喉から笑いが漏れ始めた。
「ふ……ふはは! これは一本取られたわ」
平蔵は久方ぶりに肩を震わせて笑い、竹千代の頭をがしがしと乱暴に、しかしどこか慈しみを込めて撫で回した。
「よいよい、そう膨れるな小僧。お主の考えは確かに大したものよ。ただ、あまりに大したものゆえ、この老いぼれもつい身構えてしまうだけのことじゃ。なに、悪いようにはせぬ。お主はただ、儂の目から見ても底が見えぬだけよ。それが恐ろしくもあり、頼もしくもある。矛盾しておるがな」
竹千代はまだむくれた顔のまま、しかし内心では胸を撫で下ろしていた。囲炉裏の炭がぱちりと爆ぜ、詰所には久しぶりに、屈託のない笑い声が響いた。
四
竹千代は、握りつぶしてしまった木片を惜しむこともなく、新たな木片を幾枚も集めてくると、囲炉裏端に陣取って作業に没頭し始めた。炭の先を器用に使い分け、堰の断面図、水路の勾配、取水口の高さの目安を、以前よりも遥かに詳細に描き起こしていく。必要となるであろう木杭の本数や、作業に要する人足の見当までも、指折り数えながら書き添えていった。
数日をかけてその作業に打ち込む竹千代の姿を、お蘭は「また熱心なこと」と微笑ましく眺め、お妙は「今度は何をお描きになっておいでで」と覗き込んでは、細かな図面に目を丸くしていた。以前から、この若様のどこかが人並みでないとは薄々感じていたが、それを言葉にする術も、機会もないまま、お妙はただ目を丸くするに留めた。
やがて満足のいく出来栄えに至った竹千代は、意気揚々と平蔵の元へその木片を持参し、胸を張って突き出した。
「へいぞうどの! みよ! まえよりまた、さらによくなったとおもわぬか!」
平蔵は差し出された図面を受け取り、しばし黙って眺めていたが、その眉間には次第に深い皺が刻まれていった。木杭の配置、取水口の角度、必要な人足の見積もりに至るまで、前回よりも格段に緻密で、実務的な説得力を増していたのである。
「……小僧。これは、殿に見せても十分に通用する出来じゃ。いや、下手な作事奉行よりも余程理にかなっておるわ」
その声には隠しきれぬ驚嘆と共に、僅かながらもまた新たな戦慄が滲んでいた。だが竹千代の得意げな笑顔を前に、平蔵はやがて苦笑と共にその感情を呑み込み、「よし、これなら殿も無下にはできまい」と、木片を大切そうに懐にしまい込んだ。
五
竹千代は、やり遂げた達成感を胸に、いつもの日課へと戻っていった。卯の刻に起き、手習い所で並の出来を演じ、昼餉の後は松丸との合同稽古で変わらず控えめに立ち回る。夕刻には、いつも通り裏庭の一角に立ち、槍を構える。
振り、戻し、振り、戻し。平蔵から授かった緩急の型を律儀に守りながら、時折、あの独自の間合いから放つ一撃の感覚を確かめるように、腰を深く沈めては半身を捻る。冬の冷たい空気が肺を刺すが、繰り返し続けた鍛錬の甲斐あって、その息遣いに乱れはない。
日課をこなす胸中では、しかし絶えず、平蔵が父にどう話を持ちかけているのか、どのような顔で聞かれているのかという思いが去来していた。図面を渡してから幾日か過ぎたが、これといった報告はまだない。
(気を揉んでも詮無きこと。焦らば負けよ)
竹千代は日課をこなしながら、時折、覚えたての鼻歌を口ずさむようになった。もっとも、その節回しはどこか場違いで、この時代には在り得ぬ妙な旋律であったが、当人はまるで気にする様子もない。「ふんふふーん」と気の抜けた調子で庭を歩くその姿に、通りかかった下女が思わず口元を緩め、「若様は、まこと呑気なことで」と微笑ましげに呟くほどであった。
六
五日ほどが過ぎたある夕刻、稽古を終えて汗を拭う竹千代の元に、平蔵が珍しく神妙な面持ちでやってきた。
「小僧、待たせたな。殿に話を通した」
竹千代は思わず槍を取り落としそうになるほど身を乗り出した。平蔵は片目を眇めながら、淡々と続けた。
「案の定、殿は最初は渋い顔をしておられた。井堰の件は隣村との根深い因縁がある。下手に触れば、要らぬ諍いの種になりかねぬとな。じゃが、儂が図面を見せ、これなら道理も立つし、隣村への言い分も立てられると粘り強く説いたところ、ようやく重い腰を上げなさった」
平蔵の口元に、僅かな笑みが浮かんだ。
「ただし、殿は一度、儂自らこの目で堰を検分すると仰せじゃ。それと、村役人や隣村の顔役も交えて、話をつけねばならぬとも。一筋縄ではいかぬぞ」
竹千代の胸に、達成感と共に、これからの困難への緊張が同時に込み上げてきた。父自らの検分、そして隣村との交渉。家の窮乏を救う第一歩が、いよいよ現実の政治の舞台へと踏み出そうとしていた。
「まあ、あとはおとなたちのはなしじゃ」
竹千代はけろりとした顔で槍を担ぎ直すと、いつもの裏庭へと足を向けた。もはや家中の誰も、その妙な鼻歌を気に留める者はいなかった。
七
数日後、弥左衛門は自ら数名の郎党を引き連れ、雪解けの残る畦道を踏みしめて件の井堰へと足を運んだ。竹千代は同行を願い出ることもせず、あくまで日課に徹していたが、屋敷に戻った父の顔には、出立時よりも遥かに重い影が差していた。
夕餉の折、弥左衛門は箸を置き、独り言のように呟いた。
「……堰の傷み具合、竹千代の申した通りであった。だが、隣村の連中は一筋縄ではいかぬぞ。あの取水口の付け替え、村役人の甚兵衛が裏で糸を引いておるという噂もある。話をつけるには、相応の手土産がいろう」
その言葉には、技術的な正しさだけでは到底解決し得ない、この乱世特有の利権と面子の重さが滲んでいた。竹千代は椀に視線を落としたまま、内心でその重みを静かに噛みしめていた。傍らでは松丸が、何を思うでもなく、しかしどこか複雑な面持ちで箸を止めていた。
(絵に描いた図面が正しくとも、それだけでは人は動かぬか。……ふむ、道理よな)
八
槍を振る竹千代の口からは、相変わらずどこか場違いな鼻歌が漏れていた。だがその手足は、意識とは半ば切り離されたように、ただ黙々と型を繰り返し続けている。振り、戻し、捻り、突き。その反復の中で、ふと脳裏に、唐突な閃きが像を結んだ。
(……突きだけでなく、払いにも同じ理屈が使えるのではないか)
竹千代は思わず鼻歌を止め、槍を構え直した。これまでの一撃が、腰の捻転を穂先の直線的な突きへと変換するものであったのに対し、今度はその回転の勢いを、円弧を描く横薙ぎの払いへと転用する試みであった。
最初の数回は、勢い余って体勢を崩し、尻餅をついた。しかし竹千代は臆することなく、平蔵から授かった緩急のリズムを守りながら、幾度となくその動きを繰り返した。やがて、腰の捻りから足の踏み込み、そして穂先が円を描いて薙ぎ払われるまでの一連の流れが、驚くほど滑らかに、一つの技として結晶していった。
夕闇の迫る裏庭に、これまでにない鋭い風切り音が響いた。竹千代は肩で息をしながらも、その口元には、抑えきれぬ笑みが浮かんでいた。
「……できた」
小さく呟いたその声は、誰に届くでもなく、冷たい夕風に溶けていった。




