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三河の片隅で、家族を守る――その名はまだ誰も知らない  作者: 可可多


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第二話 弓は苦手、槍は得意。

稽古場に立つたび、平蔵の視線がどこか鋭さを増していく。それを竹千代は、子供らしからぬ敏さで感じ取っていた。このまま見つめられ続ければ、いずれ何かを勘繰られる。ならば、目先を逸らすが得策であろう。


「ちちうえ! へいぞうどのは、わたしがかたなをもつと、いつもむずかしいかおをなさる! きっと、わたしのことがおきらいなのじゃ!」


頬を膨らませ、いかにも拗ねた童らしい声で弥左衛門に訴え出た。とっさの一計であった。弥左衛門は思わず苦笑し、傍らの平蔵を振り返る。


「平蔵、お主そんな怖い顔をしておったか」


「いえ……別段、機嫌が悪いわけでは」


平蔵は片眉を上げ、歯切れ悪く応じるほかなかった。竹千代はここぞとばかりに話をすり替える。


「ならばしばらく、ゆみをならいたい! ちちうえのように、えびらを背負いたいのじゃ!」


弥左衛門は郷士として弓の心得もあった。次男が武芸全般に興味を示すことを頼もしく思ったのか、快く頷く。


「よかろう、儂が手ほどきしてやる」


こうして平蔵の執拗な観察は、しばし弓場へと矛先を逸らされることとなった。


だが実際の稽古は、思惑通りには進まなかった。父から借り受けた小ぶりな稽古弓ですら、幼い両腕には張りが強く、弦を引き絞ることさえ満足にできぬ。渾身の力で引いた矢は的にも届かず、力なく地に落ちる。手のひらの内側は弦に擦れて赤く腫れ上がり、肩は攣ったように痛んだ。剣術における鮮やかな上達とは裏腹に、弓においては人並み以下の惨憺たる有様であった。


「弓はな、力だけでは引けぬ。呼吸と、間合いよ」


不器用にもがく息子を見て、弥左衛門は静かに諭した。その言葉には、次男への僅かな慈しみが滲んでいた。


「ゆみは……わたしにはむいておらなんだか」


竹千代はしょんぼりと肩を落とし、擦り剥けた掌をさすった。弥左衛門はその肩を軽く叩き、「向き不向きは誰にでもある。儂とて槍の方が性に合うておった」と笑い、ふと平蔵へ視線をやった。


「平蔵、貴様は槍働きで鳴らした男であったな。竹千代に、少し見せてやってはくれぬか」


「ほう……」


平蔵は片目を眇め、低く呟いた。剣術における竹千代の異様な上達ぶりに対する疑念は、まだ胸の奥にくすぶっていたが、その一方で優れた才を見出す喜びという、武芸者としての矜持もまた、確かに存在していた。


「よかろう。槍は間合いが命よ。長物なりの理を教えてやる」


稽古場に持ち出されたのは、穂先を落とした稽古用の長槍であった。初めて手にするその重み、長さ、間合いの取り方に、竹千代は最初こそ戸惑いを見せたものの、すぐさま体幹と敏捷性を活かし、円を描くような足運びと突きの直線性を、驚くほど自然に会得していった。


平蔵は数合、竹千代の突きを受け流していたが、次第にその目つきが変わっていく。


「小僧……お主、槍の方が性に合うておるのではないか」


その声には、先だっての疑念とはまた異なる、武芸者としての純粋な感嘆が滲んでいた。夕刻、稽古場に長い影が伸びる頃、竹千代の腕には新たな痣と擦り傷が刻まれていたが、その顔には隠しきれぬ充実の色が浮かんでいた。


「これじゃ! へいぞうどの、ひとりでもけいこできるやりかたを、おしえてくれ!」


目を輝かせた願い出に、平蔵は片頬を僅かに緩めた。


「よかろう。だが小僧、儂は前に言うたはずぞ。体を壊しては元も子もないとな」


そうして平蔵は、独り稽古における「型を三度、休み、また三度」という緩急の付け方、疲労時の徴候の見極め方といった、長年の実戦経験に裏打ちされた鍛錬法を、丁寧に授けていった。竹千代はその一つ一つを、食い入るように吸収した。


天文二十三年の秋から冬にかけて、竹千代の一日は判で押したような規則正しさで刻まれていくようになった。朝は手習い所にて「いろは」と算盤の基礎を学ぶ。手習いの出来は、際立って優れているわけでも劣っているわけでもない、ごく並の域に留めて見せた。師匠からは「筋は悪くないが、まあ人並みよの」という、当たり障りのない評を得るに終始した。


昼餉を終えた後は兄・松丸と槍の合同稽古、夕刻前には決まって裏庭の一角で、独り、槍を振る。振る回数も、休む間合いも、平蔵から授かった型どおりに寸分違わず繰り返される。下男や女中たちは、いつしか竹千代の姿を見ずとも、日の傾き具合だけで「今頃は裏庭で槍を振っておいでじゃろう」と口にするようになっていった。


この徹底した規則性は、館の中に一種の安心感を醸成していった。お妙は「若様は、まことに真面目な生活を送っておいでですこと」と目を細め、お蘭も「手習いも武芸も、地に足がついておるようで何より」と安堵の表情を見せた。平蔵に至っては、「小僧の稽古の刻限は、儂の腹時計より正確よ」と、皮肉交じりながらも満更でもない笑みを浮かべる始末であった。


かくして竹千代という少年は、「非凡な才を持ちながらも、地に足のついた真面目な日常を送る、御しやすい人物」という像を、家中の者たちの間に深く定着させていくこととなった。


規則正しい日々の合間、竹千代は独り稽古の刻限になると、いつも通り裏庭の一角で槍を構えた。だがその胸中では、平蔵から授かった型の一つ一つを、まるで部品のように分解し、組み替える作業が静かに進められていた。


(槍の重さを乗せるのではなく、回転の勢いを乗せる。体の軸を捻り、その反動を穂先へと伝えれば……)


角運動量を保つという理屈が、幼い体幹の中でおぼろげな形を取り始めていた。低く沈めた腰から半身を大きく捻り、その捻転の勢いをそのまま穂先の突きへと変換する。無理な回数はこなさぬよう、平蔵から学んだ緩急を律儀に守りながら、しかし着実に、その動きは研ぎ澄まされていった。


冬の終わりが近づく頃、竹千代はついに、捻転の力を無駄なく穂先に伝えきる、独自の間合いから放つ一撃を会得するに至った。その日、たまたま様子を見に来た平蔵は、竹千代の放ったその一撃を目にして、思わず息を呑んだ。


「……小僧。今のは、儂の教えた型にはないぞ」


「じぶんで、かんがえてみました」


竹千代は少し照れたように答えた。平蔵はしばし無言でその場に立ち尽くしていたが、やがて低く、感嘆とも呆れともつかぬ声で呟いた。


「末恐ろしい奴よ、まことに」


独り稽古の後、竹千代は汗を拭う平蔵に、何気ないていで問いかけた。


「へいぞうどの。うちは……まずしいのか?」


平蔵は一瞬、手を止めた。片目の古傷がひくりと動く。


「小僧、なぜそのようなことを聞く」


「はは(母)が、いつも銭のことでためいきをついておる」


竹千代は拗ねたふりをしながら続けた。平蔵はしばし黙り込んだ後、槍を布で拭いながら、ぽつりぽつりと語り始めた。


「……小僧だから言うておくが、良くはない。今川様への軍役供出は年々重うなる一方じゃ。去年も一昨年も凶作続きでな、蔵の米は目減りするばかり。殿は町の商人から幾度も銭を借りておられる。それに、隣の井堰のことも知っておろう。あれのせいで、うちの田の水回りが年々悪うなっておる。訴え出ても、村役人は隣村の肩を持つばかりでな」


それだけ言うと、平蔵は「これ以上は、儂の口から言うことではない」と話を打ち切った。だがその一言だけでも、竹千代にとっては家の窮状の輪郭を掴む、貴重な手がかりとなった。


「井堰を見たいじゃと? ……変わった童よ、まことに」


平蔵は苦笑しながらも、竹千代を連れて隣村との境を流れる川へと足を向けた。冬枯れの田畑の間を縫うように延びる畦道は霜柱で白くこわばり、草鞋の裏に容赦なく冷気を伝えてくる。やがて視界が開けた先に、古い木組みの堰が見えてきた。


近づいてみれば、その荒廃ぶりは想像以上であった。堰の木杭は所々腐食して傾ぎ、隙間から水が無駄に漏れ出している。上流の隣村側が水路の幅を広げ、取水口の位置を有利な角度に付け替えていることも一目瞭然であった。畦に佇む水呑百姓の一人が、平蔵の姿を認めて駆け寄り、深い皺の刻まれた顔で愚痴をこぼした。


「へいぞう様……今年もこの調子じゃ、田植えの水も覚束ねえ。隣の連中は『昔からこうじゃ』の一点張りでよ……」


竹千代は堰の構造、水の流れる角度、土手の傾斜を食い入るように見つめていた。流量の理屈、堰の高さと取水口の位置関係。朽ちかけた木組みの向こうに、改善の余地が鮮明に浮かび上がっていた。だがあえて口を挟まず、無邪気な顔で「みずって、おもしろいのう」とだけ呟き、堰の周りをぐるりと歩き回っては、木杭の腐り具合や水嵩を指先でそっと確かめる仕草だけに留めた。


「小僧、何を見ておる」


平蔵の問いに、竹千代は「なんとのう、ながめておるだけじゃ」とはぐらかした。


その夜、竹千代は平蔵の詰所に忍び込み、囲炉裏の炭火を挟んで向かい合った。懐から取り出したのは、木片を薄く削って作った即席の筆記板と、炭の欠片であった。


「へいぞうどの、きいてくれ。あのせきのことじゃが」


炭で木片に粗末な線を引きながら、堰の断面、水の流れる勾配、取水口の位置を図示していく。


「ここのくいがくさっておるから、みずがもれておる。それに、とりいれぐちがひくすぎるゆえ、しもがわに、みずがゆかぬのじゃ。もし、くいをうちなおして、とりいれぐちのたかさをすこしあげれば……」


平蔵は最初、童の戯言と半ば聞き流すつもりでいたが、次第にその表情から驚きの色が消えなくなっていった。竹千代の指摘は、幾多の合戦で野営地の水利にも通じてきた平蔵自身の経験則と、奇妙なほどに符合していたのである。


「……小僧。お主、まことに八つか」


平蔵はしばし絶句し、やがて低く唸った。


「言うておることは、筋が通っておる。儂も昔、陣普請で堰仕事を手伝うたことがあるが……お主の言うことは、それと近しいぞ」


その声には隠しきれぬ驚愕と共に、「一体この童は何者なのか」という、根源的な疑問が、これまでになく色濃く浮かび上がってもいた。


「よかろう……儂にできることなら手を貸す。だが、殿への話の持っていき方には、くれぐれも気をつけよ。子供の思いつきと侮られれば、それまでじゃ」


竹千代は炭で描いた粗図を大事に懐へしまい込みながら、深く頷いた。三河・今川・松平という、遠くから響く名を耳にするたび、あの覚えのない既視感がまた微かに疼く。だが今は、それを確かめている暇はなかった。まずは、この図面をどう父に届けるか。それだけを、考えねばならない。

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