第一話 次男坊、産声を上げる
第一話 次男坊、産声を上げる
一
天文十六年、如月の末。
三河の空はいまだ薄鈍色の雲に覆われ、板葺きの母屋の隙間からは容赦なく冷たい風が吹き込んでいた。土間で焚かれた囲炉裏の煙が梁を這い、燻された藁と血の匂いが入り混じる中、産声が上がった。
「男児にございます、殿」
取り上げ婆の声に、阿久居弥左衛門は框に腰掛けたまま、僅かに眉を動かしただけであった。すでに嫡男・松丸がある身では、次に生まれる子は「予備」でしかない。米蔵の底が見え始めているこの家で、養う口がまた一つ増えたという事実は、喜びよりも重さとして弥左衛門の胸にのしかかっていた。今年もまた今川への軍役供出米が課される。田畑は痩せ、水は思うように引けず、隣村との井堰の取り合いは絶えぬ。
母・お蘭は、産褥の中で我が子を抱き寄せながら、涙ぐんで囁いた。
「息災に育っておくれ……この乱れた世を、どうか生き延びておくれ」
その腕の中で、赤子はうっすらと目を開けた。まだ焦点も合わぬ視界、意のままにならぬ四肢のまま、それでも頭の奥底では、見知らぬはずの、けれど確かに「知っている」記憶の断片が渦を巻いていた。桁の並ぶ帳簿、堤の勾配、水を治める理屈。前世と呼ぶべきそれらは、脈絡なく、しかし鮮明に、この赤子の内側に息づいている。
だが、今この身体でできることは何もない。言葉を発することもできぬ。ただ泣き、乳を求め、眠ることしかできぬ無力な肉塊。それが、この生の出発点であった。
土間の隅では、兄・松丸を抱いた乳母のお妙が心配げにこちらを覗き込んでいる。
「若様の弟君は、ちと大人しゅうございますねぇ」
その声には、無邪気な安堵と、微かな不安が同居していた。障子の外では、遠く関所の方角から、行軍する足軽たちの草鞋の音と、槍の穂先が触れ合う金属音が、風に乗って微かに届いていた。
二
「名は、竹千代とする」
三日目の夜、弥左衛門はそう告げた。ありふれた、しかしどこか座りのよい名であった。母・お蘭は「良い名にございます」と微笑み、乳母のお妙も「たけちよさま」と繰り返しては、その響きを確かめるように頷いていた。
……竹千代。
赤子の内側で、まだ言葉にならぬ思考が、ふと小さく引っかかった。妙だ。この名を、どこかで聞いたことがある気がしてならない。だが、前世の記憶を幾ら手繰っても、それらしき覚えは出てこぬ。ただ、耳の奥で、遠い鐘の音のように、その二文字だけが微かに反響していた。
(……気のせいか)
赤子はそう結論づけるほかなかった。今は、それを気に留める余裕さえない。
産まれ落ちたばかりの肉体の内側では、前世の記憶と今生の身体が激しく軋み合っていた。まだ焦点も合わぬ視界、意のままにならぬ四肢。その圧倒的な断絶が、堰を切ったように喉の奥から突き上げてきた。
「ぎゃあああっ!」
想像を絶する絶叫であった。取り上げ婆が思わず手を止め、お蘭の腕の中で赤子は身をよじり、小さな拳を振り回して泣き喚いた。囲炉裏の煙で燻された天井の梁がびりびりと震えるほどの声量に、框に座していた弥左衛門も思わず腰を浮かせる。
「これは……えらい元気な泣き声じゃ」
弥左衛門の声には、僅かな驚きと共に、跡継ぎならぬ次男にしては存外に丈夫そうだという、打算混じりの安堵が滲んでいた。
「まあまあ、若君の弟君は、なんと肺の強いこと」
お妙が松丸を片手で抱えたまま、もう一方の手で赤子の頬をあやすように撫でた。松丸は自分より小さな弟の泣き声に驚き、母の袖にしがみついた。土間の隅には、年貢と軍役供出のために既に目減りしている米俵が積まれ、その陰で下男たちも顔を見合わせ、苦笑いを浮かべていた。
やがて乳を与えられ、温かい体温に包まれると、赤子の泣き声は次第に治まっていった。だがその激しい啼泣は、産屋にいた者たちの記憶に「並外れて気の強い赤子」という印象を刻み込むこととなった。
外では、夜警の柝の音が、規則正しく響いていた。
三
天文十六年から十八年にかけての二年間、竹千代は周囲の目には「よく眠り、よく乳を飲む、聞き分けの良い子」として映っていた。だがその内側では、前世の記憶を持つ精神が、乳児の肉体に宿る筋の一本一本を意識し、寝返りを打つたび、這うたびに、意図して負荷をかけ続けていた。囲炉裏端の筵の上で腹這いになり、微かに震える両腕を突っ張って頭をもたげる。傍から見ればただの発育の一過程だが、それは紛れもなく前世の理屈に裏打ちされた、意図的な鍛錬であった。
天文十七年の冬、三河の地に例年より厳しい寒波が襲った。竹千代は激しい下痢と発熱に見舞われた。お蘭は夜通し赤子を抱き、お妙は近隣の村から評判の産婆兼薬師を呼び寄せた。木の根や干した薬草を煎じた黒々とした汁を、泣き喚く赤子の口にねじ込む。弥左衛門は、ただでさえ乏しい蓄えから薬礼を工面せねばならず、その顔には隠しきれぬ焦燥が浮かんでいた。
幸い、峠を越した赤子は快方に向かった。生死の境をくぐり抜けたことで、かえって母子の絆、そして家中の者たちの庇護意識は一段と強まった。二歳を迎える頃には、竹千代はよろめきながらも自らの足で歩み、覚束ない発音ながらも「ちち」「はは」と声を発するまでに育っていた。
四
天文十八年から二十年にかけて、竹千代は表向き「よく笑い、よく甘える利発な子」として阿久居の館で育っていった。朝は母の膝で粥を啜り、夕は兄にせがんで木の枝の刀で棒切り合いに興じる。だがその実、竹千代は毎朝、屋敷裏手の竹林の陰で、誰の目にも留まらぬ時分を見計らい、股関節を開き、腱を伸ばし、体幹を捻る動作を繰り返していた。幼児の未発達な筋骨には荷が重い動きも多く、時に膝や足首を軽く痛めては、母に「転んだ」と誤魔化しつつ手当てを受ける羽目になった。
また、館の裏の畦道を「鬼ごっこ」と称して駄々をこねては、下男や松丸を巻き込み全力で走り込む機会を作った。これにより表向きは「活発で遊び好きな子」という評判に収まったが、時折、あまりに整然とした体の動かし方、疲労後の呼吸の整え方の妙な巧みさに、お妙がふと目を細める瞬間もあった。
天文二十年の晩夏、竹千代は突如として館の庭先で、両足を大きく左右に開き、上体を前に倒して額を地面につけるという、幼児の関節可動域を超えた体勢を取ってみせた。
「あにうえ! こんなあしがひらくぞ!」
木刀の素振りをしていた松丸は目を丸くし、思わず手を止めて駆け寄った。
「なんじゃそれは……痛うないのか!」
「いたくないぞ! あにうえもやってみよ!」
負けず嫌いの松丸は顔を赤くしながら真似ようとするが、体が硬く、途中で悲鳴を上げて尻餅をつく始末であった。その様子に竹千代はけらけらと笑い、以来これは「弟が兄をからかう遊び」として、館の子供たちの間で密かな流行と化していった。
お蘭は縁側からその様子を眺め、「まあまあ、変わった遊びを見つけたこと」と微笑ましげに笑うばかりで、深く気に留める様子はなかった。だが二年の月日を経て、竹千代の柔軟性と敏捷性は誰の目にも明らかな域に達し、近隣の郎党や下男の間でも「阿久居の次男坊は猿のように身が軽い」という評判が、いつしか自然と広まり始めていた。
五
天文二十三年、竹千代は七つを迎えた。阿久居家では、家格に相応しい最低限の武芸として、郎党の中でも槍働きに長けた老練の家人・郷田平蔵が、兄弟の剣術指南役に任じられた。平蔵は片目に古い刀傷を持つ寡黙な男で、若い頃は今川方の足軽として幾多の合戦をくぐり抜けてきた叩き上げであった。
「まずは型から入るぞ。無闇に振り回すでない」
平蔵の教える型は、当世流の素朴な太刀筋であったが、竹千代はその一挙手一投足を食い入るように見つめ、幼い頃から鍛え上げてきた体幹と柔軟性を存分に活かして、驚くほどの速さで基本の型を吸収していった。腰の据わり方、足運びの重心移動、素振りの際の肩の使い方。その一つひとつに、前世の理屈が、無意識のうちに体の使い方の効率を選び取らせていた。松丸は元服を控えた身として既に二年ほど手習いを積んでいたが、弟の急速な上達ぶりに複雑な表情を隠せなかった。
一方で、木刀を振り続ける手のひらには幾つもの血豆ができ、潰れては皮が厚くなることを繰り返した。慣れぬ正座での型の反復に、幼い膝は幾度も痺れ、稽古の後にはぐったりと疲れ果てて眠り込む日々が続いた。平蔵は無口ながらも、竹千代の吸収の早さに驚きを隠せぬ様子で、時折片目を眇めて「筋がよい……いや、良すぎる」と独り言つこともあった。
六
稽古場での竹千代は、松丸との立ち合いの折、あえて僅かに動きを緩め、時に隙を見せては兄に一本を譲った。
「あにうえ、いまのは見事にございました」
素直に称える竹千代の言葉に、松丸は最初こそ怪訝な顔をしたものの、次第に兄としての面目を保てることに安堵し、弟への態度も柔らかくなっていった。平蔵はその様子を横目に見ながら、「これはこれで、存外に気配りのできる童よ」と、先だっての違和感とはまた別の評価を胸中に刻んだ。
だが、日が落ち、家人たちが寝静まった後、竹千代は誰にも気取られぬよう、館の裏手にある古い納屋の陰へと忍び込み、そこでただひたすらに同じ型の素振りを繰り返し続けた。振り、戻し、振り、戻し。腕の筋が悲鳴を上げ、手のひらの血豆が破れて木刀の柄に赤黒い染みを作っても、竹千代は止めることをしなかった。反復こそが最も確かな上達の道であるという理屈が、幼い精神を執念深く駆り立てていた。月明かりだけを頼りに、幾百、幾千と同じ動作を繰り返すその姿は、傍から見れば異様というほかない執着であった。
やがて夜半を過ぎた頃、竹千代はついに膝から崩れ落ちた。呼吸は荒く、腕は痙攣したように震え、意識が朦朧とする中、辛うじて自室の褥まで這うようにして戻った。翌朝、お蘭は息子の異様な隈と、掌の血豆が潰れて腫れ上がっているのを見て、顔面蒼白になって叫んだ。
「竹千代! これは……一体何をしていたのです!」
竹千代は「稽古の続きを、少し」とだけ呟いたが、その声は掠れ、目の焦点も定まらぬほど憔悴しきっていた。
七
竹千代は母の剣幕に、素直に頭を垂れた。
「もうしわけございませぬ、ははうえ。しばらく、やすみまする」
その殊勝な様子に、お蘭はようやく胸を撫で下ろし、竹千代の腫れた掌に丁寧に膏薬を塗り込んだ。
「良いですか、竹千代。強くなりたい気持ちは分かりますが、体を壊しては元も子もありませぬ。武士は己の体すら、御家の大事な財にございます」
その言葉には、乱世を生き抜く郷士の妻としての、切実な実感が滲んでいた。お妙も甲斐甲斐しく粥を運び、しばらくは木刀を握ることさえ禁じられる日々が続いた。
だが竹千代は、褥に横たわりながらも、瞼の裏では稽古を止めてはいなかった。目を閉じ、静かに呼吸を整えながら、平蔵から教わった型の一挙手一投足を、脳裏で繰り返し反芻する。太刀筋の軌道、足の運び、体重移動のタイミング。その一つひとつを、体を休めながら頭の中だけで鍛錬として積み重ねていった。
数日を経て、竹千代の掌の血豆は瘡蓋となり、腕の張りも和らいでいった。
八
再び稽古場に立った竹千代は、木刀を握る手にまだ瘡蓋の感触を残していたが、それ以上に、幾晩も脳裏で描き続けた太刀筋の記憶が、まるで既に体に刻み込まれているかのような感覚をもたらしていた。
「では、先だっての型からじゃ」
平蔵の低い声を合図に、竹千代は静かに構えを取った。足の運び、腰の沈め方、木刀を振り下ろす軌道。寝床の中で幾百回と反芻したその動きが、驚くほど滑らかに、しかし力強く再現されていく。振り終えた竹千代の残心の姿勢を見て、平蔵は片目を大きく見開いた。
「……待て。今の間合い、誰に教わった」
平蔵自身、幾多の合戦を潜り抜けてきた古強者である。休んでいたはずのわずか数日の間に、これほどまでに動きの精度が増すことなど、通常ではあり得ぬことであった。
「あにうえのお姿を、目に焼き付けておりました」
竹千代は内心で冷や汗をかきながらも、松丸の存在を引き合いに出して咄嗟に取り繕った。松丸自身も驚きを隠せぬ様子であったが、弟から立てられる形になったことに、まんざらでもない表情を浮かべていた。
平蔵はしばし竹千代の顔をじっと見つめていたが、やがて「ふん」と短く鼻を鳴らし、「まあよい。筋がよいということじゃ」とだけ呟いて、稽古を続けさせた。だがその眼差しの奥には、拭いきれぬ小さな疑念の火種が、確かに灯っていた。
裏庭には、乾いた木刀の音が再び規則正しく響き始めた。竹千代の動きは、以前にも増して洗練され、平蔵をして「この歳でここまでか」と唸らせるほどの域に達しつつあった。
(……竹千代、か)
稽古の合間、竹千代はふと、自らの名を胸の内で繰り返した。相変わらず、その響きの奥に何かが引っかかる。だが今は、それを確かめる術も、暇もなかった。




