第四十六話 値切りと帰り道
一
竹千代の口元に、これまで平蔵が見たことのない類の笑みが浮かんだ。それは稽古場で見せる真剣な表情でも、お妙との軽口を交わす時の柔らかな笑みでもなく、どこか算盤を弾く時の、獲物を狙うような光を帯びたものだった。「存分に、ですか。……では、本気で参りましょう」
平蔵はその変わりように、思わず片眉を上げた。「……竹、そなた、いつもと少々、面構えが違うぞ」
「これは、荷送りの商談の折に身についた顔にございます」竹千代はそう言うと、馬喰の方へと向き直った。「馬喰殿、この馬、値はいかほどか」
馬喰は最初、竹千代の若さを見て取り、幾分足元を見るような調子で答えた。「さようですな……この馬、気性も良く、まだまだ働けまする。貫高にして、これくらいはいただきとうございますな」馬喰が示した値は、竹千代が事前に見積もっていた相場より、幾分高めのものであった。
竹千代は馬の口元に手をやり、そっと唇をめくって歯の擦り減り具合を確かめた。表情を変えず、首を振る。「馬喰殿、正直に申し上げましょう。この馬、確かに気性は良うございますが、歳はもうすぐ十に届きましょう。……今は達者なれど、幾年か先には、より軽い荷しか引けなくなる。その値では、少々手が出かねまする」
馬喰は虚を突かれたような顔をしたが、すぐに商人らしい調子で切り返した。「されど若様、この気性の穏やかさは、なかなか出会えるものではございませぬぞ。荒い馬を無理に慣らすとなれば、それこそ手間も銭もかかりまする」
二
竹千代は頷きながらも、引かなかった。「仰る通り、気性の良さには、確かに値打ちがございましょう。……されど当家は、初めて馬を迎える身。世話の心得も、これから学ぶところにございます。もし、この馬が当家に馴染まなかった場合の損も含めての値と思えば、この額は、いささか重うございます」
馬喰はしばし黙り込み、竹千代の顔を値踏みするように見つめた。「……若様は、随分と商いに慣れておいでのようですな」
「それがしの家では、機織りと猪肉の商いを営んでおります」竹千代は答えた。「値の按配には、多少の心得がございます」
平蔵は少し離れた位置から、腕を組んでその様子を見守っていた。隻眼の奥に、これまでにない興味深げな光が宿っていた。
馬喰はしばし算盤でも弾くような間を置いた後、幾分値を下げた額を口にした。竹千代はそれでもなお、わずかに首を傾げた。「もう一声、いかがでございましょう。……この馬、末永く養いとうございます。長く付き合うてくださる馬喰殿との縁も、大切にしとうございます」
その一言に、馬喰の表情が、わずかに緩んだ。「……若様のその物言い、嫌いではございませぬな」馬喰はさらにいくらか値を下げ、最終の額を口にした。竹千代はその数字を胸の内で確かめ、頷いた。「……その値にて、お願いいたします」
三
話がまとまると、馬喰は改めて姿勢を正し、筆と墨を取り出した。平蔵を立会人として売券をしたためさせ、竹千代はそれを受け取った。
「銭ではかさばるゆえ、銀でしこうても構わぬか」
竹千代の問いに馬喰が頷くのを確認し、懐から小さな金入れを取り出し、銀を小袋から秤に移して量った。馬喰は目を細め、竿秤の目盛りと分銅の釣り合いを確かめた。
「銀三十匁……確かに」
馬喰は満足げにうなずき、手綱を竹千代に手渡した。「若様、この馬、大事にしてやってくだされ。……名は、まだございませぬな」
「これより、当家にて名を付けとうございます」竹千代は手綱を受け取りながら答えた。栗毛の馬は、竹千代の手をおとなしく受け入れ、大きな瞳でこちらを見つめていた。
馬喰との別れを済ませ、竹千代は平蔵と共に、馬を引きながら宿場を後にした。夕刻の柔らかな光が、街道を橙色に染めていた。手綱を引く竹千代の足取りは、行きよりも幾分軽やかであった。
「して竹」平蔵が、隻眼を細めながら口を開いた。「先ほどの商談の顔、あれは、いつから身につけておったのじゃ」
竹千代は少し照れくさそうに笑った。「荷送りの仕組みを整えた頃より、母上や商人衆とのやり取りを重ねるうち、自然と身についたものにございます。……剣を構える時とは、また別の気の据え方が要りますゆえ」
「なるほどな」平蔵は感心したように頷いた。「稽古場での顔、家族の前での顔、そして商談の顔。……そなたは、幾つもの顔を持っておるのじゃな」
竹千代はしばし考え、それから答えた。「顔を使い分けておるというより……それぞれの場に応じて、心の据え方を変えておるだけにございます。剣は剣、商いは商い。……根っこにあるものは、恐らく同じにございましょう」
四
平蔵は満足げに笑い、それから、からかうように付け加えた。「じゃが竹、あの馬喰、最後には随分と気を許しておったな。……そなた、稽古場では滅多に見せぬ愛想の良さであったぞ」
「それは、馬喰殿にございますれば」竹千代は澄まし顔で答えた。「平蔵殿にも、あれくらいの愛想を見せれば、稽古が幾分か楽になりましょうか」
「たわけたことを申すな」平蔵は苦笑しながら、竹千代の肩を軽く小突いた。「稽古に愛想など、要らぬわ」
二人は笑いながら、なおも街道を歩き続けた。栗毛の馬は、時折こちらを窺うように振り返りながら、素直に手綱に従って歩いていた。「この馬、なかなかに賢そうにございますな」竹千代が首筋を撫でると、馬は鼻先を竹千代の肩に押し付けるようにした。
「懐きやすい質のようじゃな」平蔵も馬の様子を見て、頷いた。「厩に着けば、老爺が大喜びしよう」
道端の木々は、すっかり葉を落とし始め、晩秋の夕暮れが二人の影を長く伸ばしていた。竹千代は馬を見つめながら、これから始まる新たな日々を思い描いた。厩に迎え入れ、老爺と共に世話をし、いずれはこの家の力になってくれるだろう一頭の馬。名簿の一件は据え置きとなれど、こうして一つずつ、家族と共に積み重ねていく営みこそが、竹千代にとって、何よりの充実であった。夕陽に染まる街道を、馬の蹄の音とともに、竹千代と平蔵は、屋敷への帰路をゆっくりと歩んでいった。




