第四十五話 馬市
一
幾日か、穏やかな晩秋の日々が過ぎていった。馬市へ向かう日取りが近づく中、竹千代は老爺から馬の世話の手ほどきを受け続け、平蔵との朝稽古も、震えの消える日が次第に増えていった。塩漬けの猪肉商いは順調に続き、老爺や甚助殿への贈り物も、それぞれから重ねての感謝の言葉が届いていた。
そして迎えた馬市当日の朝、竹千代は平蔵と共に、近隣の宿場町へ向けて旅支度を整えた。父・弥左衛門から路銀を受け取り、松丸からは「良き馬を、頼むぞ」と、笑みと共に見送られた。お蘭とお妙も門前まで出て、二人を見送った。
「道中、気をつけてくださいませ」お妙が案じるように言うと、竹千代は頷いた。「案ずるな、お妙。平蔵殿がついておるゆえ」
近隣の宿場町までは、半日ほどの道のりであった。平蔵と連れ立って歩く道中、竹千代は久方ぶりに、屋敷を離れて外の空気に触れる解放感を覚えていた。
宿場に着くと、馬市はすでに熱気と土埃に包まれていた。あちこちに馬が繋がれ、馬喰たちの威勢の良い声と、馬の嘶きが飛び交っていた。竹千代と平蔵は、まず市の全体を見渡すように、ゆっくりと歩を進めた。
「竹、あれを見よ」平蔵が、ふと足を止めた。その視線の先には、他の馬とは明らかに違う、艶やかな毛並みをした一頭の馬が繋がれていた。だが、その傍らには、いかにも押しの強そうな馬喰が立っており、既に幾人かの武家風の男たちが、値の交渉をしているようだった。
「あの馬、良さそうにございますが……競り合いになりましょうか」竹千代は慎重に様子を窺った。この馬市で、いかに良き馬を、いかなる値で手に入れるか。これまでの地ならしの経験を活かせるかどうかが、今、試されようとしていた。
二
竹千代は平蔵に目配せし、頷いた。「まずは、市全体を見て回りとうございます。……あの馬に気を取られ、他の良き馬を見落としては、元も子もございませぬ」
それには平蔵もすぐに同意し、二人は先ほどの人だかりから離れ、市の奥へと歩を進めた。あちこちに馬が繋がれ、それぞれの馬喰が声を張り上げて客を呼び込んでいた。竹千代は一頭一頭、注意深く検分しながら歩いた。毛艶、脚の運び、耳の動き。老爺から教わった心得を思い出しながら、竹千代なりの目で、馬の善し悪しを見極めようとした。
「あの馬は、いささか脚が細うございますな」竹千代が一頭を指して呟くと、平蔵も頷いた。「うむ、荷を引かせるには不向きであろう。……されど、乗り心地は良いやもしれぬ」
しばらく歩くと、市の隅の方に、これといって目立たぬ様子で繋がれている一頭の馬に、竹千代の目が留まった。栗毛の、中躯の馬であった。「平蔵殿、あれは、いかがでございましょう」
平蔵は近づき、馬の目つきをじっと見つめた。しばらく無言で観察した後、頷いた。「……悪くない。目に落ち着きがある。耳の動きも、過度に神経質ではない。人に慣れておるように見える」
竹千代も馬に近づき、そっと首筋を撫でてみた。馬は驚いた様子もなく、竹千代の手を受け入れるように、ゆっくりと瞬きをした。「……この馬、大人しゅうございますな」
三
馬の傍らに座っていた、初老の馬喰が声をかけてきた。「お目が高いですな、若様。……この馬、歳はいっておりますが、気性は穏やかで、荷運びにも、乗るのにも重宝いたしますぞ」
竹千代は馬喰の言葉を、そのまま鵜呑みにはせず、慎重に問いを重ねた。「歳は、いかほどか」
「九つにございます」馬喰は正直に答えた。「若い馬のような勢いはございませぬが、その分、扱いやすうございましょう」
竹千代は平蔵と目を見交わした。平蔵は小さく頷いた。「初めて馬を飼うそなたにとっては、この程度の落ち着いた気性の方が、良いやもしれぬ」
竹千代は先ほど見た、艶やかな毛並みの馬のことを思い返した。あちらは若く血気盛んな様子で、競り合いになるほどの人気があった。だが、初めて厩に迎える馬として、そこまでの勢いが必要かどうかは、また別の話であった。「平蔵殿、それがしは、この栗毛の馬が、当家には合うておるように思えます。……値の話、進めてもよろしゅうございましょうか」
平蔵は隻眼を細め、口元に微かな笑みを浮かべた。「うむ、儂もそう思う。……じゃが竹、値の駆け引きは、そなたの得手であろう。存分にやってみせよ」
竹千代は懐の小袋の重みを指先で確かめ、小さく息を吐いてから、馬喰との交渉に臨む構えを整えた。市のざわめきの中、これまでの荷送りや商いで培った算段の力を、いよいよ発揮する時が来ていた。




