第四十一話 牙と便り
一
翌朝、竹千代は昨日のはしゃぎようが嘘のように、静かな面持ちで牙の手入れをしていた。血抜きの折に平蔵が丁寧に外しておいてくれた牙を、丹念に磨き、汚れを拭い落としていく。松丸が文机から顔を上げ、その様子を眺めた。「随分と念入りじゃな」
「甚助殿への礼にございます。……あの見事な腕あってこその厩普請にございました。この牙、良き細工物になりましょう」竹千代は牙の表面を布でこすりながら答えた。
松丸は立ち上がり、竹千代の手元を覗き込んだ。「なるほど、これは確かに立派な牙よ。……昨日、そなたが平蔵殿に申しておった、甚助殿への礼の一件じゃな。ならば、儂も添え状をしたためよう」松丸は文机に向き直り、筆を執った。「甚助殿へ、厩普請の骨折りへの謝意と、此度の大物の牙を贈る旨、丁重にしたためねばな」
竹千代は牙を検分し終えると、丁寧に紙に包んだ。「兄上、この包み、どなたかに届けていただくことになりましょうか」
「うむ、作造に頼もう。……ついでに、木材の調達で世話になった商人衆にも、何ぞ礼の品を考えねばならぬな」松丸はそう言いながら、添え状の文言を練り始めた。
二
竹千代は牙の包みを膝の上に置き、松丸の書く文字を横目に眺めながら、静かに時を過ごしていた。その様子を、廊下から通りかかったお妙が見つけ、思わず足を止めた。
「まあ……」お妙は口元に手を当て、くすくすと笑い出した。
竹千代が顔を上げた。「お妙、何がおかしい」
「いえ、その」お妙は笑いを堪えながら答えた。「昨日、兄上様と廊下を駆け回り、弥左衛門様に叱られておいでだった若様が、今日はこうして、静かに牙を磨いておられる。……あまりの違いに、つい」
松丸も筆を止め、思わず噴き出した。「確かに、な。昨日のあの騒ぎようからは、とても想像がつかぬ落ち着きぶりよ」
竹千代は少し決まり悪そうに、牙の包みを撫でた。「……昨日は昨日、今日は今日にございます。甚助殿への礼は、きちんと為さねばなりませぬゆえ」
お妙はなおも声を殺して肩を震わせながら、袖で口元を押さえた。「若様は、まことに、切り替えの早いお方にございますね。……はしゃぐ時は思う存分はしゃぎ、為すべきことは、また別に、きちんと為される」
「それは、褒めておるのか、からこうておるのか」竹千代が問い返すと、お妙はますます肩を震わせた。「両方にございますよ」
松丸も笑いながら、書き上げた添え状を竹千代に手渡した。「よし、これで良かろう。……竹千代、そなたのその落ち着きよう、儂も見習いたいものじゃ」
「兄上こそ、昨日は誰よりもはしゃいでおいででしたぞ」竹千代がやり返すと、居室にはまた、三人分の笑い声が明るく響いた。竹千代は牙の包みと添え状を丁寧に重ね、作造に届けを頼むべく、静かに腰を上げた。
三
牙の贈り物を作造に託して数日が過ぎた頃、屋敷にはまた穏やかな日常が戻っていた。塩漬けにした猪肉は少しずつ商いに回され、お蘭の見立て通り、大物の珍しさも手伝って、拳母の商人衆からは、これまでにない良い値がついた。松丸はその余勢を駆って、木材調達で世話になった商人衆にも、猪肉の一部を礼として贈った。
竹千代は老爺のもとへ通い、馬の世話の初歩を、実地で少しずつ教わり始めていた。平蔵との朝稽古も、いつも通りの調子で続いていた。双燕で心を整え、槍で殺意を込める型は、未だ震えに呑まれる日もあったが、それでも以前よりは、少しずつ竹千代の中に馴染みつつあった。
そうして、ある朝、松丸が急いた様子で竹千代の部屋を訪れた。「竹千代、佐平次殿より、思いがけぬ文が届いた」
あの郡代役所で蔵田が佐平次を人前で詰った一件以来、竹千代はその後の様子を案じつつも、性急に動くべきではないと自らを戒めてきた。それだけに、この文の報せには、思わず身を起こさずにはいられなかった。「いかなる文にございますか」
松丸は文を差し出した。「……佐平次殿、近々、蔵田様の甥御、新之丞殿と共に、当家へ挨拶に伺いたいとのことじゃ」
竹千代の指先が、文の上でわずかに強張った。「新之丞殿と、共に……にございますか」
四
竹千代は文を読み進めた。佐平次の丁寧な筆致で、日頃の礼を述べた後、新之丞が「阿久居家の律儀な家風を、直に学びたい」との意向を示し、蔵田重蔵もこれに異を唱えなかった旨が記されていた。文の端々には、佐平次自らが望んで申し出たというより、蔵田の意を汲まざるを得なかったような、遠慮がちな筆致が滲んでいた。
「これは……いかなる肚と見るべきでございましょう」竹千代は文を畳みながら、慎重に問うた。
松丸は腕を組んだ。「額面通りに受け取れば、新之丞殿が阿久居家に関心を持ち、それを蔵田様が許した、ということになろう。……じゃが、佐平次殿とて、本意ではあるまい。蔵田様の顔を立てねば、また要らぬ角が立つ。……そう思うての申し出やもしれぬ」
「蔵田殿が、我らの出方を探るために、新之丞殿を送り込んできたということも、考えられましょう」竹千代は続けた。「あるいは、新之丞殿自身が、まことに何かを学びたいと望んでのことやもしれませぬ。佐平次殿は、その板挟みで、断り切れなんだ、というのが、最も実の情に近いようにも思えます」
松丸は頷いた。「三通りの読みが立つ、ということか。……いずれにせよ、この訪問、受けるべきか否か、父上にお諮りせねばなるまい」
竹千代は文を膝の上に置いたまま、しばし思案した。名簿の重荷は当面退いたとはいえ、蔵田重蔵とその甥という影は、まだ完全に消えてはいなかった。この訪問をどう受け止め、どう対応するか。これまでの地ならしの延長線上にある、しかし新たな判断が、今、竹千代たちに求められていた。




