第四十話 蝉と仕返し
一
台所の片付けが一段落した頃、竹千代はお妙にこっそりと耳打ちした。「お妙、少々耳を貸してくれぬか。……先ほどのお返しに、兄上に一つ、悪戯を仕掛けてみとうござる」
お妙は目を丸くしたが、すぐに悪戯っぽい笑みを浮かべた。「まあ、若様がそのようなことを仰るとは。……して、いかなる悪戯にございますか」
「兄上は、虫が苦手であったな。……夏の頃、裏山で拾うて手箱にしまっておいた油蝉の抜け殻がある。あれを、文机の引き出しにでも忍ばせておこうかと思うのじゃ」竹千代は声を潜めて続けた。
お妙は袖で口元を覆い、肩を震わせた。「それは……松丸様、さぞ驚かれましょうね」
二人はこっそりと竹千代の部屋へ回り、手箱の中から油蝉の抜け殻を一つ取り出した。お妙が松丸の居室の文机まで先に忍び込み、引き出しの中にそっとそれを忍ばせた。竹千代は廊下の陰から様子を窺いながら、笑いを堪えるのに苦労していた。
二
しばらくして、松丸が居室に戻り、帳面を取り出そうと引き出しを開けた。「うわっ!」松丸の悲鳴じみた声が廊下まで響き渡った。竹千代とお妙は思わず顔を見合わせ、堪えきれずに笑い出した。
「竹千代! これはそなたの仕業か!」松丸が引き出しを持ったまま、憤然と廊下へ飛び出してきた。竹千代は逃げるどころか、腹を抱えて笑い転げていた。「兄上の、あの……あの声、まことに聞き物にございました!」
「よくも、儂を虫で驚かせたな!」松丸はそう言いながらも、次第に口元が緩み、ついには自分でも噴き出してしまった。「じゃが、儂とて黙ってはおらぬぞ。今度はそなたの布団に、蟾蜍でも忍ばせてやろうか」
「ひ……蟾蜍、ですと、それはあまりに卑怯にございます、兄上! それも寝込みを襲うとは、正々堂々の勝負とは申せませぬ!」蝉の抜け殻で驚かせておいて何を言うか、と己でも思わぬではなかったが、竹千代はそれを脇に置き、なおも声を張り上げた。二人は追いかけっこのように廊下を駆け回り始めた。お妙も笑いながら、二人の後を追いかけていた。廊下の障子が、二人の足音と笑い声で、かたかたと震えた。
三
「これ、いい加減にせぬか!」
弥左衛門の一喝が、廊下の奥から響き渡った。竹千代と松丸は、ぴたりと足を止めた。振り返ると、弥左衛門が険しい顔で居室の戸口に立っていた。「先ほどはお蘭に叱られたばかりと聞いたが……今度は儂の居室の前で、これほどの騒ぎとは何事じゃ」
竹千代と松丸は、揃って肩をすくめた。「……申し訳ございませぬ、父上」
弥左衛門はしばし二人を睨みつけていたが、やがて深いため息をついた。「よいか、二人とも。此度の名簿の一件、あれほどの重荷を乗り越えたばかりぞ。……羽目を外すのも大概にせよ」
「はい」二人は同時に頭を下げた。お妙は少し離れたところで、申し訳なさそうに小さくなっていた。
弥左衛門はそこでふと、二人の様子を見比べ、口元にわずかな緩みを見せた。「……じゃが、まあ。そなたらがそれだけ気安うしておるということは、この家が、それだけ落ち着いておるということでもあろうな」
竹千代は父の言葉に、少し驚いて顔を上げた。松丸も同じように、意外そうな顔をしていた。弥左衛門は咳払いを一つし、いつもの厳めしい顔に戻った。「じゃが、次に儂の前でこの騒ぎをしたら、稽古を三倍にするからな。心得よ」
「はい、心得ましてございます!」竹千代と松丸は、慌てて声を揃えた。弥左衛門が居室に戻っていくのを見送りながら、二人はしばし黙り込んでいたが、やがて松丸がぼそりと呟いた。「……そもそも、蝉の抜け殻など仕込むそなたが悪い」
「兄上が儂の布団に蟾蜍なんぞを忍ばせると申したのが、悪うございましょう」竹千代も負けじと言い返した。
「何を申すか」松丸が片眉を上げ、じろりと竹千代を睨みつけた。竹千代もまた、負けじと睨み返す。二人はしばし睨み合っていたが、どちらからともなく噴き出し、今度は声を潜めて笑い合った。茜色の夕暮れが、屋敷全体を包んでいった。




