第三十九話 猪、還る
一
竹千代は作造たちと共に、山刀と縄、担ぎ棒を携えて再び裏山へと入った。息はまだ整いきっていなかったが、平蔵を一人残しているという思いが、竹千代の足を再び前へと動かした。獣道を戻ると、平蔵が猪の死骸の傍らで、手際よく血抜きの処置を終えたところだった。
「戻ったか」平蔵は竹千代の様子を一瞥し、隻眼を細めた。「その息の乱れよう、よほど急いだと見える」
「はい。……作造たちを連れて参りました」竹千代はそう言うと、作造や村の男たちと共に、担ぎ棒に猪を括り付ける作業にかかった。巨体は思いのほか重く、縄を幾重にも回してようやく担ぎ棒に据えることができた。皮を傷めぬよう縄をかける手順は、平蔵の指図によって滞りなく進められた。
帰り道、竹千代も担ぎ棒の端を担ぐ手伝いをしながら、額の汗を拭った。「平蔵殿、此度もまた、お力添えをいただきましてございます」
「なに、そなたの旋風槍あっての獲物よ」平蔵は淡々と答えたが、その声には確かな満足が滲んでいた。
二
屋敷に戻ると、猪の巨体は土間の脇に運び込まれ、お蘭が早速その様子を検分しに現れた。「まあ……これは、また随分と大きな」お蘭は目を見開き、感嘆の声を漏らした。
竹千代は汗を拭いながら、お蘭のもとへ歩み寄った。「母上、この大物、いかにすれば商いに活かせましょうか。……これまでの猪よりも、遥かに量が多うございます」
お蘭はしばし猪を検分し、それから思案するように顎に手をやった。「これほどの量となれば、これまでの拳母の商人衆への卸し先だけでは、さばききれぬかもしれません。……いっそ、良き部位は塩漬けにして日持ちさせ、少しずつ商いに回すのはいかがでしょう」
「なるほど、塩漬けにございますか」竹千代は頷いた。「されば、傷みやすい部位は先に商いへ、日持ちする分は蓄えとして残せましょう」
お蘭は続けた。「それに、これほどの大物と分かれば、商人衆も、これまでとは違う値をつけてくださるやもしれません。……珍しき大物として、話の種にもなりましょうから」
竹千代はその言葉に、はっとした。「大物であることそのものが、値打ちになる、ということにございますな」
お蘭は柔らかく微笑んだ。「あなたの商いの才は、母よりもよほど確かなものですよ。……ただ、母にも、母なりの見立てというものがございます」
竹千代は素直に頭を下げた。「母上のお見立て、まことに頼りになります。……この大物、母上のお力添えあってこそ、無駄なく活かせましょう」
土間に運び込まれた猪の巨体を前に、竹千代とお蘭は、しばしの間、商いの算段を語り合った。
三
その翌日、老爺の小屋へ肉を届けた帰り、竹千代は母屋へと戻った。台所では、お妙が塩漬けの下拵えを手伝っていた。「お妙、聞いてくれ」竹千代は弾んだ声で駆け寄った。「昨日の大物、平蔵殿と共に仕留めた猪だが、老爺にも肉を分けて参った」
お妙は手を止め、驚いたように振り返った。「まあ、若様。……あの大きな猪、若様が仕留められたのですか」
「うむ! これまでとは比べ物にならぬ大物であった」竹千代は身振り手振りを交えながら語り出した。「手負いの猪でな、鼻先に古傷があって、それはもう恐ろしい面構えで……旋風槍を放った刹那の、あの手応え、まるで違うたのじゃ! 平蔵殿も、久方ぶりに見た大物じゃと申された」
お妙は目を丸くしながらも、竹千代の勢いに、思わず頬を緩めた。「それは、まことに大したものにございますね」
そこへ、ちょうど文机から離れた松丸が、廊下から顔を出した。「何を騒いでおる」
「兄上!」竹千代は待ってましたとばかりに松丸を手招いた。「昨日の猪、老爺にも肉を分けて差し上げたのですが、老爺の喜びようといったら……! それに、母上の商いの見立ても、まことに冴えておりました。塩漬けにすれば、これほどの大物でも、無駄なく活かせると」
「おお、それは重畳! さすがはそなたと母上じゃ」松丸も釣られて声を弾ませ、二人はすっかり意気投合し、猪の大きさ、旋風槍の冴え、老爺の驚いた顔と、あれこれ勢いのままに話し込み始めた。竹千代は身振りを交えて猪の大きさを示そうと両腕を広げ、松丸もまた「そこまで大きかったか」と声を張り上げる始末で、台所はすっかり二人のはしゃぎ声で満ちていった。
四
「これ、二人とも。……声が大きゅうございますよ」
不意に響いた低い声に、竹千代と松丸は同時に振り返った。お蘭が土間の入り口に立ち、腕を組んでこちらを見つめていた。「猪を仕留めたことも、老爺への心遣いも、確かに喜ばしきことです。……されど、それを台所で子供のように騒ぎ立てるのは、いかがなものでしょう」
竹千代は思わず首をすくめた。「……申し訳ございませぬ、母上」
松丸も同じように肩を落とし、決まり悪そうに頭を掻いた。「いや、これは……つい、勢いに任せてしもうた」
お蘭は二人を交互に見て、小さく息を吐いた。「厩の普請の折も、書状の折も、あれほど落ち着いて物事を運んでいたお二人が、猪一頭でこの騒ぎよう。……使用人たちも、驚いておりましたよ」
お妙が思わず、袖で口元を隠しながら笑いを堪えていた。竹千代はその様子に気づき、ますます居心地悪そうに縮こまった。「……面目次第もございませぬ」
お蘭はしばらく厳しい顔を保っていたが、やがてふっと表情を緩めた。「まあ、それだけ喜ばしいことがあったということでしょう。……ただ、次からは、いま少し落ち着いて話してくださいね」
「はい、肝に銘じまする」竹千代は殊勝に頭を下げた。松丸も同じように頷いた。「母上の仰る通りにございます」
お蘭は二人を見て、小さく笑みを浮かべた。「それにしても、竹千代がそこまではしゃぐ姿、久しく見ておりませんでしたよ。……厩のこと、猪のこと、この頃は良きことが続いているようで、母も嬉しく思います」
その言葉に、竹千代の頬が緩んだ。「母上……」
「さあ、二人とも。塩漬けの支度、まだ途中ですよ。お妙、手を貸してくれますか」お蘭はそう言うと、いつもの調子で台所の作業へと戻っていった。竹千代と松丸は顔を見合わせ、どちらからともなく、決まり悪そうな笑みをこぼした。
「叱られてしもうたな」松丸が小声で囁いた。
「兄上のせいにございますぞ」竹千代も小声で返し、二人は肩をすくめながら、お蘭とお妙の作業を手伝うべく、台所の隅へと腰を落ち着けた。晩秋の淡い光が土間に差し込み、賑やかな午後の時間が、穏やかに流れていった。




