第三十八話 山の恵み
一
平蔵が猪の血抜きの下拵えを終える頃、竹千代はようやく落ち着きを取り戻し、横たわる巨体を見下ろしながら口を開いた。「これほどの大物、ただ肉として食するだけでは、あまりに勿体のうございます。平蔵殿、いかにすれば、この猪、余すところなく活かせましょうか」
平蔵は猪の体躯を検分しながら、顎に手をやった。「まず肉じゃが、これほどの量となれば、家中だけでは食べきれまい。……そなたの母上が始めた猪肉の商いに、そのまま卸せるのではないか」
竹千代は膝を打った。「なるほど! 母上の商いに乗せれば、良き値がつきましょう。……皮はいかがでございましょう」
「皮は、鞣せば厚手の敷物や、刀の下緒にも使えよう」平蔵は続けた。「牙も、これほど立派なものならば、細工物として値打ちが出るやもしれぬ」
竹千代は次々と浮かぶ思案を、指を折りながら数えた。「肉は商いへ、皮は鞣して普請の折の敷物か、あるいは商人衆への土産にも使えましょう。牙は……そうじゃ、甚助殿への礼として贈るのはいかがでございましょう。厩普請での骨折りに報いる、良き品になりましょう」
平蔵は竹千代の勢いに、思わず苦笑を漏らした。「竹、そなた、猪を仕留めた直後から、もう算盤を弾いておるのか」
「これも、井堰改修の折より変わらぬ性分にございます」竹千代は照れくさそうに笑いながら答えた。「ただ狩るだけでは、山の恵みに申し訳が立ちませぬ。……骨まで煮出せば、良い出汁も取れましょう。老爺にも分けて差し上げれば、喜びましょうな」
二
平蔵は猪の巨体をあらためて見やり、感慨深げに頷いた。「これほどの大物、儂も久方ぶりに見たわ。……手負いの獣ゆえ、油断すれば大怪我をしかねなんだが、そなたの周到さと旋風槍の冴えがあってこそ、こうして無事に仕留められた」
「平蔵殿の逃走経路の見立てあってこそにございます」竹千代は素直に応じた。「一人では、決してこうはいきませなんだ」
「さて」平蔵は猪の脚に縄をかけながら言った。「この大物、二人だけで担ぐには、いささか重かろう。……作造にも手を借りるべく、誰ぞ呼びに走らせねばなるまいな」
竹千代は頷き、懐から手拭いを取り出して額の汗を拭った。この大物の恵みが、家族や村の者たちに、どれほどの喜びをもたらすかを、静かに思い描いていた。
「平蔵殿、死骸の傷みを防ぐ手当て、お願いできましょうか。……拙者、急ぎ家の者を呼んで参ります」竹千代はそう言うと、返事を待たずに身を翻した。
「うむ、承知した。……気をつけて参れ」平蔵の声が背中に届いた頃には、竹千代はもう獣道を駆け出していた。
三
木々の間を縫うように、竹千代は全力で山を下った。息が上がり、脇腹が痛んだが、大物を担ぎ出す刻限を思えば、足を緩める気にはなれなかった。木の根に何度も足を取られそうになりながらも、これまでの武芸の稽古で鍛えた足腰が、竹千代を支えていた。
裏山の入り口が見え始めた頃には、既に汗が全身を濡らし、喉が焼けるように渇いていた。それでも竹千代は速度を落とさず、屋敷の門をくぐった。「作造! 誰か!」声を張り上げると、庭先で薪を割っていた作造が驚いて振り返った。
「若様、いかがなされました!」作造が斧を置いて駆け寄ってくる。竹千代は肩で息をつきながら、途切れ途切れに告げた。「裏山に……大物の猪じゃ……手負いの、大きなやつを……平蔵殿と共に、仕留めた……担ぎ出す手を、貸してくれ」
作造は目を丸くしたが、すぐさま頷いた。「かしこまりましてございます! すぐに人手を集めて参ります!」
四
騒ぎを聞きつけ、松丸も母屋から飛び出してきた。「竹千代、何事じゃ」竹千代の息の乱れように、松丸は一瞬顔色を変えた。
「大事ございませぬ、兄上」竹千代は荒い息の合間に答えた。「裏山にて、これまでにない大物の猪を仕留めましてございます……平蔵殿が、今、死骸の手当てをしてくださっておる。……人手が要ります」
松丸は安堵の息をつき、すぐさま声を張り上げた。「作造だけでは足りぬ。……もう二人、村の者に声をかけよ! 山刀と猪を括り付ける丈夫な縄、それに担ぎ棒を準備せよ!」
弥左衛門も騒ぎに気づき、縁側に姿を現した。「竹千代、無事か」
「はい、父上。……大物を仕留めましてございます」竹千代はようやく息を整えながら、誇らしさを隠しきれぬ声で答えた。
弥左衛門は驚いた顔をしたが、やがて口元に笑みを浮かべた。「よし、良い働きよ。……疲れておろう、まずは水を飲め」
お蘭とお妙も騒ぎに気づいて出てきており、お妙が台所で汲み置いていた水を急ぎ椀に注ぎ、竹千代に差し出した。竹千代はそれを一息に飲み干し、荒い呼吸の下で笑みを浮かべた。「かたじけない……ようやく、息が整うた」
作造たちが裏山へと向かう支度を整える間、竹千代は汗を拭いながら、平蔵の待つ山中へ思いを馳せた。走り抜いた疲れの中にも、確かな充実が、竹千代の胸に満ちていた。
水を飲み干すと、竹千代はすぐに踵を返した。「父上、拙者も戻ります。……平蔵殿がお一人にございますゆえ」
弥左衛門は頷いた。「うむ、行け。じゃが、無理はするでないぞ」




