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三河の片隅で、家族を守る――その名はまだ誰も知らない  作者: 可可多


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第三十七話 大猪、仕留める


一


厩が完成してから半月ほどが過ぎた、ある朝のことだった。竹千代は平蔵と共に、裏山の際に仕掛けた罠の検分に出向いていた。厩に迎える馬の目処はまだ立っていなかったが、その前に、冬支度の食い扶持を蓄えておく必要があった。


朝靄がまだ木々の間に纏わりつき、落ち葉を踏む足音だけが、やけに大きく響いていた。罠場に近づくと、平蔵の足がふと止まった。「竹、あれを見よ」


罠は無残に踏み荒らされ、仕掛けた縄も食いちぎられたまま、獲物の姿はなかった。平蔵が指し示す先、その罠場から少し離れた藪の陰に、一頭の猪が蹲っていた。並のものより一回り大きく、鼻先には古い矢傷とみえる痕が残っている。手負いの獣は、往々にして人を恐れぬ。痛みを知るゆえに、かえって獰猛になるのだと、竹千代は平蔵からかつて教えられたことがあった。あの罠を蹴散らしたのも、この猪の仕業に違いなかった。


竹千代は声を潜め、平蔵に囁いた。「平蔵殿。……仕留めるならば、今のうちにございます。されどまずは、我らの立つ位置と、あの猪の位置を今一度、確かめておきとうございます」


平蔵は隻眼を細め、周囲を見渡した。「うむ。……儂らの後ろは、あの太い樫の木まで開けておる。万一しくじった折は、あそこまで退けば、木を盾にできよう」平蔵は指先で、逃げ場となる方角を示した。「猪の逃げ道は、あちらの茂みの切れ目一つのみ。追い詰めれば、あの隙間から突っ込んでくるはずじゃ」


竹千代は頷き、槍を構え直した。「ならば、拙者は旋風槍にて、全力で仕留めに参りとうございます。……平蔵殿には、万一躱しきれなんだ折の助勢と、逃走経路の見張りをお願いしとうございます」


平蔵はしばし竹千代の顔を見つめ、それから静かに頷いた。「よかろう。……じゃが竹、旋風槍を全力で放つとなれば、そなた自身の隙も大きゅうなる。外せば、次の一手が遅れよう。心してかかれ」


「承知しております」竹千代は腹の底に力を込め、静かに息を整えた。旋風槍は、竹千代が弓の苦手を補うために編み出した、遠間を制する技であった。手負いの大物を相手にするならば、この一撃に賭けるのが最も確かな道だと、竹千代は判断していた。


二


平蔵が茂みの脇へと静かに回り込み、逃走経路を塞ぐ位置に立った。「今じゃ、掛かれ」その声を合図に、竹千代は摺り足で、じりじりと間合いを見極めていった。土を踏む足の裏に、冷たい朝露の湿り気が伝わってくる。


猪は鼻先を土に埋め、傷んだ体を休めるように蹲っていたが、その耳だけは絶えずぴくぴくと動き、油断なく周囲を窺っていた。旋風槍の間合い、およそ十五間。竹千代はそこで歩みを止め、槍を低く構え、丹田に力を込めた。風の音、己の心の臓の音、そして猪の荒い鼻息。すべてが研ぎ澄まされていくような感覚の中、竹千代はついに、地を蹴った。


旋風槍の理は、体全体の旋回力を穂先の一点に集める型であった。竹千代の体が独楽のように回転し、その勢いのすべてを乗せた穂先が放たれる。


猪が異変に気づき、頭を上げたのは、まさにその瞬間であった。だが、体の向きを変え、こちらへ完全に向き直るには、まだ一呼吸分の間があった。その一呼吸の隙を、竹千代の穂先は見逃さなかった。旋回半ばの無防備な脇腹へ、穂先は深々と突き刺さり、獣の甲高い悲鳴が山中に響き渡った。


手傷を負った猪は、なおも体勢を立て直し、痛みに任せてこちらへ向き直ろうとした。だが、平蔵が素早く間合いに入り、伸び上がった喉元に狙い澄ました一撃を叩き込んだ。頸を貫かれた巨体が、どうと音を立てて地に沈んだ。あたりに、しばしの静寂が舞い戻った。木々の隙間から漏れる光だけが、何事もなかったかのように、二人の足元をちらちらと照らしていた。


竹千代は肩で大きく息をつきながら、思わず声を弾ませた。「ふう……平蔵殿! 何とかなりましたな!」


平蔵は隻眼を細め、口の端にわずかな笑みを浮かべた。「うむ。……そなたの旋風槍、見事な冴えであった。だが、はしゃぐのはまだ早いぞ」


「はい、承知しております」竹千代は頷きながらも、目の前に横たわる巨体を見て、抑えきれぬ高揚を隠せなかった。晩秋の淡い陽光が木々の間から差し込み、仕留めた大猪の毛並みを鈍く照らしていた。


竹千代はしばし、その場に立ち尽くした。二度目の大物とはいえ、この一撃を放つ刹那の重みは、いつも変わらず竹千代の胸を締め付けた。弓では的の隅にすら当てられなかったあの頃を思えば、この技を確かな武器として使いこなせるようになったことに、静かな手応えを覚えずにはいられなかった。


「平蔵殿」竹千代は横たわる猪から目を離さぬまま、口を開いた。「この技、幾度使うても、放つ刹那だけは未だに肝が冷えまする」


平蔵は隻眼を細め、猪の死骸に歩み寄りながら答えた。「それでよいのじゃ。……肝が冷えぬようになった時こそ、恐ろしい。慢心は、いずれ命取りになろうでな」


竹千代は師の言葉を、静かに胸に刻んだ。冷たい朝の空気の中、二人の吐く息だけが白く尾を引いて消えていった。

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