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三河の片隅で、家族を守る――その名はまだ誰も知らない  作者: 可可多


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第三十六話 厩、成る

一


父の許しを得た翌日、竹千代は早速、裏の休耕地へと足を運んだ。老爺が編み続けてきた垣根は、今やすっかり休耕地の一角を囲い、飼葉の草地としての体裁を整えつつあった。


「若様、ようこそ」老爺は皺だらけの顔をほころばせ、腰を伸ばした。「垣根は、ご覧の通り仕上がりましてございます。次は、いよいよ厩の普請にございますな」


「うむ。儂も普請のことには疎くてな」竹千代は休耕地を見渡しながら思案顔になった。「良き差配役はおらぬか」


老爺はしばし考え、やがて膝を打った。「それならば、甚助はいかがにございましょう。村外れに住まう大工でしてな、昔、儂の家の普請を請け負うたこともある男にございます。腕は確かにございますし、口も堅うございます」


数日後、竹千代は甚助を屋敷へ招いた。齢四十ほどの、日に焼けた実直そうな男であった。甚助は休耕地の図面を検分しながら、太い指で地面を示した。


「若様、まずは間取りにございます。馬は何頭ほどをお考えで」


「まずは一頭。いずれ増えることも見越しておきたい」竹千代はそろばんを取り出し、珠を弾きながら答えた。「厩の広さは、馬一頭に必要な間口の倍ほど取っておけば、後々の融通も利こう」


甚助は感心したように頷いた。「なるほど、先を見越しての算段にございますな。承知いたしました。……ただ、この土地、水はけがいささか悪うございます。土台を高う組まねば、雨の折に難儀いたしましょう」


「土台を高く、か」竹千代は顎に手を当てた。「されば、土台の下に砕いた石を敷き詰め、その上に木組みを据えるというのはどうか。石があれば、水も通りやすかろう」


甚助は目を丸くし、それから破顔した。「阿久居様の仰ること、まことに理にかなっておりまする。それがしも、長年の勘だけで組んで参りましたが、阿久居様の理には、なるほどと膝を打つことばかり。……勘と理、両方あれば鬼に金棒にございますな」


二人はその後も、木材の本数、人足の日取り、費えの見積もりを、夕暮れまでかけて練り上げていった。


二


数日後、木材を積んだ荷車が休耕地に到着し、普請が始まった。甚助の指図のもと、老爺や村の若い衆が総出で木組みを組み上げていく。竹千代もまた、暇を見つけては現場に足を運び、進み具合を検分した。


骨組みが半ばまで組み上がったある日、空模様が急に怪しくなった。「阿久居様、これは一雨来ますな」甚助が空を見上げて呟いた。その言葉通り、その夜から数日にわたり、しとしとと冷たい雨が降り続いた。


雨が上がった朝、現場を検分した甚助の顔が険しくなった。「阿久居様、いけませぬ。土台の一角が、雨で緩んだ地に沈み込み、僅かに傾いておりまする」


竹千代は急ぎ駆けつけ、傾いた木組みを検分した。放っておけば、厩全体が歪んでしまいかねない。「甚助、どれほどの傾きか」


「さほど大事には至っておりませぬが、このまま組み上げれば、後々響きましょう」甚助は苦い顔をした。「一度、この一角だけ組み直さねばなりますまい」


竹千代は傾いた土台にしゃがみ込み、地面の湿り具合を指先で確かめながら思案した。「石をさらに厚く敷き詰め、水はけの道を掘って、雨水がこの一角に溜まらぬようにしてはどうか。組み直す手間はかかろうが、この先の憂いを断てよう」


甚助はしばし考え、やがて力強く頷いた。「良き案にございます。人足を集め直し、明日にも取りかかりましょう」


老爺も駆けつけ、「若様、儂も一肌脱ぎましょうぞ」と、皺だらけの手で袖をまくった。数日をかけて、傾いた一角は組み直され、水はけの道も新たに掘られた。竹千代は、思うようにいかぬ普請の難しさを肌身に感じながらも、皆で知恵を出し合い、一つずつ乗り越えていくことの手応えを、確かに噛みしめていた。


三


それから半月ほどが過ぎ、厩はついに完成した。木の香りも新しい厩の前に、家族と平蔵、お妙、そして老爺と甚助が集まっていた。


「見事なものよ」弥左衛門は厩の柱を撫でながら、感心したように呟いた。「これならば、幾年も持ちこたえよう」


お蘭も嬉しそうに厩の中を覗き込んだ。「これで、馬を迎える支度が整いましたね」


松丸は屋根の組み方を検分しながら、「甚助とやら、良き仕事をしたものよ」と労いの言葉をかけた。甚助は照れ臭そうに頭を下げた。「阿久居様の知恵があってこそにございます。それがし一人では、この水はけの工夫までは、思い至りませなんだ」


平蔵は隻眼を細め、厩の骨組みをしげしげと見つめた。「竹…いや、若様。これもまた若様の流儀にございますな。武芸のみならず、こうした普請にまで同じ理が通うておりまする」


竹千代はその言葉に、静かな充実感を覚えた。「流水無形の理は、剣にも槍にも、そして普請にも通ずるのやもしれませぬ。……水は、岩に当たれば迂回し、谷に落ちれば淵を成す。障りがあれば、その都度形を変えて流れを見出す。剣の道も、人の道も、きっと同じことにございます」


老爺は目を潤ませながら、厩の柱をそっと撫でた。「若様、儂はもう歳にございますが、この厩で若様の馬の世話をするのを、楽しみにしておりますぞ」


その言葉に、竹千代は微笑んだ。「老爺には、これからも世話になる。共に、この厩を大事に守り立てて参ろう」


夕暮れの光が、真新しい厩の木肌を橙色に染めていた。竹千代はその光景を眺めながら、名簿の一件そのものは、いまだ心の底に重く沈んだままであることを承知していた。だが、それでも家族それぞれが、自らの持ち場で歩みを進めている。その手応えだけは、確かなものとして胸に刻むことができた。次はいよいよ、この厩に迎える馬を探す番であった。

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