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三河の片隅で、家族を守る――その名はまだ誰も知らない  作者: 可可多


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第三十五話 据え置きの先に

一


その夜、阿久居の館には、久方ぶりに屈託のない笑い声が満ちていた。お蘭は蓄えの中から精一杯の馳走を用意し、弥左衛門は珍しく濁り酒の追加を許した。囲炉裏を囲んで、家族と平蔵が車座になり、お妙もまた給仕をしながら、その輪の端に控えていた。


「竹千代、そなたの弓の下手さが、まさかこれほどの手柄になろうとはな」松丸は椀を傾けながら、からかうような笑みを浮かべた。「あの日、垣根に矢を突き立てたと聞いた時は、腹を抱えて笑うたものよ。あれが、まさか御奉行所の使者殿の心を解きほぐすとはな」


「兄上、その話はもう何度も伺いました」竹千代はむっとした顔をしつつも、その口元には隠しきれぬ笑みが浮かんでいた。「されど、まことに情けなき手柄にございます。お目付けの使者殿にも申した通り、武芸百般を修めたとは、もはや誰の前でも申せませぬな」


お妙は給仕の手を止め、袖で口元を覆いながら、くすくすと笑った。「若様、弓の腕前だけは、これからも精進なさらずとも良いのではございませぬか。この家にとっては、何よりの守り札にございましたもの」


その一言に、座はどっと沸いた。竹千代は頬を膨らませたが、その胸の内には、張り詰めていた日々がようやく緩んでいく安堵が広がっていた。囲炉裏の炭が爆ぜる音と、家族の笑い声が、夜更けの館を暖かく満たしていった。


二


笑いが一段落した頃、松丸は椀を置き、ふと遠くを見るような顔つきになった。「……竹千代。此度の一件で、儂も思い出したことがあってな」


竹千代は箸を止め、兄の顔を見つめた。松丸は少し照れ臭そうに続けた。「一年ほど前の、隣接する郷士同士の用水争い。あの時、儂は力ずくで裁いてやろうと逸っておった。じゃが、ふと思い出したのよ。……そなたが、幾年か前に名主殿との一件で、丁寧に話を集め、語っておった姿をな」


竹千代は思わず息を呑んだ。それは、竹千代自身がまだ幼い頃、手習い仲間から集めた話をもとに、父が隣村の名主と交渉した、あの出来事のことだった。


「あの時のそなたを思い出し、儂は力ではのうて、双方の言い分をじっくりと聞くという道を選んだ」松丸は続けた。「先代同士の口約束が、代替わりで宙に浮いておったという真因を突き止め、証文に改めることで、和解に導くことができた」


竹千代は暫し言葉を失った。「兄上……拙者は、そのようなことがあったとは、露知らず」


「言うほどのことでもないと思うておったのでな」松丸は照れ隠しのように頭を掻いた。だが、ふと表情を改め少し声を落として続けた。「……正直に申せば、そなたの槍や算盤の才を見るたび、儂は己の不甲斐なさに思い悩んでおった。剣では届かぬ。ならば儂は何をもってこの家に仕えるのかと」


竹千代は息を呑んだ。兄がそのような思いを抱えていたとは。竹千代はただ、兄の背中を見て追いかけていただけだった。


「じゃが、件の用水争いでふと気づいたのよ」松丸は続けた。「そなたの背中を見て、儂もまた何かを受け取っておったのだと。そなたが名主殿と言葉を交わす姿を、儂はずっと見ておった。……それを、儂なりの形で使うておったのよ」


弥左衛門は静かにその話に耳を傾けていたが、やがて感じ入ったように呟いた。「そうか。……あの一件が、そのように繋がっておったとはな」


竹千代の胸に、じんわりと温かいものが広がった。兄が、竹千代の知らぬところで竹千代の背中を見て、何かを受け取っていた。そのことだけは、確かに伝わってきた。兄がそれをどう思い、どれほど悩んだのか竹千代には知りようもない。だが、その見えぬ重みごと兄は竹千代の前に立っていてくれたのだ。


三


囲炉裏の火が、家族の顔を静かに照らしていた。弥左衛門はしばし黙り込んでいたが、やがて改まった声で口を開いた。「竹千代、松丸。……この機に、儂からも話しておきたきことがある」


座の空気が、僅かに引き締まった。弥左衛門は膝の上で手を組み、静かに語り始めた。「そなたが、蔵で見つけた伯父・伊之助の対の短剣を継いだ折、儂はいつか、そなたと松丸が、儂と伊之助のような絆を結んでくれることを願うておった。……じゃが、此度の話を聞き、儂は思い違いをしておったと悟った」


「思い違い、にございますか」竹千代が問うと、弥左衛門は深く頷いた。


「絆というは、同じ形をしておらねばならぬものではない。儂と伊之助は、剣という同じ道を歩むことで結ばれた。じゃが、そなたたちは、剣ではのう、互いの知恵と姿を見つめ合うことで、確かに結ばれておった。……それもまた、掛け値なしの絆であろう」


竹千代は胸を突かれる思いがした。松丸もまた、目を伏せ、暫し言葉を失っているようだった。


弥左衛門は続けた。「松丸。短剣はすでに竹千代の手にある。それを取り上げるつもりも、詫びるつもりもない。……じゃが、そなたには、短剣とは別の重みのものを継がせようと思う。この家の行く末そのもの、当主としての座、それを支える者たちとの結びつき。それを、儂はそなたに託したい」


松丸は顔を上げ、父をまっすぐに見据えた。「父上……」


「案ずるな。それは、剣の腕に劣ることの埋め合わせなどではない」弥左衛門は静かに、しかし力強く言い切った。「そなたが此度のように、人の話に耳を傾け、真因を見極め、和解へと導く力を持つ者だからこそ、儂はそなたに家督を託したいのじゃ」


その言葉に、松丸の目に、隠しきれぬ光るものが滲んだ。「……かたじけのう存じます、父上」


四


しばしの沈黙の後、竹千代は居住まいを正し、深く頭を垂れた。「父上、兄上。拙者からも、一言申し上げとうございます」


一同の視線が竹千代に集まった。竹千代は静かに、しかしはっきりと告げた。「拙者は、兄上をお支えするため、これよりも力を尽くす所存にございます。槍でも、剣でも、算盤でも、拙者にできることであれば、何なりと」


松丸は目を丸くし、それから照れ臭そうに笑った。「大層な物言いよの。……じゃが、頼りにしておるぞ、竹千代」


弥左衛門は満足げに頷き、それから、ふと思い出したように付け加えた。「そういえば、竹千代。先だって申しておった、裏の休耕地を厩に作り替える一件。あの折は、目立つ真似を慎むべしと止め置いたが、そなたの先陣供出の儀もひとまず据え置きとなった今、少しは進めても良かろう。垣根も大方仕上がったと聞く。そろそろ次の段、厩の普請へ進めてみよ」


竹千代は顔を輝かせた。「まことにございますか」


「うむ。じゃが、あまり急いては、また何ぞ言われかねぬ。あくまで、無理のない範囲でな」弥左衛門はそう釘を刺しつつも、その口元には、次男の喜ぶ顔を見る父親らしい柔らかさがあった。


「かしこまりましてございます」竹千代は深く頭を下げた。名簿の一件、殺意への恐怖、佐平次の窮地。抱える課題はまだ幾つも残っている。だが、この夜だけは、家族それぞれが互いの重みを認め合い、支え合っているという確かな手応えを、竹千代は静かに胸に刻んでいた。


囲炉裏の火は、夜が更けるまで、家族の団欒を暖かく照らし続けていた。

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