第三十四話 書状に込めるもの
一
使者が去った翌日、阿久居の広間には、弥左衛門を上座に、お蘭、松丸、竹千代、そして平蔵までもが顔を揃えていた。囲炉裏の炭が静かに爆ぜる音だけが、しばらくの間、座を満たしていた。
「先陣供出の意向、いずれ正式な触れとして参ろう」弥左衛門は、使者が去り際に残していったその一言を、重々しく繰り返した。「……名簿の一件、忘れたわけではあるまい。拳母の奉納組太刀での働きが、名指しで記されておるという、あの一件じゃ。此度の先陣供出も、竹千代、そなたを見据えてのことと見て、まず間違いあるまい」
お蘭の顔から、みるみる血の気が引いていった。竹千代は膝の上で拳を握りしめ、じっと畳の一点を見つめた。齢十一、いまだ元服にも至らぬ身であるとはいえ、名簿にひとたび名を刻まれた以上、いずれその日が来ることは、竹千代自身も薄々覚悟していたことだった。
「父上」竹千代が口を開いた。「今川様の意向に、正面から逆らうことは能いませぬ。されど、指をくわえて待つのみというのも、あまりに芸がございませぬ」
弥左衛門は眉を上げた。「何ぞ、思うところがあるのか」
「文をしたためては、いかがでございましょう」竹千代は膝を進めた。「先陣供出の触れが正式に下る前に、こちらから一足先に、御奉行所へ書状を差し出すのです。頭ごなしに拒むのではなく、当家の事情をあらかじめお耳に入れておく。……その方が、後々の話の運びも、幾分か柔らこうなるやもしれませぬ」
平蔵が腕を組んだ。「先手を打つ、ということにございますな」
「はい」竹千代は頷いた。「今川様のご意向に逆ろうつもりは毛頭ございませぬ。ただ、拙者はいまだ元服にも至らぬ身。当家がこれまで律儀に奉公を重ねてきたことと合わせ、この身がまだ家の内でなさねばならぬ役目があるという事情を、今のうちに知っていただきたいのです」
弥左衛門はしばし黙考し、やがて重く頷いた。「……やってみるがよい。じゃが、文言には、くれぐれも気をつけよ。今川様に、こちらの都合を押し付けるような真似は、決して許されぬ」
「かしこまりましてございます」
二
その夜、竹千代は文机に向かい、半紙に下書きを重ねていった。井堰改修の功、律儀な年貢の納め、そして先だっての検分で使者から得た温情。それらを一つひとつ書き連ね、最後に、こう締めくくった。
「かかる律儀の奉公に免じ、竹千代儀、いまだ元服にも至らぬ身にて、当分の間は先陣供出の儀、何がしかのお計らいを賜りたく、伏してお願い申し上げ候」
書き終えた文を、竹千代は翌朝、まず父の前に差し出した。弥左衛門はそれを一読し、しばし黙り込んだ後、静かに平蔵を呼び寄せた。平蔵もまた文に目を通し、隻眼を細めて唸った。
「若様。悪くはございませぬ。されど、これでは、いかにも見返りを求めておるように読めましょう」平蔵は苦笑を浮かべた。「それに、己のことを己で請うておるようにも見え申す。あまり良い読み口ではございませぬぞ」
竹千代は虚を突かれた。「……では、この文は、何かを求めておるように見えましょうか」
「『お計らいを賜りたく』とは、つまり、律儀に尽くしてきたのだから、その分の礼をせよと申しておるようなものにございます」平蔵は文机の半紙を指先で叩いた。「今川様からすれば、忠義に値を付けられたようで、決して心地良いものではございますまい」
弥左衛門も頷いた。「儂も、同じことを思うておった。……竹千代、そなたの申す通り、先手を打つこと自体は良い策よ。じゃが、文の中身は、こちらの都合を並べ立てるのではなく、ただ憂いとして記す方が良かろう」
「憂い、にございますか」
「うむ」弥左衛門は続けた。「竹千代が先陣に取られれば、この阿久居の水回りの差配も、帳面仕事も、隣村との折衝も、立ち行かなくなるやもしれぬ。それは当家のみならず、年貢を納める先である今川様にとっても、決して益にはなるまい。……そのように、案じる形で記すのじゃ」
竹千代は暫し言葉を失った。己の書いた文言が、いかに商談じみた響きを帯びていたか、今になって思い知らされた気がした。「……父上、平蔵殿。拙者の浅慮にございました。書き直しまする」
三
竹千代は半紙を新たに取り直し、文言を練り直していった。「律儀の奉公に免じ、お計らいを賜りたく」という一文を削り、代わりに、竹千代がまだ元服前の幼き身でありながら当家の水回りの差配や帳面仕事の一端を担っている実情、それが失われれば当家の律儀な奉公そのものが立ち行かなくなり、巡り巡って御奉行所の勘定にも響きかねぬという「憂い」として、静かに書き連ねていった。
書き上げたものを、再び父と平蔵に見せると、二人は今度は満足げに頷いた。「これならば、卑屈にもならず、驕りもせぬ」平蔵はそう言って、珍しく口元を緩めた。「若様、良き文にございます」
その様子を見ていたお蘭が、遠慮がちに口を挟んだ。「あの、竹千代。……ここの一文、『帳面仕事に障りが出ましょう』とありますが、いっそ『帳面仕事は、他の者ではまだ立ち行きませぬ』としてはどうでしょう。その方が、家の難儀がより伝わるように思うのです」
竹千代はその案に目を見開いた。「母上、それは良き言い回しにございます。さっそく直しましょう」
松丸もまた、文机を覗き込みながら、思案顔で付け加えた。「ならば、儂からも一つ。……先だっての用水争いの仲裁や、隣村との塩の融通の一件も、当家が地道に信を積み重ねてきた証として、一言添えてはどうか」
「兄上、それは」竹千代は半紙に目を落としやがて筆を取って反故の端に走らせた。「……なるほど、これは効きましょう」竹千代は頷き、その一文も書き加えた。家族それぞれの目から見た当家の姿が、一枚の文の中に少しずつ織り込まれていく。竹千代一人の知恵では到底思い至らなかったであろう言葉の数々に、竹千代は素直な感嘆を覚えていた。
四
幾度かの推敲を経て、ついに書状は完成した。弥左衛門が皆の前でそれを読み上げると、広間には静かな沈黙が満ちた。誇張もなく、卑屈でもなく、ただ淡々と、しかし切実に、当家の事情を訴える文言であった。
「良き文じゃ」弥左衛門は満足げに頷いた。「これならば、儂の名で御奉行所に差し出しても、恥ずかしいことはあるまい」
平蔵も静かに頷いた。「若様お一人の知恵では、ここまでのものにはなり申さぬ。……皆で練り上げたからこその、この文にございましょう」
竹千代はその言葉に、深く頭を垂れた。「拙者一人の知恵になど、たかが知れております。……皆様のお力添えあってこそ、この文が仕上がりましてございます」
弥左衛門はその日のうちに、正式な使者を立て、書状を御奉行所へと届けさせた。それから十日ほどの間、阿久居の館には、これまでとは違う種類の静けさが漂っていた。何をするでもなく、ただ返答を待つほかない日々であった。
五
その報せは、思いのほか早く届いた。庭先で竹千代が槍の型を繰り返していると、母屋の方角から、松丸が転がるように駆けてくるのが見えた。
「竹千代! ……据え置きぞ!」
その声には、抑えきれぬ喜びが滲んでいた。竹千代は槍を取り落としそうになりながら、松丸のもとへと駆け寄った。「まことにございますか」
「うむ! 御奉行所より、正式な返答があった。そなたの先陣供出の儀、当分の間は据え置くとの由じゃ!」
その報せに、母屋からはお蘭とお妙の弾んだ声が漏れ聞こえてきた。弥左衛門もまた、珍しく相好を崩し、平蔵は隻眼を細めて何度も頷いていた。
竹千代は胸の奥に、温かいものが広がっていくのを感じた。一人の知恵では成し得なかったこと。家族それぞれの目と言葉が織り重なって、初めて実を結んだ書状。名簿の一件は、まだ完全に片付いたわけではない。だが、少なくとも今は、この安堵を、家族と共に噛みしめていたかった。




