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三河の片隅で、家族を守る――その名はまだ誰も知らない  作者: 可可多


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第三十三話 目付、参上

一


その報せは、前触れもなく届いた。今川方の目付が、阿久居の家を検分に訪れるという。松丸から蔵田重蔵と新之丞の一件を聞き出してから、まだ幾日も経たぬうちのことであった。


「検分、にございますか」竹千代が問うと、弥左衛門は硬い面持ちで頷いた。「うむ。名簿の一件、来春の軍議を前に、いま一度、当家の様子を見定めておきたいということであろう」


その日、館は朝から張り詰めた空気に包まれていた。お蘭とお妙は普段より念入りに広間を整え、松丸は当主の名代として応対する心構えを繰り返し確かめていた。平蔵もまた、常より一段と隙のない佇まいで、詰所から母屋へと移り、控えの間近くに控えていた。


昼四つを過ぎた頃、数名の供を連れた使者が、阿久居の門を潜った。歳の頃は四十がらみ、痩身に鋭い眼光を宿した男であった。弥左衛門が丁重に出迎え、広間へと案内する。竹千代と松丸は、父の傍らに控える形で座に着いた。


使者はまず、型通りの挨拶を交わした後、帳面を広げ、淡々と問いを重ねていった。田畑の実り、年貢の納め具合、家中の人数。そのいずれにも、弥左衛門は落ち着いた様子で答えていったが、使者の眼差しは、次第に竹千代へと向けられるようになった。


「阿久居殿の次男、竹千代殿と申されるか」使者は帳面から顔を上げ、竹千代を正面から見据えた。「井堰の改修に功あり、武芸百般に通じ、算盤も達者。……齢十一の童にしては、些か出来過ぎておるように見受けられるが。何ぞ、仔細でも」


その声には、値踏みするような、あるいは疑うような、鋭い響きがあった。広間の空気が、一段と張り詰めた。弥左衛門の指先が、僅かに強張るのが竹千代の視界の端に映った。


竹千代は一つ息を整えると、腹の底に力を込めて答えた。「井堰の改修は、父や村の者たちと共に知恵を出し合うたに過ぎませぬ。……武芸も、そこな平蔵の教えあってこそのもの。この家に関わる方々のお力添えがあってこそ、些かなりとも役に立てたのだと存じております」


使者はしばし黙って、竹千代の言葉を吟味するように見つめていた。竹千代はそこで一拍置き、あえて肩を落としながら続けた。「……ですが、弓はからっきし上達いたしませぬ」


その一言に、広間の張り詰めた空気が、わずかに緩んだ。使者の眉が、かすかに動いた。「弓が、とな」


「はい」竹千代は悔しさを隠さぬ調子で応じた。「剣も槍も、それなりに人並み以上とは自負しておりますが、弓ばかりは、幾ら稽古を積んでも、的の隅にすら当たりませぬ。……先だっても、的をすっかり通り越して、垣根に突き立てる始末にございました」


使者は一瞬、虚を突かれたような表情を浮かべたが、やがて口の端に、微かな苦笑のようなものを覗かせた。「……垣根に、か」


「はい」竹千代は肩を落としたまま続けた。「これでは武芸百般を修めたとは、口が裂けても申せませぬ。……我ながら、情けなき次第にございます」


使者はしばし黙し、それから帳面へと視線を落とした。「……ふむ。出来過ぎておるかと思えば、案外、抜けたところもあるということか」その呟きには、先ほどまでの鋭さが幾分和らいでいるように、竹千代には感じられた。


弥左衛門は表情を変えぬまま座していたが、その指先の強張りが、わずかにほどけたのが竹千代の視界の端に映った。松丸もまた、微かに安堵の息を漏らしたようだった。


二


使者は帳面を閉じ、しばし竹千代を見つめた後、静かに口を開いた。「その方の噂、いささか大仰に語られておったようじゃな。……井堰の改修も、武芸の披露も、周囲の助けあってのこと。弓ひとつ、まともに扱えぬ者が、何処ぞより仕込まれた間者や透破の類とは思えぬ」


その言葉に、竹千代は内心、深く安堵した。だが表情には出さず、ただ静かに頭を垂れた。「勿体なきお言葉にございます」


使者は弥左衛門へと向き直った。「阿久居殿。この家は、律儀に日頃の暮らしを営んでおるようじゃ。……検分、しかと相済んだ」


弥左衛門は深く一礼した。「ありがたきお言葉にございます」


使者は最後に、竹千代の方をもう一度見やった。「弓は、精進せよ」その一言には、先ほどまでの詮索するような鋭さはなく、ただ淡々と、どこか憐みを含んだ忠告があるのみだった。竹千代は深く頭を垂れた。「はい。……精進いたしまする」


使者一行が広間を辞していく足音を聞きながら、竹千代は肩の力が、ようやく抜けていくのを感じた。松丸が小さく息を吐いた。平蔵は隻眼を細め、微かに頷いた。弥左衛門は、しばし目を閉じたまま動かなかったが、やがて静かに目を開け、竹千代の方を見た。「……よう、凌いだ」


その一言に、これまでの地ならしの日々のすべてが、報われたような心地がした。だが同時に、竹千代の脳裏には、使者が去り際にふと漏らした一言が引っかかっていた。「阿久居殿。……先陣供出の意向、いずれ正式な触れとして参ろう。その折は、覚悟召されよ」


検分は無事に済んだ。だが、名簿の一件そのものが解決したわけではない。むしろ、来春の軍議へ向けた本当の攻防は、これからだと、竹千代は静かに己に言い聞かせていた。

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