第三十二話 真因が見える
一
弥兵衛への礼状を届けさせた翌々日、作造が母屋の裏手からひっそりと戻ってきた。竹千代が声をかけると、作造は荷運びの合間に見聞きしたことを、訥々と語り始めた。
「若様。……弥兵衛様のお屋敷で、待たされておりました折、佐平次殿が文を受け取る場に、たまたま行き合わせましてございます」
弥兵衛が、先だっての礼状に添えて、次の年貢取次の日取りを佐平次に知らせる文を寄越したのだという。作造の見たところ、佐平次はその文を読み終えるなり、表情を強張らせ、しばし庭先で立ち尽くしていたらしい。
「何と申しますか……嬉しがっておられるようにも見えず、さりとて迷惑がっておられるようにも見えず。ただ、ひどく思い詰めたご様子でございました」
作造は自分の見たものをそれ以上大げさに語ろうとはせず、ただ淡々と、見たままを言葉にした。その素朴な語り口だからこそ、竹千代には却って、佐平次の抱える不安の深さが生々しく伝わってきた。
「作造、大儀であった。此度のこと、他言は無用ぞ」
「かしこまりましてございます」
作造が一礼して去っていくのを見送りながら、竹千代は懐で腕を組んだ。弥兵衛の言う「組頭殿とその甥御に関わる一件」が、佐平次の心をこれほどまでに縛っているのならば、この先どう動くにせよ、まずはその正体を突き止めねばならない。
二
その日の夕刻、竹千代は稽古の合間に、平蔵の詰所を訪ねた。「平蔵殿。今川方の組頭というのは、いかなる役目にございますか」
平蔵は槍の手入れの手を止め、片眉を上げた。「急に、また妙なことを聞くのう」
竹千代は、佐平次の一件をかいつまんで語った。話を聞き終えると、平蔵は隻眼を細め、しばし考え込んだ。
「組頭というのは、下役どもを束ねる役目よ。年貢の取次、普請の差配、そうしたものを幾人かの下役に割り振り、その働きを取りまとめる。組頭の覚えがめでたければ出世もしようし、逆に睨まれれば、閑職に追いやられることもある」
「では、組頭の縁者が、下役の役目を奪うようなことも」
「無論、あり得る話よ」平蔵は苦い顔をした。「今川に限った話ではない。何処の家中でも、身内を引き立てたがるのは人の性というものじゃ。じゃが、それで割を食う者があるとすれば、決して他人事とは言えぬ話でもある」
竹千代は頷いた。「佐平次殿が、もしその割を食う側であるならば」
「そなたが力添えできる筋合いのものかどうかは、儂には分からぬ」平蔵は槍の柄を握り直しながら、竹千代を見据えた。「じゃが、人の弱みに付け込むのと、人の窮地に手を差し伸べるのとは、似て非なるものぞ。そこを履き違えるでないぞ、竹」
その一言に、竹千代は居住まいを正した。「肝に銘じまする」
三
数日後、荷送りの用件で拳母へ出向いていた松丸が、日が暮れてから戻ってきた。竹千代の部屋を訪れるなり、松丸は疲れの滲む顔に、それでも確かな手応えを浮かべていた。
「竹千代、分かったぞ。組頭の名は、蔵田重蔵と申すそうじゃ」
松丸は腰を下ろし、声を落として語り始めた。「拳母で荷送りの縁の商人に会うたゆえ、まずは組頭の名だけでも知れぬかと、それとなく尋ねてみたのよ。……蔵田重蔵、齢五十がらみの古株での、それだけは、すぐに知れた」
「それだけ、にございますか」
「うむ、そこで一旦は引き上げたのじゃが」松丸は少し得意げに続けた。「翌日、今度はその蔵田の身内について、それとなく探りを入れてもろうた。すると、甥である新之丞という若者を、近頃しきりに役所へ出入りさせておるという話が出てきてな」
その言葉に竹千代が無意識に呟くように答える。「新之丞。……それが、蔵田の」
「うむ。まだ二十歳そこそこの若造で、算盤の腕はさほどでもないと専らの評判よ。じゃが、蔵田の覚えは殊の外めでたく、いずれ佐平次殿の役目を、そっくり譲り受けるのではないかと、下役どもの間でも噂になっておるそうな」
竹千代は膝の上で拳を握った。「佐平次殿の懸念、まことのことにございましたか」
「商人の噂話ゆえ、どこまで真かは分からぬ」松丸は慎重に付け加えた。「じゃが、あながち的外れでもなさそうよ。蔵田という男、身内可愛さに目がないという評判は、儂の聞いた限りでも一致しておった」
竹千代はそろばんを取り出し、静かに珠を弾いた。組頭・蔵田重蔵、その甥・新之丞、そして揺らぐ佐平次の立場。これらの糸が、どう絡み合い、どう解けるのか。まだ全容は見えぬが、少なくとも敵の輪郭だけは、ようやく朧げに浮かび上がってきた。
「兄上、良き働きにございました」
松丸は照れ臭そうに頬を掻いた。「なに、そなたほど鮮やかにはいかなんだがな」
四
その機は、思いがけず早く訪れた。数日後、竹千代は父の供をして、年貢の帳面合わせのために郡代の役所へ出向くことになった。竹千代の役目は、あくまで父の傍らに控えるだけの、目立たぬものであった。
控えの間で待たされている間、竹千代はふと、隣室から漏れ聞こえる声に気づいた。障子の隙間から窺うと、そこには佐平次が帳面を広げ、恰幅の良い初老の男の前に座らされている姿があった。あれが蔵田重蔵であろうと、竹千代はすぐに察した。
「佐平次、この勘定、また合わぬではないか」蔵田の声は、些か芝居がかった大仰さで、周囲に聞かせるような響きを持っていた。「新之丞ならば、このような粗相はすまいて」
傍らに座る若者が、佐平次を見やり、薄く笑みを浮かべた。あれが新之丞であろう。佐平次は俯いたまま、「申し訳ございませぬ」とだけ小さく答え、震える指先で帳面を繰り直していた。
竹千代はその光景を、末席からただ黙って見つめるしかなかった。郷士の次男が、下役の帳面仕事に口を出すなど、そもそも身分の上でも許される振る舞いではない。ここで声を上げることも、助け舟を出すことも、竹千代には許されていなかった。
だが、その光景を目に焼き付けながら、竹千代は静かに確信を深めていった。佐平次の抱える窮地は、噂話などではない。この目で見た、紛れもない真因であった。
控えの間に戻った父の傍らで、竹千代は何事もなかったかのように帳面を検めた。だが胸の内では、そろばんの珠が、休むことなく音もなく弾かれ続けていた。佐平次を追い詰めるものの正体が見えた今、次に打つべき手を、竹千代は静かに練り始めていた。




