第三十一話 双燕に込められぬもの
一
その夜、竹千代は稽古を早めに切り上げ、母屋の隅にあるお妙の部屋を訪ねた。針仕事の手を止め、お妙は行灯の灯りの下、いつもの柔らかな笑みで迎え入れた。「若様、こんな刻限に、珍しゅうございますね」
竹千代は火鉢の傍らに腰を下ろし、しばらく無言のまま炭火を見つめていた。お妙はその様子に何かを察したのか、急かすことなく、ただ静かに繕い物の手を動かし続けた。
「お妙」竹千代はやがて、絞り出すように口を開いた。「儂は、双燕に殺意を込めることが、いまだにできぬのだ」
平蔵との朝稽古は、三日に一度、変わらず続いていた。だが、初回の失敗以来、竹千代の刃はどうしても殺意の一線を越えられずにいた。型は寸分違わず流れる。呼吸も乱れぬ。だが、いざその切っ先に人を殺める意志を込めようとした刹那、決まって心のどこかが強張り、刃は空を切るばかりで、何一つ実を結ばなかった。
「それは……お怖いから、にございますか」お妙は針を持つ手を止め、竹千代の顔を覗き込んだ。
「怖いのも、確かにある。されど」竹千代は膝の上で拳を握った。「それだけではないように思うのだ。……儂は、双燕を美しいものとして磨いてきた。手習い所の教え子である彦太が見惚れ、家族が涙し、平蔵殿が『良き兆し』と仰った、あの舞だ。それを、人を殺めるための道具に変えることを、儂自身、心のどこかで拒んでおるような気がしてならぬ」
お妙はしばし黙り込み、やがて静かに言葉を紡いだ。「若様は、双燕を、誰かを守るためのものとしてお創りになったのではございませぬか」
その一言に、竹千代ははっとした。「……守るため」
「わたくしのような武芸を知らぬ者には、その理は分かりませぬ。ですが」お妙は繕い物を膝の上に置き、竹千代の目をまっすぐに見た。「若様が双剣を振るうお姿を、初めて拝見した時から、ずっとそう思うておりました。若様の技は、誰かを傷つけるためではなく、この家と、大切な方々を守るためにこそあるのだと」
竹千代は胸の奥に、何かがすとんと落ちるのを感じた。殺意を込められぬのは、弱さゆえではなく、双燕という技そのものの根が「守る」ということに深く結びついているからなのかもしれない。だとすれば、この技に殺意を宿すということは、根そのものを作り変えるに等しい、途方もない道のりなのだろう。
「お妙のおかげで、少し、腑に落ちた」竹千代は静かに頭を下げた。「されど、それでも、殺す技を身につけねばならぬ日が来ぬとは、儂にも言い切れぬ。名簿の一件が、いつまた牙を剥くとも知れぬゆえ」
お妙は寂しげに微笑んだ。「若様がそのように思い悩まれること自体、わたくしには辛うございます。……ですが、若様が、誰かを守るために技を磨いておられること、それだけは、決してお忘れになりませぬよう」
竹千代は頷き、火鉢の温もりに、しばし身を委ねた。答えが出たわけではない。だが、己の抱える迷いの輪郭が、いくらか明らかになったことは確かだった。
二
翌朝、竹千代が裏庭で槍の型をさらっていると、松丸がふらりと姿を見せた。「精が出るな、竹千代」
「兄上こそ、朝から何用にございますか」
「なに、大したことはない」松丸はそう言いながら、竹千代の傍らに置かれた弓に目を留めた。「おや、弓の稽古もしておるのか」
竹千代は途端に苦い顔になった。「稽古はしておりますが、いっこうに上達いたしませぬ。昨日も、的をすっかり外れ、垣根に突き立てる始末にございました」
松丸は堪えきれぬように噴き出した。「相変わらずよな。剣も槍も算盤も、そなたに敵う者はこの辺りにはおらぬというに、弓だけはとんと駄目とは」
「兄上まで、そのように笑わずとも良いではありませぬか」竹千代はむっとして頬を膨らませたが、その様子に松丸はますます笑いを深めた。
「いや、悪う思うな。……じゃが、なればこそ、そなたも人並みのところがあるのだと思うと、儂は何やら安心するのよ」
その一言に、竹千代は毒気を抜かれたように肩の力を抜いた。「安心、にございますか」
「うむ。……何もかもできてしまう弟というのは、傍で見ておる者からすれば、些か薄気味悪いものだからな」松丸はそう言って、悪戯っぽく笑った。「弓だけは、いつまでもそのままでおってくれ。儂の心の慰めじゃ」
竹千代は思わず苦笑した。「兄上の慰めのために下手なままでいるというのも、些か癪にございますが……致し方ございませぬな」
二人のやり取りに、朝の裏庭には束の間の和やかな笑い声が満ちた。竹千代はふと、弓だけがどうしても人並みにいかぬという、この分かりやすい欠けが、案外この家の中で自分を「ただの子供」として繋ぎ止めているのかもしれない、と思った。
三
笑いが収まった頃合いを見て、竹千代は声を落とし、本題を切り出した。「兄上、佐平次殿の一件にございますが」
松丸の表情が、途端に引き締まった。「うむ。父上からも、もそっと探れとの仰せであったな」
「弥兵衛殿は、これ以上の深入りは避けたいご様子でした。あの御仁の厚意に、これ以上頼るのは筋が違いましょう」竹千代はそろばんを取り出し、静かに珠を弾きながら思案した。「組頭殿とその甥御の一件、名も知れぬままでは、手の打ちようがございませぬ。何ぞ、別の伝手から探れませぬか」
松丸はしばし考え込んだ後、ふと顔を上げた。「拳母の商人衆であれば、御奉行所への出入りも多い。荷送りの縁で、儂も幾人か顔見知りがおる。それとなく尋ねてみれば、組頭の名くらいは知れるやもしれぬ」
「それは、良き伝手にございます」竹千代は目を輝かせた。「兄上、お手数をおかけしますが、その筋から探っていただけましょうか」
「任せておけ」松丸は胸を叩いた。「ただし、儂とて商人相手の駆け引きは、そなたほど器用ではないぞ。あまり多くは期待せぬことじゃ」
「兄上ならば、きっとうまくやってのけましょう」竹千代はそう言って、にこりと笑った。それは何気ない励ましの言葉だったが、松丸はそれを聞いて、一瞬だけ複雑な表情を浮かべた。剣では届かぬ弟の言葉が、こうして素直に己を頼ってくれることに、面映ゆさと、確かな誇らしさが入り交じっているようだった。弟の素直な信頼が、かえって胸に沁みるようだった。
「相分かった。数日のうちに、また声をかけよう」
松丸はそう言い残し、踵を返して母屋へと戻っていった。竹千代はその背中を見送りながら、弓を拾い上げ、再び的へと向き直った。矢は今日もまた、大きく的を外れて垣根に突き立った。
「……まこと、これだけは、いつになっても上達いたしませぬな」
竹千代は苦笑を漏らしながら、次の矢を弓につがえた。名簿の一件、佐平次の一件、そして双燕に込められぬ殺意。抱える悩みは尽きぬが、この朝だけは、外れ続ける矢のおかしみが、竹千代の心をいくらか軽くしてくれていた。




