第三十話 佐平次
一
夜明け前、まだ霜の残る庭先で、竹千代は松丸と共に荷を検めていた。反物一反、干物、酒一升。俵に詰められたそれらは、あえて見栄えを削いだ分だけ、律儀さという体裁を保っていた。息を吐くと白く曇り、竹千代の指先はかじかんで思うように動かなかった。
「郎党は誰を」竹千代が問うと、松丸は荷の紐を確かめながら答えた。「作造にした。口が堅く、目端も利く」
作造は普段から馬の世話をしている老練な下男で、余計な口を利かぬ質だった。此度は贈答の品を担がせる荷物持ちとして同道させるまでのこと、それ以上でも以下でもない。だが、そうした下男だからこそ、傍らで見聞きしたことをみだりに言い触らす懸念もなく、竹千代としても安堵できる人選であった。
数日前、弥兵衛から一通の文が届いていた。かねて申していた下役の一人を、近々屋敷に招く折があるゆえ、良ければ若様方も同座されてはどうか、という誘いであった。文には「佐平次」という名も記されており、竹千代と松丸は、それを幾度も読み返しては、この機を逃す手はないと頷き合っていた。
弥左衛門が母屋の戸口に立ち、見送りに出てきた。「くれぐれも、事を急くでないぞ」と念を押す父の声には、当主としての緊張が滲んでいた。松丸は深く一礼し、竹千代も倣った。
「行って参ります」
朝靄の中、三人は東隣の村へと続く道を進んでいった。作造は荷を背負い、二人の後ろを黙々と歩いた。道すがら、松丸がぽつりと呟いた。「弥兵衛殿、此度は何用あって、わざわざ佐平次殿を引き合わせてくれるおつもりか」
「先だっての一件の、次の一手にございましょう」竹千代は轡を握りながら答えた。「あの御仁ならば、事を急いては怪しまれると申されたお方。此度も、何ぞ思うところあってのことかと」
二
東隣の村の名主・弥兵衛の屋敷に着くと、囲炉裏端に通され、程なくして下役の佐平次が姿を見せた。郡代の下で年貢取次や普請の勘定を担う、下役衆の一人である。齢は三十路ほど、痩せた身に折り目正しく袴を着けている。
竹千代は炉の火に手をかざしながら、佐平次の所作を静かに観察した。茶を受ける手つきは折り目正しいが、視線は落ち着かず、時折懐の辺りに触れる仕草を見せる。何かを気に病んでいるのか、あるいはこの場そのものに居心地の悪さを覚えているのか。
「若様は、そろばんが達者だと聞き及びましたが」不意に佐平次が口を開いた。声には抑揚が乏しく、探るような響きがあった。「郡内では、それがしのような下役にまで、その評判が届いておりまする」
松丸と弥兵衛の視線が、一瞬竹千代に集まった。何気ない世間話のようでいて、その実、値踏みの一言であることは明らかだった。
「恐れ入ります」竹千代は静かに応じた。「されど、算盤の腕など、この乱世を生き抜く力の、ほんの一端に過ぎませぬ。佐平次殿こそ、御奉行所の御用を日々こなされる中、さぞご苦労も多うございましょう」
その返しに、佐平次は僅かに目を伏せた。「……いえ、それがしなど、まだまだ未熟者にございます」
その一言に籠る自嘲めいた響きに、竹千代は聞き逃さず耳を澄ませた。だが深追いはせず、話柄はそれ以上広がることなく、当たり障りのない世間話のうちに茶の刻限は過ぎていった。
佐平次が厠へ席を外した折、弥兵衛が声を落として言った。「若様、松丸様。……佐平次殿、近頃どうも顔色が優れませぬ。役目のことで、何やら心を痛めておるご様子での。詳しくは、まだそれがしにも分かりかねますが……今川方の組頭衆の一人と、その甥御に関わる一件のようにございます」
竹千代は頷いた。「上役の覚えがめでたいという弥兵衛殿の言葉に、素直に喜ぶ様子がございませんでした。あの陰りが何ゆえのものか、今しばらく見極める要がございましょう」
竹千代の内で、算盤の珠が音もなく弾かれた。佐平次が自らの立場に不安を抱えているのなら、それは弱みであると同時に、こちらが力添えを申し出る余地でもあった。だがそれを性急に匂わせれば、かえって警戒を招く。今はまだ、種を蒔く段階にすぎなかった。
「弥兵衛殿、貴重なお話を伺いました。この儀、ゆめゆめ他言はいたしませぬ」竹千代は静かに頭を下げた。
弥兵衛は目を細め、皺を深くして笑った。「若様のような御方に聞かれるのは、儂としても悪い気はせぬわ。……ただし、この先どう動かれるかは、若様と松丸様のご分別次第。年寄りは、あまり深入りはいたしませぬぞ」
その時、廊下の奥から足音が近づいてきた。佐平次が戻ってくる気配に、弥兵衛はさっと表情を改め、何事もなかったかのように茶を勧める体勢に戻った。竹千代もまた、平静な面持ちを取り繕いながら、胸の内でだけ、今しがた得た手がかりを静かに握りしめた。
三
暇を告げ、屋敷を辞して帰路につく頃には、日はすっかり西へと傾いていた。「兄上」竹千代は歩みを緩めることなく、なお言葉を継いだ。「今宵、遅くなりましょうとも、日を跨がぬうちに父上へお伝えするが良いかと存じます。……佐平次殿の一件、日を置けば置くほど、こちらの腹づもりが疑われかねませぬゆえ」
松丸はしばし黙し、夕闇の迫る空を見上げた。「うむ。……そなたの申す通りよ。今宵のうちに片付けねば、明日からの動きにも障りが出よう」松丸は小さく頷き、決断した声音で続けた。「戻り次第、飯を済ませたら父上のお耳を拝借する。遅い刻限になろうとも、致し方あるまい」
竹千代はその返答に、静かな安堵を覚えた。「かたじけのうございます。ならば、それがしも夕餉を早々に済ませ、支度をいたしましょう」
やがて阿久居の屋敷が、夕闇の向こうに灯りを滲ませて見えてきた。竈の煙が細く立ち昇り、母屋の障子には人影が動いている。作造が駄馬を厩へと引いていくのを見送りながら、竹千代と松丸は無言のまま、母屋の戸口へと歩を進めた。
縁側に上がると、母・お蘭が出迎えに現れた。「お帰りなさいませ。……おや、随分と冷えたお顔をしていますね」お蘭は竹千代の頬にそっと手を当て、その冷たさに眉をひそめた。
「母上、ご案じなされますな。ただの道中の冷えにございます」竹千代はそう答えながら、母の手の温もりに、一日分の緊張が僅かにほどけていくのを感じた。
夕餉の膳を早々に下げさせ、竹千代は松丸と連れ立って弥左衛門の居室へと向かった。廊下は既に夜の冷気に沈み、灯りを手にした松丸の影が障子に大きく揺れていた。
「父上、竹千代にございます。兄上と共に、本日の首尾をご報告に上がりました」松丸が声をかけると、内から「入れ」という短い応えが返った。
居室では、弥左衛門が文机の前に端座し、行灯の灯りを受けてその顔に深い陰影を刻んでいた。二人が座に着くのを待ち、弥左衛門は静かに促した。「して、いかがであった」
松丸がまず、手土産の首尾と佐平次との対面の様子を淡々と語り始めた。分相応な品を選んだこと、郎党を伴わせたこと、弥兵衛の如才ない差配。弥左衛門は腕を組み、時折頷きながら聞き入っていた。
やがて話が佐平次個人の様子へと移ると、竹千代が言葉を継いだ。「父上。佐平次殿には、いささか気にかかる様子がございました」竹千代は、松丸と整理した通りの順序で、佐平次の自嘲めいた愚痴、弥兵衛が持ち上げた際の翳り、そして後に弥兵衛から聞いた組頭とその甥御の一件を、一つひとつ丁寧に語っていった。
弥左衛門の眉間に、次第に皺が刻まれていった。「組頭の甥が、いずれ取次の役目を継ぐやもしれぬ、と申すか」低い声だった。行灯の灯りの中、その目に鋭い光が宿るのを、竹千代は見た。
「詳しきことは、まだ弥兵衛殿にも分かりかねる様子にございました」竹千代は慎重に付け加えた。「されど、佐平次殿の役目そのものが、危うくなりかねぬ気配は確かにございます。もしそうであれば、これはこちらにとっても、決して無縁の話ではございませぬ」
弥左衛門はしばし黙考し、やがて低く呟いた。「……深入りは禁物じゃ。じゃが、知らぬ振りをするのも、また損なやり方よ」父はそこで二人を見渡した。「もそっと、様子を探れるか」
「はい」竹千代と松丸は、同時に頭を垂れた。行灯の灯りが、三人の影を障子に長く伸ばしていた。




