第二十九話 双短剣術、成る
一
日暮れて幾刻か過ぎた頃、稽古場には篝火が一つ、赤々と焚かれていた。約束通り、平蔵が肩の具合を確かめながら立ち会いに現れている。竹千代は懐から双短剣を取り出し、師の前に静かに構えた。
「良い。いつも通りに始めよ」平蔵の声を合図に、竹千代は流水無形の理を土台にした型を、ゆっくりと繰り出し始めた。摺り足、捻り、崩し。二つの刃が交互に円弧を描き、篝火の炎を受けてちらちらと橙色に光る。速度が上がるにつれ、動きはいつものように優美な流れへと変じていく。
だが平蔵は、腕を組んだまま、その舞をただ眺めているだけではなかった。隻眼が、竹千代の両の手首を、まるで刃そのものを検分するかのように追い続けている。型が一巡すると、平蔵は片手を上げて止めさせた。「竹、今の左手の返し、もう一度だけやってみせよ」
竹千代は言われた通り、左手の刃を返す動作だけを繰り返した。平蔵はしばし黙考した後、ようやく口を開いた。「思うた通りじゃ。そなたの右手は、いかなる時も己の間合いを守ろうとする。じゃが左手は、右手に釣られて動くばかりで、独り立ちしておらぬ。ゆえに、速さを上げれば上げるほど、左右の均衡が崩れていくのよ」
言われて竹千代は、はっとした。これまで美しさばかりに気を取られ、右手と左手のどちらが主でどちらが従であるかなど、意識したこともなかった。「では、いかにすれば」
「左手だけで、初手から型を通してみよ」平蔵の指示に従い、竹千代は右手を下ろしたまま、左手一本で型を繰り返した。最初はぎこちなく、何度も刃を取り落としかけた。だが繰り返すうち、左手の刃にも、右手と同じだけの意志が宿り始めるのが、竹千代自身にも感じられてきた。
篝火が幾度も爆ぜる間、竹千代はただ黙々と左手の型を磨き続けた。平蔵もまた、一言も発することなく、じっとその動きを見守っていた。夜気が肌を刺す寒さも、いつしか意識の外へ追いやられていた。
やがて竹千代が両手で型を通した時、二つの刃は初めて、互いに一切の遅れも先走りもなく、対等に呼応し合った。左右の理が、この時ようやく、竹千代の体の内で釣り合ったのである。
型を終え、竹千代が息を整えていると、平蔵は深く頷いた。「これで、良い。左右均等の理、確かに掴んだな」その声には、これまでの「良き兆し」とは異なる、確かな重みが込められていた。
平蔵は篝火に照らされながら、静かに続けた。「竹、この技はもはや、殺意を隠すための仮初の舞ではない。左右の均衡、流水の理、そなたの覚悟。すべてが一つに結ばれた、独立した武芸ぞ。……名を付けねばなるまいな」
竹千代は暫し考え、それから師の顔を見上げた。「平蔵殿にお任せいたします」
平蔵は隻眼を細め、燃える篝火をしばし見つめてから、静かに告げた。「双燕。二羽の燕が、風を切って共に舞うように。……これより、そなたのその技を、双燕と呼ぶ」
竹千代はその名を、口の中で静かに繰り返した。「双燕、にございますか」ようやく形を成した武芸に名が与えられたことに、これまでの稽古の日々が報われたような、静かな満足が胸に広がった。
二
双燕の完成を見届けた平蔵は、しかしすぐには稽古を終わらせなかった。篝火の傍らに腰を下ろすと、いつになく改まった声で切り出した。「竹、双燕が成った今、もう一つ、そなたに越えてもらわねばならぬ山がある」
竹千代の背筋が、自然と伸びた。それが何を指すのか、問うまでもなく分かっていた。「殺意を込める技にございますな」
「うむ」平蔵は頷いた。「双燕は、美しさへ転じた型よ。じゃが、そなたが名簿の一件で目付に狙われておるとあらば、いずれ、美しさだけでは済まぬ場面が来るやもしれぬ。その時のために、殺意を込めた技も、体に馴染ませておかねばならぬ」
平蔵は立てた条件を、一つひとつ数えるように告げた。「三日に一度。朝のみ。儂が必ず立ち会う。この三つを違えることは、断じて許さぬ」
竹千代は深く頷いた。「かしこまりましてございます」
その言葉と共に、その場で早速、初めての稽古が始まった。平蔵の指示のもと、竹千代は双燕の型に、殺意という一滴を混ぜ込むように意識を集中させた。だが、いざ刃に殺意を込めようとした途端、これまで滑らかに流れていた型が、途端にぎこちなく強張った。
竹千代の脳裏に、瞬時に幾つもの光景が過った。彦太の無邪気な喜色。お妙の震える声。平蔵の「淵は独りで覗くものではない」という叱責。そして何より、あの夜、我を失いかけた時の底の見えぬ恐怖。それらが一斉に押し寄せ、竹千代の手元は制御を失った。刃が意図せぬ軌道へと逸れ、危うく己の足を傷つけかけたところを、平蔵が咄嗟に手首を掴んで止めた。
「よい、そこまでじゃ」平蔵の声に、竹千代は肩で息をしながら、その場に膝をついた。手の震えが、なかなか収まらなかった。
「情けなきことにございます」竹千代は俯いたまま、絞り出すように言った。「拙者は、殺意を込めることが、これほどまでに恐ろしいとは……」
平蔵はしばし黙って竹千代を見下ろしていたが、やがて隣に腰を下ろし、その肩にそっと手を置いた。「恐ろしいのが、当たり前じゃ」静かな声だった。「殺す技を、恐れもせず振るえる者こそ、儂は信用ならぬ。竹、そなたのその怯えは、恥じるものではない」
竹千代は顔を上げた。篝火に照らされた師の顔には、叱責の色はなく、ただ静かな慈しみだけがあった。「されど、この恐怖を抱えたまま、稽古を続けねばならぬのですか」
「一足飛びには参らぬ。三日に一度、朝のみ。それだけの間を置くのは、そなたの心が、恐怖に押し潰されぬための間合いでもあるのじゃ」平蔵はそう言うと、竹千代の肩を軽く叩いた。「今日のところは、これで十分よ。そなたが恐怖から目を逸らさなんだ、それだけで、儂は十分と思うておる」
竹千代は暫くの間、篝火の温もりに包まれながら、震える手をじっと見つめていた。恐怖はまだ、消えてはいなかった。だが、その恐怖を独りで抱え込まずに済むということが、これほどまでに心を支えてくれるとは、思いもよらぬことだった。
三
数日後の昼下がり、竹千代は裏の休耕地に足を運んだ。老爺が一人、黙々と垣根を組み上げている。竹千代の姿に気づくと、老爺は皺だらけの顔をほころばせた。「若様、ご覧くだされ。もうじき、囲いが仕上がりまするぞ」
竹千代は組み上がりつつある垣根を検分し、その手際の良さに感心した。「見事なものじゃ。無理をせず、これからも少しずつ進めてくれ」老爺は嬉しそうに頷き、また手を動かし始めた。この小さな一歩が、いずれ厩の普請へと繋がっていくのだと思うと、竹千代の胸にも、静かな手応えが広がった。
その足で母屋に戻ると、松丸が文机の前で、来月の年貢取次に向けた品書きを検討していた。「竹千代、良いところに来た。下役殿への手土産、そなたの見立てを聞きたい」
竹千代は文机の脇に腰を下ろし、書きつけられた品々に目を通した。反物、干物、酒。どれも吟味された品ではあったが、竹千代はしばし考えてから口を開いた。「あまりに贅を凝らせば、賄賂と勘繰られましょう。分相応な律儀さこそが、かえって信を得る近道と心得ます」
松丸は苦笑した。「隣村の一件でも、同じことを申しておったな」
「はい。ゆえに、反物は一反のみ、酒も一升で十分にございます。それより、郎党を一人、名主殿の供として忍ばせておくのはいかがでしょう。下役殿の人となりを、それとなく見極めておきたく存じます」
松丸は感心したように頷き、筆を執って書きつけを改め始めた。「そなたの用心深さには、いつも助けられるわ」
竹千代は兄の手元を見つめながら、この地道な地ならしの先に、いつか名簿の一件が決着する日が来ることを、静かに願わずにはいられなかった。双燕という一つの武芸を得た今、恐怖と共に歩む覚悟も、家を守るための知略も、竹千代の内でようやく一つに繋がりつつあった。




