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三河の片隅で、家族を守る――その名はまだ誰も知らない  作者: 可可多


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第二十八話 淵

一


夜半、竹千代は寝床の中で幾度も寝返りを打っていた。裏山での巡察の一件以来、目を閉じると尾根を行く物々しい人影が瞼の裏に蘇り、なかなか寝つけぬ夜が続いていた。来春の軍議までの猶予、目付に上がった己の名、そして家族の暮らし。積み重なった重みが、胸の奥でひとつの塊になって凝っている。


このままでは、朝まで一睡もできぬ。竹千代は静かに身を起こし、伊之助の双短剣を懐に忍ばせて、庭の隅にある稽古場へと向かった。裏山ではない。屋敷のすぐ裏手、生垣に囲まれた見咎められにくい場所であり、父の禁を破るものではないと、己に言い聞かせながらの足取りだった。


冬の夜気は刺すように冷たく、月は雲間に隠れて心許ない光しか落としていなかった。竹千代は両手に短剣を構え、流水無形の理を土台にした型を、ゆっくりと始めた。摺り足、捻り、崩し。積み重ねてきた稽古の記憶が、体を勝手に動かしていく。


だが今宵は、いつもと様子が違った。積もりに積もった苛立ちと不安が、意識せぬうちに刃の切っ先へと滲み出ていく。竹千代は次第に速度を上げ、殺意にも似た鋭さを型の中に織り込み始めた。父の禁も、平蔵との約束も、この瞬間だけは頭の隅に追いやられていた。ただ、この鬱屈を刃に乗せて振り払いたい、その一心だった。


型を幾度も繰り返すうち、ふと、視界の端が滲むように揺らいだ。かつて一度だけ触れたことのある、あの底の見えぬ感覚が、再び足元から這い上がってくる。音が遠のき、月明かりも生垣の輪郭も、すべてが妙に間延びして感じられた。刃を振るう己の動きだけが、やけに鮮明に、しかし他人の体を見ているかのように映る。


無拍子。かつて平蔵がそう名付けた、あの淵であった。


竹千代は恐怖よりも先に、奇妙な高揚を覚えた。この深みに沈み込めば、あるいはもっと先の、もっと確かな技の理が見えるのではないか。そんな誘惑にも似た予感が、抗いがたい力で竹千代を引き込もうとした。


だが、その時である。ふと脳裏に、平蔵の隻眼と、あの夜の言葉が過った。「軽うなることなど、生涯あるまいよ」。詰所で師が語った、あの静かな真実の声が、淵の深みに抗う錨のように響いた。同時に、お妙の震える声、耐えられるかと問うた己自身の言葉も重なって蘇る。


竹千代は歯を食いしばり、刃を振るう手を強引に止めた。荒い息を吐きながら片膝をつくと、全身がびっしょりと寝汗にも似た汗で濡れているのに気づいた。手足は震え、指先の感覚さえ怪しい。ようやく戻ってきた月明かりの下、竹千代はしばらくの間、動くこともできずにいた。


二


翌朝、稽古のために詰所を訪れた竹千代を、平蔵は一目見るなり眉をひそめた。「顔色が悪いな。……それに、その手の震えは何じゃ」


隠し立てしても無駄だと悟り、竹千代は昨夜のことを包み隠さず打ち明けた。眠れぬままに独り稽古場へ出たこと、鬱屈を紛らわすうちに型が乱れ、気づけば無拍子の淵に再び触れていたこと。語るうちに、平蔵の表情がみるみる険しくなっていくのが分かった。


語り終えると、平蔵はしばらく無言のまま、竹千代を見据えていた。詰所には、重い沈黙だけが横たわった。やがて、絞り出すような低い声が響いた。「竹。そなた、正気か」


その声の底に宿る怒りの色に、竹千代は思わず身を強張らせた。平蔵は片手で己の隻眼を覆い、大きく息を吐いてから、ようやく続けた。「淵は、独りで覗くものではない。それを言葉にして教えなんだのは、儂の落ち度じゃ。……じゃが、教えられずとも、危うい橋を独りで渡ろうとするその性根だけは、いい加減、改めてもらわねば困る」


「申し訳ございませぬ」竹千代は深く頭を垂れたが、平蔵の怒りは収まらなかった。「詫びで済む話ではない。淵に落ちて戻れなんだ者を、儂は幾人も見てきた。刃を振るう己を、己が制御できなくなる。それがどういうことか、そなたはまだ分かっておらぬ」


平蔵はそこで言葉を切り、しばし目を閉じた。詰所に差し込む朝日が、隻眼の古傷をわずかに照らし出す。長い沈黙の後、平蔵は目を開き、今度は幾分か声を和らげて続けた。「……儂の落ち度でもある。ならば、儂が償おう。これより、そなたが淵に近づくほどの稽古をする時は、必ず儂が立ち会う。日暮れ後であろうと、夜半であろうとな」


竹千代は顔を上げた。「平蔵殿……よろしいのですか。肩もまだ本調子ではないというのに……」


「肩と、弟子の命と、どちらが重いか、考えるまでもなかろう」平蔵はそう言って、初めて僅かに口元を緩めた。だがその眼差しには、まだ拭いきれぬ厳しさが残っていた。「良いか、竹。二度目はない。次にまた独りで淵を覗くようなことがあれば、儂はそなたに、二度と双剣を握らせぬ」


その重い言葉に、竹千代はただ深く頷くしかなかった。


三


その日の夕刻、竹千代は父・弥左衛門のもとへ赴き、昨夜の一件を包み隠さず報告した。話を聞き終えた父は、しばし目を閉じ、深いため息をひとつついた。「……そなたという子は。心配の種は尽きぬな」


叱責の言葉を覚悟していた竹千代であったが、父の声には、怒りよりも安堵に近い響きが滲んでいた。「じゃが、平蔵が立ち会うと申すなら、儂からも重ねて頼んでおこう。……竹千代、そなたは家の要じゃ。倒れられては、元も子もない」


夕餉の折、お妙もまた、竹千代の顔をしげしげと覗き込み、「今朝方から、少しお顔の色が優れぬようにお見受けいたしましたが」と案じる素振りを見せた。竹千代が事の次第をかいつまんで話すと、お妙はしばし箸を止め、何事か言いたげに口を開きかけたが、結局は何も言わず、ただ静かに給仕を続けた。膳を下げる間際、竹千代の椀に汁物をもう一杯だけよそいながら、いつもより幾分か低い声で呟いた。「平蔵様が付いていてくださるのなら、わたくしも、少しは安んじられます」


その一言に、竹千代の胸の奥に残っていた強張りが、ようやくほどけていくのを感じた。窓の外では、宵闇が静かに庭を覆い始めている。今宵からは、あの淵を独りで覗くことはない。そう思うと、これまでとは違う種類の重みが、しかし確かな安堵を伴って、竹千代の肩に乗るのだった。

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