第二十七話 巡察の影
一
夜明け前の裏山は、まだ闇に沈んでいた。竹千代は父から許しを得て、平蔵と二人、猪の罠を仕掛けに出向いていた。師走も半ばを過ぎ、蓄えの塩漬け肉も心許なくなってきた頃合いである。先だっての祝宴で振る舞った猪肉も、あらかた底をつきかけていた。平蔵の肩は本調子には遠いものの、「山歩き程度なら支障ない」と本人が言い張り、弥左衛門もそれを渋々認めた形だった。
「無理はなさらず、途中で辛ければ仰ってくだされ」竹千代がそう念を押すと、平蔵は隻眼を細めて苦笑した。「その言葉、そっくりそなたに返してやりたいわい。まったく、師よりも案じ性な弟子とは、儂も因果なものよ」軽口を叩き合いながらも、竹千代の胸中には、名簿の一件がいよいよ来春に向けて動き出しているという思いが、常より重く沈んでいた。息を吐くたび白く尾を引く朝靄の中、二人は無言のまま山道を進んだ。
霜を踏む足音を殺しながら、二人は昨日仕掛けた括り罠へと向かった。案の定、罠には若い猪が一頭、力なく脚を取られていた。平蔵が手際よく止めを刺し、竹千代はその重みを検分しながら、久々の獲物に胸を撫で下ろした。「これで、今しばらくは食い扶持の心配もございませぬな」
その時である。平蔵の隻眼が、不意に鋭さを増した。「竹、動くな」低く鋭い声に、竹千代は反射的に息を潜めた。
木々の間、谷を挟んだ向こう側の尾根道に、数名の人影が動いていた。物々しい出で立ちの武者が三名、周囲を窺うように歩を進めている。旗指物こそないが、その足取りと配置は、明らかに物見の心得を持つ者のそれだった。
「今川方の巡察じゃ」平蔵が声を殺したまま呟いた。「このあたりの地形を探っておるのやもしれぬ。……名簿再編と、無縁ではあるまい」
竹千代の胸が、氷を押し当てられたように冷えた。彼らが探っているのが単なる地形なのか、それとも名簿に上がった郷士たちの動向そのものなのか、判じようがない。だが、いずれにせよ、今この場で見咎められるわけにはいかなかった。
平蔵は猪の骸を茂みの陰へと引き寄せ、竹千代の肩を強く押さえて身を伏せさせた。二人は息を殺し、尾根を行く一団が去るのをひたすら待った。長い、長い時が過ぎたように感じられたが、実際にはさほどの間ではなかったろう。冷えた土の匂いと、平蔵の浅い息遣いだけが、やけに近くに感じられた。竹千代は歯を食いしばり、逸る鼓動を鎮めようと努めた。もしここで見つかれば、父の築いてきた律儀な家名も、母や松丸、お妙の暮らしも、一瞬にして瓦解しかねない。そう思うと、じっと伏せているだけの時が、途方もなく長く感じられた。やがて人影は谷向こうの尾根を越え、姿を消した。
「行ったか」竹千代がようやく身を起こしかけると、平蔵が短く制した。「まだじゃ。念のため、もうしばし待て」
その用心深さに従い、さらに暫く息を潜めた後、平蔵はようやく大きく息をついた。だが、その拍子に顔を歪め、右肩を庇うように押さえた。「……平蔵殿、肩が」
「なに、大事ない」そう言う声に、僅かな痛みの色が滲んでいた。竹千代が駆け寄って晒しの上から確かめると、無理な姿勢で身を伏せていたせいか、傷口のあたりが赤く腫れ上がっている。「大事ないと申すに」平蔵は苦笑いを浮かべたが、その足取りは、行きよりも明らかに重かった。
竹千代は猪の骸を自ら背負い、師の歩みに合わせて山を下った。二人とも、道中はほとんど言葉を交わさなかった。時折、平蔵が痛みに顔をしかめて足を止める度、竹千代も歩みを緩め、何も言わずにただ寄り添った。ただ、先ほど見た巡察の一団の姿だけが、竹千代の脳裏に重く焼き付いて離れなかった。
二
館に戻ると、竹千代はまず父・弥左衛門のもとへ向かい、事の次第を包み隠さず報告した。今川方の巡察と思しき一団を裏山で見かけたこと、地形を探るような足取りであったこと、そして平蔵が肩を悪化させたこと。
弥左衛門は眉間に深い皺を刻んで聞き終えると、しばし腕を組んで黙り込んだ。囲炉裏の火が、当主の険しい横顔を赤く照らしている。長い沈黙の後、ようやく絞り出すように呟いた。「……名簿の一件が、いよいよ動き出したか。あるいは、単なる年越しの見廻りやもしれぬが」
その声には、確信の持てぬ苛立ちが滲んでいた。竹千代もまた、すぐには言葉を継がず、暫く父と共に囲炉裏の炭を見つめた。やがて弥左衛門が小さく息を吐き、居住まいを正した。「いずれにせよ、このまま捨て置くわけには参らぬ。今宵より、木戸の見張りを一人増やす。夜通し、交代で立たせよう」
そう告げると、弥左衛門はしばし目を閉じ、何かを堪えるような間を置いてから、竹千代に向き直った。その眼差しには、これまで見たことのない張り詰めた色が宿っていた。「竹千代、これより裏山への出入りは、儂か平蔵の同道なくば相成らぬ。一人で山に入ることは、断じて許さぬ」
竹千代は父の顔に、これまでにない緊張の色を見て取り、思わず言葉に詰まった。「父上……」
父はそれ以上多くを語らず、ただ竹千代の肩に手を置いた。その手の温もりと、僅かに震えているのが分かるほどの力の込め方に、言葉以上の思いが込められているのが伝わってきた。暫くしてから、ようやく声を和らげて続けた。「案じるな。そなたを縛るためではない。あの巡察が、そなた個人を探っての動きであれば、なおのこと危うい。目付に名を挙げられておるとあらば、山中で一人、万一のことがあってからでは遅い。……分かってくれるな」
竹千代は深く頭を垂れた。「かしこまりましてございます」その声は、思いのほか掠れていた。
その様子を伝え聞いたお蘭は、台所仕事の手を止め、しばし呆然と立ち尽くした後、顔を青ざめさせながら竹千代のもとへ駆け寄った。両手で竹千代の顔や肩をそっと確かめ、怪我がないことを目で確かめてから、ようやく「怪我はなかったのですね」と、震える声で問うた。竹千代が「拙者は何ともございませぬ」と努めて平静に答えても、お蘭はしばらくその場を離れようとせず、ただ黙って我が子の姿を見つめ続けていた。お妙もまた、その日はいつにも増して竹千代の傍を離れようとせず、夕餉の給仕をする手も、心なしか震えているように見えた。
折良く戻った松丸は、事の次第を聞くと腕を組んだまま、暫し黙り込んだ。灯りに照らされたその横顔には、これまでの飄々とした様子が影を潜めていた。「来春の軍議までにはまだ間があると思うておったが」やがて、独り言のように低く呟く。「……向こうの動きは、儂らが思うより早いやもしれぬな」竹千代はそれに、ただ黙って頷くしかなかった。
平蔵の手当てが済んだ夕刻、竹千代は詰所を見舞った。晒しを新たに巻き直した平蔵は、決まり悪そうに苦笑した。「儂としたことが、また傷を広げてしもうたわ。……面目ない」
「平蔵殿のおかげで、見咎められずに済みました。詫びるのはこちらの方にございます」
「なに、これしきの傷、大したことはない」平蔵はそう言って笑って見せたが、その顔にはやはり隠しきれぬ疲労が滲んでいた。竹千代はその横顔を見つめながら、名簿の一件がもはや遠い噂話ではなく、すぐそこまで忍び寄っている現実であることを、改めて突きつけられた思いがした。
その夜、木戸には新たに篝火が焚かれ、二重の見張りが立てられた。竹千代は自室の窓から、その火影が夜闇の中で揺れるのを、しばし黙って見つめていた。地ならしを重ねてきたつもりでいたが、相手はこちらの都合になど構わず、着実に間合いを詰めてきている。来春の軍議までの猶予は、思うよりずっと短いのかもしれない。そう思うと、火影の揺らめきさえも、どこか不穏なものに映るのだった。




