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三河の片隅で、家族を守る――その名はまだ誰も知らない  作者: 可可多


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第二十六話 忘れぬ覚悟

一


三者の密談から数日が過ぎたある晩、竹千代は稽古を終えた足で、平蔵の詰所を訪れた。師はいつものように、片手で器用に槍の柄を磨いている。「まだ肩が本調子でないゆえ、こうして手を動かしておらねば落ち着かんでな」そう言って苦笑する平蔵の傍らに、竹千代は静かに腰を下ろした。


囲炉裏の炭が赤く灯り、二人の影を壁に長く伸ばしていた。暫くの沈黙の後、竹千代は思い切って問うた。「平蔵殿は……いつ、初めて人を斬られましたか」


平蔵の手が、ふと止まった。隻眼が、遠くを見るように細められる。炭が一つ、ぱちりと爆ぜても、師はすぐには口を開かなかった。やがて、絞り出すような低い声が返ってきた。「儂が、まだ元服して間もない、青二才の頃のことよ。戦場ではのう、覚悟の据わり具合など、誰も斟酌(しんしゃく)してはくれぬ」


そこで再び、長い間が空いた。外では、師走の風が雨戸を小さく鳴らしている。竹千代は急かすことなく、ただ静かに次の言葉を待った。


「初めて斬った男の顔は、未だに忘れられぬ」平蔵はやがて、視線を炭火に落としたまま、ぽつりぽつりと語り始めた。「歳は儂とさして変わらぬ、どこぞの雑兵よ。刀を交える前に、互いの目が合うた。あやつも、儂と同じくらい怯えておった。……それでも、儂は斬った。斬らねば、儂が斬られておったからの。悔いる暇など、戦場にはない。じゃが、戦が終わり、故郷へ戻ってからも、あの男の顔だけは、片時も頭から離れなんだ。今でも、な。夜半にふと目が覚めて、あやつの顔ばかりが浮かぶことがある」


平蔵はそこで言葉を切り、苦笑いのような、泣き笑いのような、複雑な表情を浮かべた。「済まなんだ、とだけよ。他に言いようがない。あやつにも、儂と同じく、待つ者がおったろうからの」


その独白めいた言葉の重みに、竹千代は暫し何も言えずにいた。囲炉裏の火が、静かに二人の間を照らしている。「では、その重さは、いつになれば……」ようやく絞り出したその問いに、平蔵は隻眼で竹千代を見据えた。その眼差しには、憐れみでも脅しでもない、ただ静かな真実だけがあった。


「軽うなることなど、生涯あるまいよ」平蔵はゆっくりと続けた。「竹、よう聞け。覚悟というは、忘れることではない。忘れぬことよ。斬った相手の重みを、生涯背負い続ける。それができて、初めて人を斬る技を振るう資格が生まれるのじゃ。軽々しゅう振るえる者に、殺す技など持たせてはならぬ」


竹千代は先だっての夜、独り稽古の果てに殺意が制御を離れかけたあの瞬間を思い出していた。あの時感じた底の見えぬ恐ろしさと、平蔵の言葉が、今ようやく一つに繋がった気がした。膝の上で拳を握り、暫く俯いてから、ようやく顔を上げた。「拙者は、その重みに、耐えられましょうか」


平蔵は珍しく、口元をわずかに緩めた。「耐えられるかどうかを恐れておる時点で、そなたはもう、殺しを軽んじる質ではない。それだけで、儂は十分と思うておるわ」それから、隻眼を細めて付け加えた。「なに、その重みを一人で背負えとは言わぬ。儂も、いずれそなたも、共に背負う者ができるやもしれぬ。そういうものよ」


その一言に、竹千代の胸の奥に凝っていた重い塊が、いくらか和らいでいくのを感じた。二人はそれきり多くを語らず、ただ炭の爆ぜる音だけが、暫くの間、詰所を満たしていた。


二


その夜遅く、竹千代が母屋の廊下を歩いていると、お妙の部屋から小さな灯りが漏れているのに気づいた。障子越しに覗くと、お妙は火鉢のそばに座り、竹千代の稽古着の綻びを繕っている最中だった。


「お妙、まだ起きておったのか」竹千代が声をかけると、お妙は針を持つ手を止め、いつもの柔らかな笑みを浮かべた。「若様こそ、こんな刻限まで。……さ、こちらへ。火鉢で暖まっていかれませ」


竹千代は勧められるまま、火鉢を挟んでお妙の向かいに腰を下ろした。橙色の炭火が、二人の顔をほのかに照らしている。お妙はしばらくの間、黙々と針を動かしていたが、やがて手を止め、ふと呟くように言った。「若様。先だっての夜のこと……あの、お独りで稽古をなさっておられた折のことにございますが」


竹千代の胸が、小さく強張った。伊之助の短剣を初めて手にし、殺意が制御を離れかけたあの夜のことだと、すぐに察しがついた。何と答えるべきか迷い、しばし言葉に詰まった。


お妙は竹千代の目をまっすぐに見た。「あの晩の若様のお顔、忘れられるものではございませぬ。……正直に申せば、少し、恐ろしゅうございました。ですが」と、彼女は一度言葉を切り、再び針を手に取りながら続けた。「わたくしが恐ろしかったのは、若様御自身ではございませぬ。若様が、そのお力の重さゆえに、お独りで抱え込んでしまわれるのではないかということにございます」


竹千代は俯いたまま、しばし何も言えずにいた。火鉢の炭が、小さく音を立てて崩れた。お妙はその沈黙を咎めることもなく、ただ静かに繕い物の手を動かし続けた。「わたくしは、若様のお心の内までは分かりませぬ。学もなく、算術も武芸も存じませぬ」やがて、独り言のような口調で、彼女はぽつりと付け加えた。「ですが、若様が独りで淵を覗くようなお顔をなさる度、この胸が締め付けられます。それだけは、確かにございます」


竹千代はようやく顔を上げた。「お妙は、拙者が恐ろしゅうはないのか。……先だっての夜、あのように我を失いかけた拙者が」


その問いに、お妙は針を持つ手を止め、きっぱりと言い切った。「恐ろしいのは、若様が我を失うことではございませぬ。若様は乳飲み子の頃から、わたくしがこの手でお育て申し上げました。どれほど強うおなりあそばしても、わたくしにとっては、いつまでも若様は若様にございます。恐ろしいものを見たとて、離れとうなどございませぬ」


竹千代の目の奥が、じんと熱くなった。声を出せば震えてしまいそうで、ただ「かたじけない」とだけ、絞り出すように呟いた。


「さ、根を詰めすぎてはお身体に障ります」お妙はことさら明るい声で言うと、繕い終えた稽古着を丁寧に畳んで竹千代の膝に乗せた。それから、幼い頃によく聞かせてくれた子守唄を、低く小さな声で口ずさみ始めた。舟を漕ぐような、ゆったりとした調べだった。


竹千代は火鉢の温もりに包まれながら、その懐かしい旋律に耳を傾けた。名簿の一件も、殺意の重みも、この刹那だけは遠く霞んでいくようだった。歌が終わると、お妙は「そろそろお休みなされませ」と静かに促し、竹千代は稽古着を抱えて腰を上げた。障子を閉める間際、振り返ると、お妙はまだ火鉢の傍らで、こちらを見送るように微笑んでいた。母屋の外では、師走の夜風が乾いた音を立てて庭木を揺らしていたが、この小さな部屋の中だけは、ただ穏やかな時が流れていた。

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