第二十五話 地ならし
一
東隣の村へ向かう道すがら、松丸は懐に忍ばせた塩の包みを幾度も確かめていた。「これで先方の顔が立てば良いがな」その呟きに、竹千代は轡を並べながら答えた。「多すぎても勘繰られましょう。分相応というのが、かえって信を得る近道にございます」
東隣の村の名主・弥兵衛は、齢六十を超えてなお矍鑠とした老爺で、囲炉裏端に二人を迎え入れると、開口一番に相好を崩した。「阿久居の若殿がわざわざお越しとは。此度の歳暮の一件、隣村にまで聞こえておりますぞ。律儀なお家じゃと、皆が申しております」
松丸は塩の包みを差し出し、あくまで世間話の体で切り出した。「弥兵衛殿にも、日頃より水路の融通で世話になっておる。ささやかながら、お納めくだされ。……ところで、来月の年貢取次には、御奉行所の下役殿もお出向きになると伺いましたが」
弥兵衛は塩の包みを押し戴きながら、目を細めた。「いかにも。若い下役殿での、まだ役目に不慣れなご様子。……何ぞ、御用でも」
「なに、大した用ではござらん」松丸は努めて軽い調子を崩さなかった。「ただ、名簿再編の一件、我が家にとっては家の浮沈に関わる大事。取次の折にでも、下役殿へ我が家の律儀ぶりをそれとなくお耳に入れていただければ、有難き幸せにござる」
弥兵衛はしばし黙考した後、深く頷いた。「よろしゅうござる。この老いぼれの顔でよければ、いくらでも使うてくだされ。ただし」と、老爺は声を落とした。「あまり事を急いては、かえって怪しまれましょうぞ。取次の折、それとなく、な」
松丸は深々と頭を下げた。「重々、心得ておりまする」
帰り道、松丸は安堵の息を吐いた。「うまく運んだな」竹千代は轡を握りながら、静かに応じた。「されど、これはあくまで地ならしにございます。下役殿の腹の内までは、まだ何一つ分かりませぬ」
二
その夜、平蔵の詰所に、竹千代と松丸がそっと集まった。灯芯の火影が、三人の顔を赤く照らしている。まず口火を切ったのは平蔵であった。「竹、松丸様。此度は、儂の肩の一件も含めて、腹を割って話しておきたいことがある」
「捨て駒動員の一件にございますな」竹千代は静かに応じた。第二十話で判明した、平蔵が先陣の捨て駒として動員されかけ、かつ竹千代自身の名がすでに今川方の目付に上がっているという、あの一件を指してのことだった。
平蔵は隻眼を伏せ、低い声で続けた。「あれから、旧友を通じて、もう少し詳しいことが分かった。加えて、目付がそなたをどう見ておるか、その風向きも、いくらか読めてきたわ」
竹千代は居住まいを正した。「して、いかなる風向きにございますか」
「うむ」松丸が代わって答えた。「儂も別途、それとなく耳にした。武芸に秀で、才知にも長けた郷士の子として、ただ目を付けられておるというだけの話ではないらしい。今川の家中とて一枚岩ではないそうでな」
平蔵は腕を組んだ。「強引に名簿へ組み込み、郷士どもの離反を招くよりは、懐柔した方が得策と説く穏健な一派もおる。……儂の旧友は、その一派に近しい」
「では、まだ望みはあると」竹千代が問うと、平蔵は首を横に振った。「望みというより、時が稼げるという程度のことよ。加えて、最終の名簿は来春の軍議で確定すると聞く。それまでは、まだ地ならしのしようがあるということじゃ」
松丸は膝の上で拳を握った。「来春までか。……存外、時が無いな」
竹千代は木片帳面を取り出し、そろばんを静かに弾いた。「今川家中の穏健な一派、東隣の名主殿、下役殿。使える手駒は、まだいくつかございます。焦って一手に懸けるのではなく、一つひとつ、地ならしを積み重ねて参りましょう」
平蔵は隻眼を細め、わずかに口元を緩めた。「そなたのそういうところは、儂には到底真似できぬわ」その声には、師としての誇らしさと、いくばくかの呆れが半分ずつ混じっていた。
三人は誰からともなく座を立ち、それぞれの部屋へと戻っていった。灯芯の火が、静かに揺れて消えた。




