第二十四話 双剣、立つ
一
夜半に降りた霜が庭一面を白く覆っていた。竹千代が寝所の板戸を開けると、霜柱を踏みしめる感触が足裏に伝わり吐く息は白く尾を引いた。昨夜の祝宴の名残か、台所の方角からはまだ微かに濁り酒と猪肉の脂の匂いが漂い、それが冷えた朝の空気に妙な温かみを添えていた。
母屋の広間では父・弥左衛門がいつになく朗らかな声で下男に指図を飛ばしていた。「今日は蔵の目録を改めるぞ。正月の支度もある」その声には、これまで一人で抱え込んでいた重圧の影が綺麗に拭い去られているのが見て取れた。傍らでは兄・松丸が、折衝の記録を丁寧に木片へ書き写しながら時折口元をほころばせている。
台所ではお妙が竈の灰を掻き出しながら鼻歌交じりに朝餉の粥を煮ていた。竹千代の姿を認めるといつもの柔らかな微笑みを浮かべる。だがその目の奥にはあの夜制御を失った殺気を目撃した恐怖の残滓がほんの僅かに揺れているのが竹千代には分かった。それでも彼女は何も言わず椀に粥をよそって差し出す。「若様たんとお食べなされ。今日は良き日になりましょう」
離れの詰所では郷田平蔵が晒しを巻いた肩を庇いながら、槍の穂先を布で磨いていた。竹千代の気配に気づくと、隻眼をわずかに細めて口を開いた。「竹か。肩はまだ本調子とは言えぬが……そなたの舞、そろそろこの目でしかと検分せねばな」
竹千代は師の前に座り、思うところを正直に述べた。「これまでは目立つのを恐れ、稽古場で密やかに磨いて参りました。されど、いつまでも隠しおおせるものでもございませぬ。いっそ、家の内だけでも見せておいた方が後々のためになるやもしれませぬ」
平蔵は隻眼を細めわずかに頷いた。「良かろう。むしろ、皆に見せておくがよい。隠し立てするほど後ろ暗いものではあるまい。そなたが殺意ではなく、美しさへ昇華させたと申すならばな」その言葉には、師としての信頼といくばくかの試すような響きが混じっていた。
二
昼下がり、庭先に筵が敷かれ弥左衛門、お蘭、松丸、お妙、そして下働きの者たちまでもが自然と輪になった。冬の陽光は淡く、竹千代の白い息が舞の間合いに合わせて揺れる。腰の短剣二振りを鞘から抜くその瞬間、場の空気がぴんと張り詰めた。
流水無形の摺り足がまず地を這うように動き出す。左手の刃が円弧を描けば、右手の刃はそれを追うように遅れて追随しやがて二つの刃は互いを補い合う流れとなった。かつて殺意を込めて振るった型が、今は殺気の欠片もなく柳の枝がしなるように、あるいは川面に舞い落ちる紅葉のようにただ滑らかに空を切る。
見守る者たちの表情は様々であった。お蘭は口元に手を当て、涙を堪えるように瞳を潤ませた。「この子は……いったい何処からこのような美しさを」松丸は腕組みをしたまま微動だにせず、ただ弟の舞に見入り「これが武芸か、それとも……」と言葉を途中で呑み込んだ。下働きの女中の一人が「まるで狐狸の類が見せる幻のよう」と隣の者に囁くのを、お妙が素早く一瞥して黙らせた。
演舞が終わると平蔵は片膝をつき傷んだ肩をものともせず深く頭を垂れた。「殺意を美しさへと転じるとは大した心の据わりようにございます。まずは良き兆しと申し上げておきましょう」その一言に弥左衛門は感極まり、松丸は弟の肩を抱き寄せお妙はそっと目元を拭った。
一同がしばし言葉を失っていると、竹千代がふと口を開いた。
「皆も、よければ試しにやってみませんか? 難しいことは何もございませぬ。ただ、水が流れるようにというだけのことです」
その言葉に父がゆっくりと口を開いた。「木剣であれば、儂も混ぜてもらおうか」普段は威厳を崩さぬ当主のその一言に、まず松丸が「父上まで」と声を上げて笑い、次いでお蘭が夫の意外な姿に「まあ」と笑いを堪えきれずに口元を押さえた。
下男が納屋から木剣を何本か運んでくる。竹千代は皆に大まかな摺り足と左右の腕を交互に流すだけの単純な型を教えた。「難しいことは考えずただ水が流れるように」その言葉通り最初はぎこちなかった弥左衛門の木剣捌きも次第に体に馴染んでいった。しかし当主たる者若い頃から槍働きこそ得意なれどこうした柔らかな動きには不慣れと見え足がもつれて危うく転びかけ周囲からどっと笑いが起こった。
お蘭は袖をたすき掛けにして意外なほど軽やかに腰を落とし松丸は生真面目な顔で型をなぞろうとするあまり逆に不格好な動きになった。お妙は木剣を持つ手すら覚束なくくるりと一回転してよろめき竹千代が慌てて支えると二人して声を上げて笑った。庭先は正月の祭りのような賑わいとなり先ほどまで演舞に抱いていた妙な畏れはこの滑稽な光景の前にすっかり霧散していった。
平蔵だけは肩を庇って輪には加わらなかったが、腕組みをしたまま口元を綻ばせ「阿久居の家は、これだから底が知れぬ」と呟いた。その声に棘はなく、ただ深い愛情だけがあった。
三
一同が引き上げた後、竹千代は懐から木片帳面とそろばんを取り出し、父の前に膝を折った。「父上、折り入ってお耳に入れたき儀がございます」先ほどまでの寛いだ空気を纏いつつも、声音だけは商談に臨む商人のように引き締まった。
「裏の休耕地あそこは水はけが悪く田には向きませぬ。されどそれゆえにこそ使い道がございます」と切り出し竹千代は今川の軍役供出により馬が根こそぎ召し上げられ荷駄はおろか万一の折にも自前の足が心許ないという現状の弱点を指摘した。次にそろばんを弾きながら休耕地を飼葉の草地に転用する案老爺の木組みの技で簡素な厩を建てる算段彦太に帳面をつけさせて飼育の記録を残す仕組みまで順序立てて語った。木片には必要な木材の本数人足の日数飼葉の収穫見込みまでもが几帳面に書き込まれている。
弥左衛門は木片を手に取り暫し無言で目を走らせた。眉間に皺が寄る。「筋は通っておる。……が」と父は木片を膝の上に置いて竹千代を見据えた。「今人手はどうなっておる。若い衆二人は普請奉行のもとへ出しっぱなし残る村人は冬の備蓄で手一杯であろう。それに厩など普請すれば人目にもつく。せっかく奉行の心証を得たばかりぞ今は目立つ真似は慎むべきではないか」
その指摘は的を射ていた。竹千代は一瞬言葉に詰まったが、すぐに頭を垂れた。「父上の仰る通りにございます。ならば、まずは小さく参りましょう。老爺一人の手を借り、垣根で囲うだけの試しから始めとうございます。厩の普請は、人足が戻り雪が解けてからで構いませぬ」
弥左衛門はしばし目を閉じやがて頷いた。「よかろう。小さく始めよ。それに、老爺には他の仕事の合間にやらせよ無理はさせるな」当主としての慎重さと、次男への信頼が入り混じった裁可であった。
竹千代は父に一礼し静かに部屋を辞した。名簿の一件は、まだ何一つ確約を得てはいない。だがこの束の間の安寧の中で、家のために打てる手はまだいくらでもある……そう思うと、冷えた廊下を歩む足取りにもいくらかの張り合いが戻ってくるのを感じた。




